朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪(その4) | 日本人の進路

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朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪(その4)








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朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪(その4)


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朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書
-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪



2013年11月







 (続き) 








中国の朝鮮戦争参戦と5回にわたる攻勢







2.中国軍の朝鮮戦争参戦

1950年10月19日、中華人民共和国が、中国人民支援軍の名の下に
派遣した中国軍が鴨緑江を渡った。

この事実を確認したスターリンは、すぐに、ソ連航空部隊の朝鮮戦争参加を
許諾。第64戦闘航空団が1950年1月に創設された。この航空団に属する
戦闘機は、北朝鮮北部上空から、中国軍と北朝鮮軍を保護した。

スターリンは、ソ連軍の参戦を隠蔽するため、操縦士に中国服を着るよう指示した。
 






(1)国連軍を敗退させることが目標

中国軍が秘密裡に鴨緑江を渡った直後の10月20日、中国人民支援軍総司令官・
彭徳懐は、北朝鮮で金日成と朴憲永に会った。この場で彭徳懐は、中国軍の
軍事作戦と関連して三つの可能性を提示した。
 





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第一は、国連軍を除去し、共産側の主導の下に朝鮮問題を合理的に解決する。

第二は、国連軍を除去することはできないか、共産軍はそれなりに基盤を確保
することで戦況を膠着させる。

第三は、国連軍を除去することも、共産軍なりの基盤を確保することもできない
まま、中国に帰るようになる。

彭徳懐は、もちろん自分は第一の目標の達成のために最善をつくすと念をおした。
 


これは毛沢東の意見とも一致した。この点に照らして、中国は一次的には、
自らの安保のために参戦したのは事実だが、革命主義に即して参戦したことも
事実である。前述したように、毛沢東は、朝鮮の社会主義革命と、中国の社会
主義革命、そして東アジア全域の社会主義革命を成功させるためには、
朝鮮から国連軍を追い出して、北朝鮮路線による統一が成立しなければならない
という気持ちを持っていたのである。

このように非常に野心的な目標を設定したと言っても、中国軍は、はじめは
攻撃的な姿勢を取らなかった。国連軍の、特に米国の空軍力に対する恐怖心が
兵士たちの間に広がっていたために、防御的な姿勢を取った。
 









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しかし、実際に北朝鮮に入った後に、彭徳懐は考えを変えた。国連軍・
韓国軍の北進があまりにも速くて、防御体制を固める時間も空間もなかったと
判断したのである。

それで、彭徳懐は、国連軍・韓国軍が中国軍の参戦に気づいていない
ことに着眼し、奇襲攻撃を行うことを決定した。毛沢東も同意した。

そして、10月25日、第1次攻勢を開始した。
 


彭徳懐の中国軍は、当初、国連軍・韓国軍との接触を避けながら、
方々に、奇襲攻撃に有利な陣地を確保した。

その後、国連軍・韓国軍を巧みに誘き寄せ、果敢な奇襲攻撃を行った。

11月8日まで続いた第1次攻勢は大成功だった。

この第1次攻勢によって、韓国軍は1万5,000人が戦死した。

鴨緑江まで進撃していた韓国軍は、平安北道から平安南道を超え
黄海に至る清川江まで敗退せざるを得なかった。

中国軍の士気は大きく上がった。
 












(2)米軍史上「最も恥ずべき敗退」


中国軍が第1次攻勢で大勝利をおさめ、朝鮮半島で「全く新しい戦争」が
始まったとの報告を受けても、マッカーサーは、中国軍の戦争遂行能力をまともに
評価していなかった。仁川上陸作戦の大成功で、そして破竹の勢いの快速北進で
つくられた自信感に満ちあふれていた。

マッカーサーが、「中国軍は私の手の内にある」と言った。中国軍を過小評価
してはいけないという忠告を一.蹴した。マッカーサーは、相変わらず、
過去の実績、独特の自信感にどっぶり浸っていた。

老練な彭徳懐は、マッカーサーの自信および傲慢さを逆手に取ろうと考えた。
 


それで、第2次攻勢を開始するのに先立って、彭徳懐は全軍に、意図的に、
大変軟弱に見せよと命令した。すべての部隊は30キロメーターずつ後退し、
非常に有利な位置を掌握して、国連軍・韓国軍に打繋を与える
一番良い機会を、注意深く待てと指示した。毛沢東もこの作戦を支持した。

1950年11月25日から第2次攻勢が開始された。

同日、毛沢東の長男・毛岸英が米軍爆撃機か投下したナパーム弾を浴びて、
平安北道朔州郡にあった中国人民志願軍の司令部で戦死した。当時、
彼は28歳で結婚したばかりだった。彼はロシアに留学した経歴を認められ、
彭徳懐の秘書兼ロシア語通訳官として勤務していた。そのため、彼は銃も
携帯していなかった。

周恩来を通じて長男の戦死の報告を受けた毛沢東は、しばし息を殺した。
しかし、毛沢東は、すぐ、「戦争中には、誰でも死ぬ可能性があるさ」と短く言った。
 




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中国軍の第2次攻勢に直面し、国連軍は敗退を続けなければならなかった。
この敗退は、G.ボーラック教授の表現では、アメリカの軍史上、
「最も恥ずべき敗退」だった。

その結果、中国軍は、1950年12月4日に平壌を奪還した。

1950年12月中旬までに、北朝鮮のほとんど全地域を掌握した。

この中国軍の第2次攻勢は、1950年12月24日に終わった。
 






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この過程で、二つの有名な戦闘があった。

一つは、11月25日から30日まで続いた清川江戦闘である。この戦闘で
中国軍は、米第8軍を南方に敗退させた。
 





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冬山で、中国軍と、何のために、戦うのか? 




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もう一つは、長津湖の戦闘である。長津湖は、成鏡南道長津郡に位置した貯水池
であった。米海兵隊は、11月27日から12月11日まで、厳寒の中で、
長津湖一帯を包囲した中国軍を相手に死闘を繰り返し、脱出路を開くのに
成功した。この戦闘での勝利で、米軍は、南への避難を願う北朝鮮の住民たちと
共に、成鏡南道の湾口都市である興南から撤収することができた。

1950年12月9日から24日まで続いたこの撤収は興南撤収と呼ばれている。
 













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2度の攻勢はすべて中国軍の大勝利に終わった。 







毛沢東は、国連軍を解散させ、米軍を朝鮮半島から撤退させ、ソ連・中国・
北朝鮮の立場での合理的な枠組みの中で朝鮮半島問題を解決するという、
最初の目標が達成できるだろうという楽観的見解を持つようになった。

現地情勢明るい彭徳懐は、毛沢東と違って、慎重な評価を下した。

彭徳懐は国連軍の主力が敗れたのではないことに注目していた。

中国軍は、38度線で停止し、朝鮮戦争開戦以前の原状を回復することで
満足しなければならないと主張した。

しかし、結局、彭徳懐は、「軍事でも天才」であり、最高権力者でもある
毛沢東に従うことにした。
 









(3)彭徳懐の慎重な作戦


このように、中国軍が軍事的な大勝利を繰り返し、38度線に接近するや、
国連では、さまざまな休戦案が提出された。

特に英国をはじめとした西側の参戦国が主導して、中華人民共和国を
国連安全保障理事会に出席させ、朝鮮半島問題と台湾問題を討論するという
決議案を通過させた。

中国は、外交部のソ連・東欧局長・伍修権を、大使兼特派代表に任命して、
国連へ派遣した。

伍修権は、11月27日に国連政治委員会に、翌日に国連安全保障理事会に
それぞれ参加した。
 


中国代表が国連の会議に参加したのは、その時が初めてであった。
これは国際社会の大きな関心を集めた。

伍修権の態度は、戦場での優勢を反映するように非常に強硬だった。

休戦に対しては関心を見せず、朝鮮半島から、米軍をはじめとした
すべての外国軍の撤退を実現させるために、効果的な措置を取らなければ
ならないというところに力点を置いたのである。

米国の態度も強硬だった。英国との葛藤を深くしないよう、休戦の原則に
同意するという米・英共同声明を発表したが、基本的には、戦争継続を
主張し、1951年2月1日、国連総会で、中国を侵略者として規定する
決議案を通過させることに成功した。
 


一方、中国は、第3次攻勢を開始することを決定した。

毛沢東は、周恩来と共に、1950年12月初めに、金日成と北京で会談し、
彭徳懐を総司令官にして、朝中合同軍事本部を発足せることに合意した。

1950年12月31日から、第3次攻勢が始まった。

1951年1月4日、中国軍は、ソウルを占領した。
 











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第3次攻勢の最後の日である1月8日までに37度線まで下がっていった。

この時点で、彭徳懐は作戦を停止した。

老練で慎重な彭徳懐は、戦勝に酔わず、状況を綿密に分析していた。

国連軍が、相変らず、軍事技術で優位を占めている。中国軍の背後から
上陸作戦を敢行することがあり得ると判断したからである。そうなった場合、
中国軍は、軍需品と食糧補給が不足するうえ、通信が円滑でないため、
効果的に抵抗することができないだろうと正確に読んだ。

それで、彭徳懐は、国連軍の継続的な敗退は、中国軍を深く誘引しながら、
疲労させる戦略ではないかと疑っていた。

中国人民志願軍・総司令官・彭徳懐の判断は、ほぼ正確だった。

国連軍、特に米軍は、敗退を繰返しながらも、中国軍が、武器と弾薬を含む
軍需品の不足に苦しんでいるという事実を見逃さなかった。

国連軍は大規模な反撃を準備していた。
 










3.中国軍の後退と休戦

(1)中国軍の第4次攻勢

彭徳懐は、中国軍のソウル占領後の状況と米軍の戦力を慎重に分析した。
その結果、ソウルを放棄して、漢江以南を国連軍に渡して、ある時点で、
名誉ある休戦を成立させることが望ましいと判断した。

しかし、毛沢東は、彭徳懐とは異なった判断であった。毛沢東は、戦況は中国軍に
有利に推移していると判断していた。

1951年1月28日、毛沢東は、彭徳懐に電報を打って、第4次攻勢を準備せよと
命令した。第4次攻勢が成功すれば、米国は、中国と北朝鮮に有利な条件で、
休戦に応じるようになると判断したのである。 


毛沢東は、第4次攻勢が満足に展開され、忠清南道大田市と、慶尚北道
安東郡以北の占領に成功すれば、2~3ヵ月間の休息と準備期間を経た後に、
最後の攻勢である第5次攻勢を開始せねばならないと提議し、
「そうすることが、われわれが、すべての面で、さらに有利になる」のだと結論した。

彭徳懐は毛沢東の命令を受け入れて、1951年1月29日に、中朝合同本部の
会議で、毛沢東の命令と提議を、そのまま報告した。

1月30日、第4次攻勢が始まった。
 


第4次攻勢開始後、彭徳懐は、毛沢東は、前線の状況を正確に把握していないと
思うようになった。中国軍兵士たちは、軍需品と食糧の欠乏に苦しんでいた。
軍靴が支給されず、厳寒の雪道を裸足で歩かなければならなかった。

彭徳懐は、毛沢東に、軍需品と食糧の欠乏の事実を文書で報告しながら、
第4次攻勢が挫折する可能性に備えることを建議した。

第4次攻勢は2月16日まで続いた。

しかし、彭徳懐が憂慮したとおり、中国軍は、国連軍の強力な軍事力の前に
相当な犠牲者を出さざるを得なかった。
 


そこで、彭徳懐は、2月17日を期して、第4次攻勢を、機動的防衛戦に切り替える
ように命令した。

同時に、ソウルを放棄して、国連軍の主力を38度線近郊に誘い出して、
そこで国連軍を潰滅させるという計画を立てた。

その計画を執行するためには、毛沢東の同意が必要だった。

3日後、彭徳懐は、北京に飛び、疲労とひもじさをかえりみず、まず毛沢東の宿所を
訪ねた。寝ているので、起すことができないという秘書に、彼は「今すぐ会わなければ
いけない」と、大きく叫んだ。
 


席はすぐに用意された。ここで彭徳懐は、中国軍がどれほど困難な境遇で戦って
いるのかを、毛沢東に、率直に詳しく知らせ、続いて戦争が早く終わらない理由を説明した。

現地司令官である彭徳懐の力強い建議に、毛沢東も妥協するしかなかった。
そこで、「可能ならば速く勝利をおさめるようにせよ。しかし可能でなかったら、
ゆっくり勝利をおさめるようにせよ」とあやふやな言い方で、彭徳懐に指示した。

これは、事実上、毛沢東が、戦争は早くは終わらないという厳然な事実を、
受け入れたことであった。
 


毛沢東は、1951年3月1日、スターリンに、この戦争は早く終わらずに、
長引くかもしれないと電報で知らせた。この戦争の長期化を文章で認めたのは、
これが初めてだった。

確かに、戦況は逆転していた。国連軍は、3月初旬以降、戦線のイニシアチブを
掌握し、3月15日にはソウルを奪還した。

3月30日頃までには、38度線近くまで北進した。

この時点で、西側国家は休戦案を提議した。

戦争以前の原状が回復するようになったので、38度線を境界に休戦しようという
動きが広がった。米国政府も、遂に、休戦を決意するようになった。
 


中国大陸への戦争拡大を主張して来たマッカーサー国連軍総司令官を解任した。

しかし、毛沢東の中国は、休戦には極めて消極的であった。

毛沢東は、第4次攻勢の挫折と敗退の苦みを味わわねばならなかったが、
第4次攻勢で得たものは所得は少なくなかったと計算した。

1988年に北京で出版された人民解放軍軍事科学院の公式戦史によれば、
国連軍は、中国軍の頑強な抵抗のため、1日にやっ1.3キロメートル進撃しながら、
おおよそ900人の死傷者を出した。それほど国連軍の進撃は遅かった。

その間、中国軍は、年間60万人を新たに徴兵する計画を執行することができた。
多くの方面で、第5次攻勢に有利な条件を造ることができた。

中国軍は占領した空間を国連軍に渡す代りに、第5次攻勢のための時間を得た。
 











(2)第5次攻勢失敗で休戦に転換

1951年4月22日、中国軍は第5次攻勢を開始した。

戦力増加に鼓舞された彭徳懐は、「この第5次攻勢は非常に重要である。
我々は、この第5次攻勢を通じて、戦場でのイニシアチブを取り戻さなければならない。
この攻勢に勝利して、戦争期間を短縮させなければならない」と宣言した。

しかし、第5次攻勢は失敗に終わった。

国連軍が頑強に抵抗したからである。

5月16日からは、集中的に国連軍を攻撃したが、5月23日には、
中国が自ら認めたように、
朝鮮戦争参戦以降、最大の人命損失を経験しなければならなかった。
 


第5次攻勢の失敗を通じて、中国軍は、初めて、国連軍の、特に米軍の、
軍事装備と空軍力、及び兵姑がどれほど強大であるのかを切実に悟った。

中国国民党との内戦に使われた、毛沢東の戦略戦術も、米軍の現代的な戦略と
最新武器の前では、威力を発揮することができないことを知ったのである。

第5次攻勢失敗を受けて、毛沢東は、休戦を受け入れる方向に転換した。
 



 (続く) 






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