7月27日(土)は日本城郭史学会で2019年度第1回城郭史セミナーがありました。テーマは「城柵と山城 古代国家の東西軍事施設の実像」です。今回のセミナーは古代山城研究会の代表向井一雄氏を講師に招きました。

 

今回のセミナーのテーマ

 

 日本の城は中世戦国時代から近世江戸時代までの期間が有名ですが、飛鳥、奈良、平安時代にも城はありました。古代山城は1980年前後に遺跡が発掘された事もあり一時期ブームになりました。日本百名城に古代山城である大野城、鬼ノ城が選ばれた事もあり、最近でも注目されています。

 この日のセミナーは板橋区グリーンカレッジホールで開催です。今回のセミナーは50人近くの参加者がいました。遠くは京都、福島から参加された方がいました。

 

本日のセミナー会場

 

 古代山城の呼び方ですが、史跡、文化財としての名称分類での呼び方は「こだいさんじょう」との事でした。古代山城があった日本各地の町で古代山城サミットが開催されています。こちらでは「こだいやまじろ」と呼ばれています。「さんじょう」でも「やまじろ」でもどちらでもいいとの事ですが、正式な場所では「さんじょう」と呼ぶ方が間違いないでしょう。

 

セミナーの様子1

 

 2年前に向井一雄氏を講師に招いて城郭史セミナーがありました。その時の内容は少し難しかったとの事で、今回は少し平易なセミナーになるとの事でした。史学会の人が聞いても難しい内容のセミナーはどんなのだったか気になりますが、この日のセミナーの内容はとても分かりやすかったです。

 

 

古代山城研究会代表 向井一雄氏

 

 これまでは文献史料に記載されている城を朝鮮式山城、記載のない城を神籠石系山城と分類しています。現在は朝鮮式山城と神籠石系山城を合わせて古代山城と呼ぶようになってきています。文献史料のあるなしでの城の分類を見直す時期に来ているとの事でした。

 

セミナーの様子2

 

 古代山城の解説をしながら城柵との比較を解説しました。古代山城からは発掘調査で武器はあまり出てきません。兵が駐屯した痕跡も少ないとの事でした。実際の戦いがなかったためか古代山城は城と言っても軍事色が少なかったです。

 城柵では武器が多く発見されて、数百から千人以上の兵員が駐屯した住居跡が発見されています。何ヶ所かの城柵では実際に戦いがありました。柵と呼ばれていますが、軍事色が強く、実際は城としても役割を果たしていました。

 

 スライドを使って解説中1

 

 セミナーは事前に用意した資料をスライド化してプロジェクタに投影しました。スライドを交えての解説だったので地図や小さい図面、写真も分かりやすかったです。

 

スライドを使って解説中2

 

 高安城は以前に自然石を勘違いして、石垣を発見したと騒いだ事がありました。古代山城の遺構を見たことがない人が石垣を見て古代遺跡だと勘違いする事がこれまで多々ありました。

 

高安城の説明中

 

 現在の麹智城は城内に平屋建ての兵舎が復元されています。当時はあんな立派な建物が兵舎だったことはあり得なく、当時の兵舎は竪穴式住居だったとの事でした。

 

麹智城の復元兵舎?

 

鬼ノ城

 

 古代山城の解説が終わったら、東北城柵の解説が始まりました。

 東北の城柵は征夷大将軍坂上田村麻呂や蝦夷の英雄アテルイが活躍する平安時代初期の印象が強いですが、実は647年に渟足柵が設置されています。古代山城の文献史料の初見は664年です。実は古代山城よりも城柵の方が記録だけで見ると古くからあります。

 宮城の伊治城は大和文化と蝦夷の文化の境目になります。伊治城は古墳文化の最北端で、伊治城より北は蝦夷文化になります。。蝦夷と呼ばれるようになった理由は6世紀の国造制に入っていなかったためとの事でした。

 

東北の城柵の説明中

 

 最後に古代山城、東北の城柵がその後どういう歴史をたどったかを解説してくれました。

 古代山城の大野城は70軒の倉庫を建てられて、倉庫は米蔵でした。城から倉庫になり、876年の記録では大野城は40人が90日交代で常時10人で守備していました。城とは思えない少人数で管理していたの事でした。
 麹智城も多数の倉庫を建てられて、その後、12世紀まで四王院になったとの事でした。

 

大野城

 

 東北の城柵は10世紀に入っても6城残り、878年の元慶の乱後は蝦夷の記録はなくなりました。11世紀には蝦夷の末裔である俘囚の安倍氏や清原氏の内紛があり、源頼義、義家父子が内紛に絡み前九年の役、後三年の役が起こり、乱後は清原氏の後継者として奥州藤原氏が東北を治めます。

 

大鳥井山遺跡の二重土塁と堀


 1189年文治5年、源頼朝と奥州藤原氏の戦いである阿津賀志山での戦いが東北の城柵の
最後との事でした。二重堀と二重土塁の築城技術は11世紀後半の後三年の役の時に出羽の大豪族の清原氏の大鳥居山遺跡に存在していました。奥州藤原氏はその築城技術は継承して、本拠地平泉の伽羅御所に二重堀を築きました。

 源頼朝との戦いであった阿津賀志山防塁でも二重空堀と土塁はあり、阿津賀志山防塁は東北の城柵の最終形態との事でした。阿津賀志山防塁を最後に中世に入っていきます。

 

 

阿津賀志山防塁

 

 途中休憩なしで1時間30分を越えるセミナーでした。興味深い話の連続だったので終わってみるとあっという間でした。古代山城より東北の城柵の方が軍事色が強く城らしかったのは意外な事実でした。もう少し東北の城柵の話を聞きたかったです。

 解説が終わった後は質疑応答がありました。質疑応答の最後に西ヶ谷代表から東北の城柵はどれくらいの家があったかの質問がありました。志波城では竪穴式住居が千棟あったとの事で最低でも千名以上、千単位の人員が常駐したと考えられるとの事でした。 西ヶ谷代表の質問を最後に今回の城郭史セミナーは終了しました。

 古代山城は何城か行ったことがありますが、中世や近世の城ほどの知識はなかったです。今回のセミナーで断片的だった古代山城の知識の空白を埋める事が出来ました。

 なお、当ブログの写真の掲載は向井一雄氏と日本城郭史学会の了承を得ています。