3月27日(土)は埼玉県さいたま市岩槻城での見学会があり参加しました。日本城郭史学会主催の見学会です。昨年の武漢ウィルスの影響で2020年は3月以降の活動は一時中止となり約1年ぶりの城郭史学会の見学会でした。今回の見学会は史学会委員の阿部和彦さんが案内してくれました。阿部さんは2019年6月の小金城以来の案内です。城郭史学会のイベントがなかったので当ブログも久しぶりの更新です。

 

岩槻城址公園の桜

 

 当日は岩槻駅改札外に集合です。集合時間が近づくと参加者は徐々に集まり始めました。1年ぶりに再会する方が多かったです。この日は天気がとてもよくて見学会開催には絶好の日よりでした。岩槻駅を出て最初の目的地である岩槻郷土資料館を目指します。

 

1年ぶりの見学会開始

 

 郷土資料館の前の道は江戸時代は日光御成道でした。徳川将軍家の日光社参専用道路として整備されました。日本橋を起点に途中で本郷追分で中山道と分かれて、岩淵、川口、鳩ケ谷、岩槻を経由して幸手で日光街道に合流する街道でした。

 

旧御成道前

 

 郷土資料館の建物は昭和初期に建築された警察署を利用しています。岩槻の歴史資料を展示していて無料で見学できます。岩槻城の立体模型を見て、これから見学する岩槻城の概要をイメージします。
 

岩槻郷土資料館

 

 郷土資料館を出て西に少し進むと加倉口跡を通ります。ここは岩槻城南西の入口です。今は何も残っていませんが城外は城内より少し低くなっているのが現地に行けば分かります。

 

加倉口跡

 

 次は浄国寺を目指します。浄国寺は江戸時代初期に岩槻城にいた阿部氏の菩提寺であります。浄国寺のお堂の瓦には松平家の葵家紋が記されています。徳川家康の異母弟である久松松平定勝の娘正寿院が岩槻藩の阿部重次に嫁ぎました。家康の姪が嫁いだ事から葵家紋が描かれました。
 

浄国寺の桜

 

浄国寺のお堂の葵紋

 

岩槻藩主阿部氏の墓所

 

 岩槻城はこれまで太田道灌が築城したといわれてきました。鎌倉大草子に「長禄元年(1457)四月上杉修理大夫持朝入道、武州河越の城取立てらる、太田備中入道(道真)は武州岩付城を取立、同左衛門大夫(道潅)は武州江戸の城を取立ける。」の記載があり、これを根拠としてきました。近年の研究では鎌倉大草子の記載内容は疑問視される事があります。最近では岩槻城は古河公方側の成田氏によって築城されたのではといわれています。現地岩槻では今でも太田道灌の城だと顕彰されています。真偽は何れでしょうか。

 

太田道灌像

 

 次は芳林寺を見学します。ここは太田氏ゆかりの寺院で太田氏の供養塔、入り口には騎乗する太田道灌の銅像があります。岩槻太田氏の氏資と母芳林院の霊廟があります。太田氏資は道潅の曾孫である太田資正の長男で小田原の後北条氏と組んで父資正を岩槻城から追い出して岩槻太田家の家督を継ぎました。その後、氏資は上総三船山合戦で討ち死にします。

 

芳林寺前

 

太田氏資と母芳林院の霊廟

 

 岩槻市内には江戸時代後半に開設された岩槻藩藩校の建物が残っています。埼玉県で唯一残る藩校の建物です。1799年(寛政11年)岩槻藩の儒学者児玉南柯(こだまなんか)が創設した私塾として始まり、文化年間に藩校となりました。
 江戸時代中期に大奥で江島生島事件が発生しました。江島生島事件は大奥最大の事件で今でも有名な出来事です。児玉南柯の祖父豊島常慶はこの事件の当事者の江島の弟になります。常慶は江島の血縁者なので連座となり一時期流罪になりました。豊島氏出身の南柯は岩槻藩士児玉氏の養子となりました。

 

岩槻藩藩校遷喬館

 

 岩槻には時の鐘が残っていて、今も決まった時間に鐘が鳴り時報の役目をします。同じ埼玉県の川越の時の鐘ほど有名ではありません。あまり目立たず町中にひっそりとありました。江戸時代に「岩槻に過ぎたるものが二つあり、児玉南柯と時の鐘」と言われていました。その二つに関係する建物が今でも岩槻に残っています。

 

時の鐘

 

 次は浄安寺を目指します。ここ浄安寺には江戸時代初期に岩槻城に入った高力清長の墓があります。高力清長は永禄年間に三河三奉行の任命されて「仏の高力」といわれていました。その後、高力氏は島原の乱後に肥前島原へ転封となり岩槻を離れました。ここにある山門は御成街道の田中口にあった門を移築したといわれています。

 

浄安寺山門

 

浄安寺境内

 

 浄安寺の途中に渋江口跡があります。ここで御成道と旧鎌倉街道である中ノ道が合流しています。道の隅にひっそりと石碑があります。

 

渋江口跡

 

 岩槻城は本丸、二の丸、三の丸は都市化されて市街地になっていて石碑があるだけで遺構は全く残っていません。城の南側の新曲輪と鍛冶曲輪の部分が岩槻城址公園になっています。公園内には曲輪と土塁、空堀、馬出、城門が残っています。公園内には岩槻城で使用されていた長屋門と高麗門が移築されています。城のどこで使用されていた門かは不明です。門はよく見ると少し傷んでいるのが分かります。門が修復されるのを望みます。

 

岩槻城の移築門

 

 移築門を見学して岩槻城の新曲輪、鍛冶曲輪に入ります。新曲輪は名前の通りに1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に備えて築かれた曲輪だと思われます。隣接する鍛冶曲輪もこの時に一緒に築かれた思われます。この二つの曲輪は土塁と空堀がよく残っていました。土塁の上を歩ける箇所があるので土塁上を歩いて見学しました。

 

鍛冶曲輪

 

新曲輪土塁上

 

新曲輪土塁2

 

 新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀には発掘調査の結果で堀障子がある事が確認されています。堀障子は堀底に設けられた畝などの障害物で静岡県山中城の堀障子が有名です。岩槻城の堀障子は発掘調査後に埋められて、今ではその上に土管を配置されていています。

 

堀障子跡

 

 岩槻城には少し分かりにくいですが曲尺(かねの)馬出が残っています。曲尺馬出は角馬出の一種で直角に曲がった塁濠部分にある長方形の馬出です。岩槻城には二つの曲尺馬出が残っていますが、説明板等の案内がないので気がつかずにそのまま通り過ぎる人が多いです。せっかくの城郭遺構が残念です。
 

この先は曲尺馬出

 

 岩槻城新曲輪を見学した後は最後の目的地である愛宕神社を目指します。岩槻城は城下町を大構の土塁で囲んでいました。その長さは8キロにも及んだそうです。現在では都市化された大構の土塁はここ愛宕神社にしか残っていません。土塁の上には愛宕神社が鎮座しています。高さは5M以上ある土塁です。

 

愛宕神社(大構跡)

 

 これで今回の見学会は終了です。この日の見学会は2020年度最初で最後の見学会になりました。5月以降も見学会を予定しているとの事です。予定通り開催される事を期待しながら今回のブログも終了します。