朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪(その3) | 日本人の進路

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朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪(その3)








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朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪(その3)


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朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書
-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪



2013年11月







 (続き) 








中国の朝鮮戦争参戦と5回にわたる攻勢


1. 北朝鮮軍の敗退と中国の参戦決定


(1) 国連軍の仁川上陵作戦成功以前の中国


中華人民共和国は、1965年6月25日に朝鮮半島で戦争が起こった時から
約7週間位の間は、自国に非常に深刻な問題とは思わなかった。

しかし、8月初旬に入って、韓国軍と国連軍が北朝鮮軍に対して反撃を加える
ことができる確かな足場を固めるようになると、自国の一次的関心を
この問題に集中し始めた。

中国共産党主席毛沢東は、国連軍が仁川や群山のような所で奇襲的上陸作戦を
敢行するようになれば、戦況が引っ繰り返るかもしれないと中国共産党指導層内で
言い、8月23日には、遂に、平壌に中国の初代大使として倪志亮将軍を
赴任させた。彼は1900年生まれで、八路軍129師団参謀長を勤めた後に、
満州の第1軍区司令官を勤めた。彼は病気で湖北省武漢で療養するようになり、
赴任が遅れた。
 


これと同時に、中国は、北朝鮮と中国の国境地帯の軍隊を大きく増強させた。
参戦する可能性に備えて、軍隊の訓練と作戦準備を8月末まで完了するように
東北軍区司令官高崗に指示した。時限は9月末まで延期されるが、これは
中国が、既にこの時点で、参戦を考慮し始めていたことを見せてくれる。

もう一方で、中国はソ連との協議に入って行くようになった。予想できなかった
米軍の大規模介入と、それによる戦況の逆転可能性に当惑するようになったソ連は、
中国に対して、北朝鮮を軍事的に積極支援するよう圧力をかけ始めたからだった。

このように、中国がソ連と難交渉を続けていた頃、朝鮮半島の情勢は、確かに
逆転する可能性を見せていた。
 


8月中旬以降、国連軍の反撃はだんだん激しくなりつつあった。国連軍の反撃が
成功すれば、彼らは38度線を超えて北朝鮮を完全に占領するだけでなく、
北朝鮮と中国の国境線を越えて満州に、そして、中国本土に攻撃して来るかも
しれなかった。

ここで、中国の関心は、次第に、自己の安全に向けられるようになった。

9月1日、総理兼外交部長の周恩来は、北朝鮮駐在中国大使館の核心的人物として
自分が配置した柴成文を北京に呼んだ。柴成文は1915年生まれで、
1937年に八路軍に参加し、情報系統で仕事をしてきた。当時、北朝鮮大使館の
政務参事官だった。
 


周恩来は、柴成文に、朝鮮戦争に中国が派兵する場合、いかなる困難が予想
されるかを問うた。

柴成文は、北朝鮮は道路と鉄道の状況が悪く、通訳要員が足りないので、
効果的な戦闘遂行は難しいと答えた。

この事実から推察すると、この時点で、中国は、参戦を真剣に、そして、
具体的に検討していたと考えられる。
 







(2) 国連軍の仁川上陸直後の中国の決定

1950年9月15日に、国連軍が仁川上陸作戦に成功するのを見て、
中華人民共和国の指導部は、中国の参戦は避けられなくなったという結論に
到達した。

そして毛沢東は、まず、満州最高の実力者である高崗に、朝鮮に派兵する
ことは避けられなくなったため、派兵の準備を急げという手紙を送った。

これと同時に、中国政府は、現地の状況を詳細に観察するため、
5人の武官を北朝鮮駐在中国大使館に派遣した。

北朝鮮駐在中国大使館の柴成文政務参事官は、直ちに、金日成と会談して、
中国政府の決定を通告した。
 


金日成は大変喜び、秘書の何仰天を呼んで、中国の武官・朱光、副武官・王大剛、
副武官・劉向文ら5人の中国の武官たちに渡す、党と政府、軍隊などの、
すべての北朝鮮の機関が支援することを保証する金日成名義の信任状を作るよう
指示した。

なこの信任状を持って、5人の中国の武官たちは、9月下旬から1ヵ月近く
戦線の各地域を徹底的に調査した。

このような事前対策を行った後に、9月20日、周恩来は、総理の資格で
朝鮮で中国軍が取る軍事作戦上の基本原則を確定した。
 


ここで、彼は、朝鮮での戦争は持久戦になるはずであり、
中国軍は、自力による戦争を続ける準備を整えなければならないと強調した。

毛沢東はすぐに同意した。

10月1日~2日は歴史的な日だった。

10月1日、大韓民国国軍は38度線を越えた。
10月2日、国連軍も38度線を越えた。

この日、この日、マッカーサー国連軍総司令官は、北朝鮮政権の無条件降伏を
要求する最後通牒を発表した。
 


これと同時に、アメリカを含む西側8ヵ国は、国連軍の38度線以北への進撃を
承認して、国連軍の北朝鮮征服に基いた南北統一案を支持することを要請する
共同決議案を提出した。

一番焦った人物は金日成だった。

彼は10月1日の夜、北朝鮮駐在の倪中国大使を呼んで、
「マッカーサーは、私が両手をあげて降参することを願っているが、
私はそんな事はした事がない」と冗談まじりに言って、二つの拳を振り回しながら、
降伏する気持ちはまったくないことを力説した後に、満州の中国軍が、1日も早く、
鴨緑江を渡って来てほしいと要請した。

同時に、副首相兼外務相の朴憲永を秘密裡に中国に送り、毛沢東に会って、
軍事的介入を要求するようにさせた。この時、朴憲永に随行した人間が、後日、
休戦会談時に北朝鮮代表として出る延安派の李相朝であった。
 











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明くる日、毛沢東は遂に重大な決断を下した。

抗美援朝、すなわち、アメリカに対抗して朝鮮を支援するという名分と、
保家衛国、すなわち、家を守って国を防衛するという名分の下に、
中国人民支援軍の名で朝鮮へ派兵すると決定したのである。

ここで、支援軍と言う言葉の代りに、志願軍という言葉を使うという決定も下した。
中国人民たちの自発的な参加という意味を強調したかったからだ。

毛沢東は、中国の参戦決定を、電報でスターリンに直ちに知らせた。

彼の秘書たちは、朝鮮半島での戦争に中国軍を参戦させる事にした決定は、
毛沢東の生涯で、一番困難だが優れた決定だったと主張した。

もちろん、秘書たちのこのような主張に対して反論することはできる。

しかし、毛沢東がこの決断を下すまで、何日間もまともに寝られずに、
睡眠薬を飲まなければならなかったという秘書たちの回顧録を信じるならば、
毛沢東の苦悩が大きかったことを知ることができる。

しかしながら、中国は、国連軍の38度線北上を公式裁可した西側決議案が
国連総会で可決されるのを阻むため最後の努力をして見せた。
 







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関連サイト:スターリンの犯罪を忘れるな!

関連サイト:北方領土返還要求大会(2日7開催)は 税金のムダ使い大会













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関連サイト:毛沢東の犯罪を忘れるな!








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関連サイト:犯罪軍事国家・北朝鮮の人権無視の実態








(3)スターリンの裏切り

この時点で周恩来は、秘密裡にモスクワを訪問して、10月9日早朝に
スターリンと会談した。周恩来はスターリンに中国の決定を通告した。
そして、スターリンに、約束した通りの軍事的援助を実行してほしいと要請した。

ところが、スターリンは首を横に振った。以前に約束した空軍支援は
不可能になったと冷淡に答えた。

スターリンは、中国の参戦がアメリカを挑発し、朝鮮戦争が第3次世界大戦に
発展するのが恐ろしい。無理に、金日成政権を北朝鮮の地に維持させようと
するよりは、金日成に、満州に亡命政府を作るように勧告してはどうかと提議した。

外交の天才という周恩来の訴えも無駄だった。
仕方なく、周恩来はこの事実を毛沢東に電報で知らせ、ソ連空軍の支援なしで
中国がアメリカとの戦争に入るのかを、中国指導部が決定しなければならない
時点に来たと力説した。
 


毛沢東は10月13日に、党政治局非常会議を招集した。

毛沢東は、悲壮な口調で、ソ連空軍の支援なしでも、中国は朝鮮半島で
戦わなければならないと強硬に宣言した。今になって、参戦決定を撤回する
ことはできないというのだった。

毛沢東は、金日成政権が崩れれば、米軍は、満州へ、更に、中国大陸へと、
戦争を拡大させるのは確実で、そのようになれば、
中国の杜会主義革命が、更に一歩進んで、東アジア全域の社会主義革命が
危くなると判断したからである。

それで、スターリンの裏切りの衝撃を甘受しなから、毛沢東は、10月13日、
もう一度出兵の不可避性を強調して、北朝鮮駐在の倪志亮中国大使に、
派兵決定を金日成に公式通告せよと指示した。

10月13日夜、倪大使は金日成の地下防空壕執務室を訪問した。
毛沢東の言葉を伝え聞くや、金日成は、踊り上がって手の平を打ち、
「本当に助かった」と叫んだという。
 









 (続く) 







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