9月28日(土)は日本城郭史学会主催で山梨県要害城と熊城見学会がありました。今回の見学会は城郭史学会会員の岩本誠城さんが案内してくれました。岩本さんは朝日新聞山梨版で「城の歴史散歩」を連載していました。山梨県の有名な城から無名な城まで二百以上の城を紹介しました。山梨県の城郭に熟知した方で、朝日新聞の連載記事は「山梨の古城」として書籍にもなりました。

 

甲府駅北口にある武田信虎像

 

 集合場所は甲府駅改札口外でした。集合時間の12時が近づくと徐々に参加者は集まりました。険しい山城の見学会でしたが30人近い参加者がいました。参加者がそろったら甲府駅北口に移動します。

 

集合場所の甲府駅

 

 北口に移動したら城見学の案内講師の岩本さんから今回の見学会の簡単な説明がありました。熊城は要害城に着いたら再度、皆の意見を聞いてから行くかどうするか決めるとの事でした。タクシーに分乗して要害山の登山口を目指します。

 

甲府駅北口

 

 要害山の麓に着いたら、登山前に岩本さんから今回見学する要害城と熊城の概要についての説明がありました。

 要害城ではなく要害山が国指定史跡になっていて、その区域内にある要害城も国指定史跡になるとの事でした。高白斎記によると永正17年(1519年)6月に「積翠寺丸山を御城に取立て被普請初る」の記述があります。当時の史料から要害城が永正17年武田信虎によって築城されたことが分かります。

 熊城は文献史料が少なくて正確な築城時期は不明です。要害城の南東側に位置して、両城の間には水の手になる沢があります。要害城築城後に水の手を守るために武田信虎が築城したのが有力だと言われています。熊城は武田信玄、勝頼時代に築城された説もあります。

 

要害山登山口

 

 岩本さんの説明が終わると、いよいよ要害城へ登山開始です。麓の登山口から主郭まで比高は200Mほどで本格的な山城です。途中の遺構を見学しながらゆっくり進みました。

 

要害城へ登山開始

 

要害城へ向かう

 

 しばらく進むと、門跡に入りました。ここは枡形虎口を形成しているのがはっきり分かりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以降に枡形虎口は門を二門使うようになりました。要害城の頃は外側の門はあっても内側の門はなかったかもしれません。ここの枡形虎口は江戸期の近世の枡形とは少し違うかもしれません。

 

要害城門跡

 

要害城城内

 

 しばらく城内を進むと不動曲輪に着きました。不動明王像があることから江戸時代後期に不動曲輪と名付けられました。不動曲輪から麓の躑躅ヶ崎館まで2.5キロなので館がよく見えるはずですが、木が生い茂っていて見えませんでした。

 

不動曲輪にて

 

 途中の帯曲輪には井戸跡と諏訪明神の祠がありました。

 

井戸跡

 

 要害城の各所には石積みがありました。天正4年(1576年)長篠合戦敗北後に武田勝頼が要害城に改修を命じています。天正18年に加藤光泰が甲斐に転封となり要害城を改修しています。石積みは勝頼時代か加藤光泰時代のどちらかだといわれていますが、天正末期の加藤時代の石積みであるのが有力です。

 

石積みを撮影中

 

 途中の遺構を見学しながら要害城の主郭に着きました。主郭は長方形の形をしていて、北が搦手、南が大手になります。

 大永元年(1521年)駿河の今川氏家臣の福島正成が大軍を率いて甲斐に侵攻して、武田信虎はこれを迎え撃ちました。信虎の妻である大井夫人は要害城に逃げ込み、ここで武田信玄を生んだといわれています。実際は大井夫人は要害城ではなく、麓の積翠寺で信玄を生んだのではないかといわれています。麓の積翠寺には信玄公産湯の井戸が今でも残っています。

 要害城主郭には東郷平八郎元帥の書である「信玄公誕生之地」の石碑があります。信玄が要害城で生まれたか怪しいので石碑は「生誕の地」ではなく「誕生の地」で曖昧にしている気がします。

 

要害城の主郭にて

 

 ここで熊城に行くかどうするか参加者に確認しました。熊城見学を諦めて要害城で引き返す人もいましたが、ほとんどの人が熊城に向かいました。山梨の城のスペシャリスト岩本さんが案内してくれて、天気の心配もないので熊城に行くには千載一遇の日でした。

 

要害城の主郭にて2

 

 要害城の東側から城外に出て、熊城に向かいました。山の尾根の遊歩道に沿って進みました。熊城まではあまりいい道はないと事前の説明で聞いていましたが、はっきりとした道が続きました。

 

熊城に向かいます。

 

 しばらく進むと遊歩道を南に曲がりました。この分岐点には唯一の目印となる灰皿がありますが、熊城の案内は一切ありません。熊城への道は何とかありますが、これまでの遊歩道に比べると分かりにくかったです。いきなり少し急な斜面を下りました。

 

熊城に向かって下ります

 

熊城に向かって下ります2

 

 その後は下り道が多く、徐々に下りながら熊城に近づきました。岩本さんの説明では熊城は主郭に着くまでに二本の堀切を通ります。堀切は登り降りしやすいようには整備されていないとの事でした。

 熊城への最初の関門である北側の一本目の堀切に着きました。堀切は当時の比べたら多少は崩れて埋まっていると思いますが、堀の幅と深さは今でも城に侵入する者への障害になっています。ハイキングで熊城を縦断する人が時々いるので登り降りした道が残っています。歩けそうな所を探して堀切を突破しました。

 

堀切を縦断中

 

 一本目の堀切を通過したら、すぐに二本目の堀切がありました。ここを通れば主郭に着きます。一本目の堀切より険しいように思えました。歩けそうな場所を探しながら堀切を突破しました。険しい二本の堀切でしたが、通り抜ける事で険しさを体感することができました。主郭の背後の搦手側を大堀切で城外と分断するのは武田家の築城術でよく見られます。

 

主郭北側の大堀切

 

大堀切を登っています

 

 二本目の堀切を通ったら熊城主郭に着きました。主郭はそれほど大きな曲輪ではなかったです。堀切がある北側の土塁が残っていました。分かりにくいですが主郭の東側には石積みと畝状竪堀がありました。

 

熊城主郭にて

 

熊城主郭東側にある石積み

 

 熊城の主郭を見学したら下山開始です。途中で現地だとはっきり分かる畝状竪堀群がありました。写真だと分かりにくですが現地で見ればよく分かります。熊城は堀切や畝状竪堀は要害山以上見事でしたが、城内には説明板や名称板は一切ありませんでした。道標すらなかったです。草木が生い茂っていて見学に支障が出た要害城より見学しやすかったです。

 

熊城南側の畝状竪堀

 

 途中難路が多くて転んだ人がいましたが、幸い怪我をする人はいませんでした。遊歩道にそって下っていくと舗装された道路に出ました。これで下山が終了です。帰りもタクシーで甲府駅に戻るので駐車場がある積翠寺に向かいます。

 

下山終了

 

 熊城は要害城よりは道が険しくて分かりにくくて、難易度の高い城でした。それでも行く価値は十分ありました。要害城は竪堀や石積み、曲輪は草が生い茂り分かりにくかったですが、熊城の方が石積みや堀切、竪堀が分かりやすかったです。よほど山城に慣れた人でなければ熊城は単独で行くのは難しい城です。今回は山梨の城を熟知した岩本さんの案内だったので、無事に熊城を見学できました。分かりにくい道も間違える心配がなく安心して熊城に行けました。