“不敬の罪人”西尾幹二&加地伸行は、新皇后陛下に罵詈讒謗の投げ放題(5)(その1) | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

“不敬の罪人”西尾幹二&加地伸行は、新皇后陛下に罵詈讒謗の投げ放題(5) (その1)

 

 

 

“不敬の罪人”西尾幹二と加地伸行は「正論」メンバー ──“読者騙し紙”産経新聞は、「日の丸」で包んだ『週刊金曜日』②

 

 

 

 

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“不敬の罪人”西尾幹二と加地伸行は「正論」メンバー ──“読者騙し紙”産経新聞は、「日の丸」で包んだ『週刊金曜日』②

筑波大学名誉教授     中 川 八 洋

 産経新聞「正論」欄メンバーには、天皇制護持を真剣にかつ心底から憂慮する、一般通念上の「真正保守」は、一人もいない。そこで基準を緩め、皇位継承に関する知識が杜撰でお粗末きわめる事には目を瞑り、“皇位継承=男系男子” 派であれば合格とすれば、渡部昇一と八木秀次の二人がようやく思い浮かぶ。

 産経新聞「正論」欄メンバーで、物故者を除き、百名を越えるだろう生存する者のうち、二名だけとは「2%以下」ということ。正論欄「メンバー98%以上」のほとんどは、天皇制廃止狂ということか。むろん後者の数字には、デタラメ天皇制護持演技派や無関心派を含めているが。

 だが、過激な天皇制廃止を秘密社是とする産経新聞は、販売上の商業的戦術として、「民族系/民族主義」を前面に出してカムフラージュをする。そして産経新聞は、これら「98%以上」の「正論」欄メンバーに対して、天皇制度や皇位継承問題について口にチャックさせるか、口にチャックができない論客には(天皇制廃止の)真意を狡猾・巧妙なレトリックや詭弁で糖衣するよう要請する。

 

 このように、産経新聞は、社長以下社員総出で、購読者騙しの犯罪的な紙面編集をしている。秘密社是と懸け離れた嘘編集である。私が指摘するまで産経新聞の嘘編集がバレなかったのは、産経新聞の購読者のほとんどが知的下層階級である事が主因である。産経新聞の購読者は、他紙より月額数百円安いから産経にしているのであって、「朝日新聞が余りに極左に偏向しすぎているから産経新聞」という者は、実売110万部の購読者のうち3万人もいないだろう。

第一節 西尾/加地の皇室“罵詈讒謗”事件を、『WiLL』廃刊で幕引くな!  

 現に、2013年5月の『産経新聞版「憲法改正試案」』が、「男系子孫」という全く聞いたことのない四文字魔語をつくり、「女系天皇・女性天皇」制度での皇室廃絶論をうち出したのに、産経新聞の読者には誰一人として見抜いたものがいない。また、「男系子孫」による天皇制廃止革命家は田久保忠衛と佐瀬昌盛だと判明しているのに、産経読者は、田久保/佐瀬に対する糾弾集会も開いていない。産経新聞社の読者には、“保守の知”は存在しない。

ペテン語「諫言」を免罪符に、罵詈雑言で皇太子殿下を中傷誹謗する西尾と加地

 「男系子孫」と同類の“珍奇な騙し語”「諫言」をもって、皇太子殿下に中傷誹謗を狙って罵詈雑言を投げ付けている西尾幹二と加地伸行もまた「正論」メンバー。なのに、産経新聞の読者の中に“産経新聞不買運動”を起こす者がいない。西尾/加地を糾弾する会も結成していない。

 このことは、北朝鮮や朝鮮総連と裏でこっそり通底する“有害新聞”産経新聞を発行停止しても、日本国にとって一切のマイナスが起きないということ。むしろ、産経新聞がなければ、朝日新聞を主敵とする“保守の精神”の再生と「保守」回復運動の慣性が確実に生まれるから、産経新聞の廃紙こそ、現状よりも百倍も千倍も、日本国を「保守」することに裨益することは間違いない。

 上記の、西尾幹二と加地伸行が、『WiLL』六月号(4月26日発売)で、共産党や朝日新聞と寸分変わらない天皇制廃止をアッピールした狂気の不敬事件とは、皇太子殿下と同妃殿下に対して罵詈雑言を浴びせる、タイトル「いま再び、皇太子さまに諫言申し上げます」のトンデモ対談のこと。両名は、自分たちがさも東宮侍従長か旧・五摂関家の当主(侯爵/公爵)かに妄想して、一杯飲み屋での酔っ払い暴言罵声をもって「諫言」だと詐称している。土足で東宮御所に上がり込んで喚き散らす、家宅侵入のゴロツキ/ならず者以上の、前代未聞の乱暴狼藉者である。

 しかも両名は、天皇制廃止狂徒である。ドイツ語の翻訳業者で学問的業績ゼロの“ペテン師評論家”西尾幹二は、1967年の三十二歳の時、天皇制廃止を大音声で宣言した。加地伸行は、毛沢東の“赤い支那”に媚び諂う(漢籍に関する多少の学問業績があるので、西尾のような雑文評論専業とは言えないが、人格下劣な)チャンコロ(支那)学者である。

 

備考;「チャンコロ」は蔑視語ではない。「清国奴 ツェンコクロー」か「中国人 チョンクオレン」かが訛った支那語。和製英語「ジェンダー・フリー」が問題ないのだから、訛り支那語も大手を振って容認されるべきだろう。

 

「天皇制も廃止してしまえばいい」「これからは天皇制は不必要」(32歳の西尾幹二)

 西尾幹二は、ニーチェに心酔して、ニーチェ作品の翻訳家になった。ニーチェ哲学に関する学術論文を、どんな小さいものでもカウントしてあげる超甘の基準で捜しても、一本もない。西尾幹二とは、ニーチェ哲学がさっぱりわからない本物の“馬鹿”。西尾幹二を「学者」と分類することは全く不可能。  

 西尾幹二の特徴は、東大独文科に入ってからヒトラーの『我が闘争』を丸暗記するまで読破したようで、西尾幹二のエセーには、『我が闘争』の論理構成をそっくり模倣したものが顕著に多い。ヒトラーのナチズムはレーニン主義にニーチェ的廃墟(空無)主義をブレンドしたものだから、ニーチェにヒトラーをブレンドした西尾幹二のは、必然的に「ニーチェ+レーニン+ニーチェ」となる。簡単に言えば、レーニンをニーチェで挟んだサンドイッチが西尾幹二の脳内。

 が、ここでは西尾幹二の思想を、一般的に馴染みやすい、フーコーやデリダらのポスト・モダン思想の原初形態である「ニーチェ・ヒトラー主義」に分類する。西尾幹二が共産党系の学者・専門家の作品に異様な共感・共鳴をする共産主義シンパだからといって、ゆめゆめマルクス・レーニン主義に分類する学術的誤認はしないように。西尾が、ニーチェを前面に押し出した天皇制廃止論を持論とするのは、この「ニーチェ・ヒトラー主義」において必然で、西尾を天皇制擁護派と見做すことなど初めからどだい無理で全く不可能。西尾幹二は、こう言っている。

「ここで(日本は)いっぺん“空無”になっていいんじゃないか・・・。われわれは(ニーチェ的な)徹底的なニヒリズムの中に一度立つべきなんだ・・・たとえば、天皇制も廃止してしまえばいい・・・。」

「(人間には超越的なものが常に必要であることには賛成ですが)私なんかは、超越的なものはどう考えても(天皇のような)人間であってはいけないというふうに思う」(注1)。

 要するに、西尾幹二の人格は、一種の人格喪失状態で、荒んだ空無。そして、日本という国を、自己の空無さに共振させるべく、無理心中的に、日本国の空無化=廃墟化を図ろうとする。ヒトラーが自分の“廃墟”となった荒んだ精神の空洞にドイツ国を共振させるため、ドイツ国すべてを廃墟にすべく第二次世界大戦を起こしたのと同じである。西尾幹二の精神も人格も、究極のレベルで病んでおり、サド侯爵やニーチェそしてヒトラーやフーコーらと同種の精神分裂症は重い。

 話を西尾幹二の天皇制廃止への怨念というか、彼の皇室・皇族への憎悪感情に戻ろう。

 義宮殿下がミュンヘンに御成りされた際に、義宮殿下への西尾幹二の憎悪感情は尋常ではない。現在の皇太子殿下・妃殿下への憎悪感情と同じ。このように、1967年から2016年まで五十年間も変わらぬ、西尾幹二の横溢する“皇室・皇族への憎悪感情”の異常な特異性を考えると、これは生来のものとしか考えられない。西尾幹二の血統は仮に日本人だとしても、その感情と思想は北朝鮮人に完全に変貌・変質しており、北朝鮮人の佐高信や福島瑞穂のクローンである。

「ミュンヘンに義宮が来られた時、それをお迎えしたのですが、誠に貧弱なのですよ。きょろきょろ辺りを見回したりして、態度がオドオドして落ち着きがなく、出迎えた外国高官の中でなぜもっと堂々としておれないのかと、感覚的には日本人として不愉快だった」(注1)。  

 何という無礼千万で不敬きわまる言辞だろうか。西尾幹二に日本人の血が流れているとは信じられない。われわれ日本国民は、皇室を奉戴する事自体が至上の誇りであり至福の名誉であり無上の光栄である。それ以上に何を望むというのだ。しかも、西尾幹二自身が自嘲するように「背が低く、醜悪な猿顔で、下品な立ち居振る舞い」が問題となってミュンヘン大学を叩きだされ、二年間をバイエルン州立図書館で過ごした“恥ずかしい問題日本人”が西尾幹二自身ではないか。

 上記引用文の西尾の言辞は、“「背が低く、醜悪な猿顔で、下品な立ち居振る舞い」の西尾幹二が外国にでかけること自体、日本人の評価が下がり評判が落ち日本の恥になるから、外国をうろつく西尾幹二の存在は日本人全体にとって感覚的に不愉快である”を摩り替えている。話を、西尾幹二の皇室観に戻す。

「僕自身の個人的感覚に即して言えば、天皇に何らの怨恨もなければ何らの愛情もない無関心な感情・・・。また、尊敬、畏怖する気持ちもないという状態で、(すなわち)白紙の状態」(注1)。  

 西尾がここで自己描写する「無関心」とか「白紙」とかは、言葉の綾。西尾幹二が皇室・皇族に懐く怨念・憎悪は半端でないから、大いに関心があり、白紙ではなく真黒な色紙である。関心がなければ、加地伸行と、皇太子両殿下への“罵詈雑言の放談”などするはずもなかろう。“虚言癖と騙し癖だけは日本一”の西尾幹二のエセーは、どれもこれも“嘘の洪水”と“虚構の土石流”に埋まっている。

『孝経』を全面歪曲して罵詈雑言の誹謗を「諫言」だと嘯く“ゴロツキ学者”加地伸行

 このような犯罪的な西尾幹二と対談ができるということは、加地伸行の人格と本性が、普通の善良な人間の域にはない、やくざ級のゴロツキである証左。正常な学者は、万が一にも無学・無教養どころではない“狂犬型の非・学者”西尾幹二と対談はできない。しかも加地は、ゴロツキでない限り発想できない暴言を吐く。俺様は「天皇陛下の臣下」だと詐称する大言壮語は、その一つ。

「今回の私たちの二人の意見は、非難ではありません。諫言です。儒教の重要文献『孝経』第十五章は諫争章で、天子にとって臣下の諫言が大切である事を説いています。皇族の方々に、ぜひ『孝経』をお読みになられることを希望してやみません」(注2、49頁)。  

 加地伸行は侍従長でも宮内庁長官でもない。ただの一般国民である。一般国民を「臣下」とは言わない。すなわち、「臣下」でないのに「臣下」と詐称する加地伸行とは、(刑法ではないが)軽犯罪法の“成りすまし犯罪者”ということ。明治憲法下では、国民の事を「臣民」(英語のsubject)とも言ったが、「臣民」は「臣下」ではない。“三流チャンコロ学者”に過ぎない加地伸行は、傲慢不遜が習い性となった西尾幹二と同様、分(ぶん)も身分も弁えることができない。

 ゴロツキ型評論家の加地伸行はまた、皇族は『孝経』を読んでないとの憶測を、根拠もなしに、事実だとでっちあげ、高い目線から皇族を見下ろしている。加地伸行よ、皇太子殿下が『孝経』をお読みになられたか否かにつき、事実調査をしたのか。事実確認もしないで皇族をなじるのは、無礼千万というより、加地伸行に皇族に対する剥き出しの憎悪が渦巻いているからではないのか。

 確かに、加地伸行の口からは、皇族に対するどす黒い悪意が猛炎となって天に立ち昇っている。加地伸行の手には、皇族にめがけて投げるギラギラ光る殺意のナイフが握りしめられている。

 そもそも、“三流チャンコロ学者”加地伸行は、『孝経』注釈本を出版しているが、実は『孝経』を正しく読めないデタラメ学者。もし加地が、『孝経』諫争編にある「諫言」の意味を正しく把握できていれば、『WiLL』誌の西尾/加地の皇室讒謗対談を低級野卑な雑談に分類し、「諫言」などと嘘ラベルを貼ってはいない。  

 「諫言」は、高位/側近の「臣下」が天子/国王/藩主などを諫めることを云い、言上か文書で行う。すなわち、『WiLL』誌での西尾/加地の皇室讒謗対談は、対談であることにおいて「諫言」ではない。

 また次の二点において、「諫言」とは180度の対極にある酔っ払いのトンデモ雑談である。

 「諫言」の第一条件は、臣下・家来が天子/国王/藩主などに対して直接に諫奏申し上げるもの。一般商業誌で不特定一般読者を対象とした西尾・加地対談が、「諫言」などとは程遠い代物なのは、説明以前。加地伸行とは、例えば、紙飛行機を行き摺りの人に見せ、「これでニューヨークに載せて連れてってあげるから片道料金30万円をよこせ」と強要するアクドイ詐欺師と同じ論法を用いている。  

 具体的には、この対談内容を「諫言」にしたいならば、西尾幹二・加地伸行は、共同署名入りの「諫言」文書を、非公開の大原則を遵守して、東宮大夫(だいぶ)か東宮侍従長もしくは東宮女官長に、「主旨を機会があればお伝え願います」と添えて手渡している筈。だが、両名は、このルールに従った文書の(東宮幹部職員への)上申などしていない。つまり、両名は、「諫言」などしていない(附記)。  

 「諫言」の第二条件は、臣下・家来が天子/国王/藩主などに対して直接に諫奏申し上げることは不敬の罪科に相当するので、自死を含む処罰される代償を覚悟しなくてはならないこと。そこで、加地伸行に質問する。

 加地よ、自裁の覚悟をもって“分裂症の狂人評論家”西尾幹二と対談したと考えるが、それでよいか。具体的には、縊死を選択したなら、ロープを購入したか。切腹で自裁する場合は作法・儀式を習熟しなければならず、切腹の指導ができる師匠を見つけたか。介錯人なしの切腹となるから、(数時間を一時間以内にする)出血死の時間短縮方法を内臓外科医に教授してもらったか。

 「諫言」とは、このように、諌死の覚悟と表裏一体のものである。金子宗徳氏が、吉田松陰の『講孟箚記(余話)』から「君に事へて遇はざるときは、諌死するも可なり」を引用しているように(注3、注4)、松陰が解説する「諫言」が、「諫言」の正しい解釈である。加地伸行よ、それとも、松陰の「諫言」解釈が間違いだと言うのか。金子宗徳氏は、この引用時に、「自らの意見が受け入れなかつた際の出処進退についても当然覚悟してゐなければおかしい」と、指摘している(注3)。“三流チャンコロ学者”加地伸行よ、それとも、この金子氏の「諫言」読解が間違いとでも言うのか(備考)。

 

(備考) 金子氏は一つだけミスを犯している。こう書いているからだ。「『諌死せよ』とまでは云はぬが、言論人を自認するならば断筆すべきではないか」、と。金子氏は、西尾と加地に対し、「断筆はむろん、諌死せよ」と迫るべきだった。社会的・肉体的代償を覚悟しない諫言など不埒な雑談であって、諫言ではない。金子宗徳氏は、これからでも遅くはない、西尾・加地の両名に、自宅の庭で切腹か首吊り自殺をするよう諭旨・善導してあげる“皇室を守る、真正日本国民の会”を結成されてはどうだろう。

 

 

(附記) 皇室に対する「諫言」の制度について簡単に触れておく。「諫言」の制度は、平安朝を創られた桓武天皇以降、徐々に整備されていった。五摂関家など高位の堂上公家が、下々の意見も含め、広く政治にかかわる者の意見を天皇に非公式に奏上する制度が、これである。明治政府においてさらに整備され、侯爵と公爵の爵位がある堂上公家が、取捨選択のチェックはするが、広く国民からの「諫言」を取次ぐようになった。なお、天皇に御裁可を仰ぐ場合の「上奏」を「奏請」といい、「上奏」は公式の場で天皇に事柄を申し上げる事。非公式もしくは儀式性を伴わない場合は「奏上」「伏奏」という。

 

コークは「諫言」が不敬罪となり九ヶ月刑務所暮らし、和気清麻呂は大隅半島に流罪

 「諫言」について、具体的な事例をあげておく。

 英国の例から。自由の大原理である“法の支配”の理論化と普及という人類史上の偉業を成し遂げた天才法曹家エドワード・コーク卿の、絶対君主ジェームスⅠ世国王(1603~25年)/チャールズⅠ世(1625~49年)への度重なる“諫言”は、有名な史実。教養ある本ブログ読者は、ヘンリー・ブラクトンの法諺「国王は、人の下にあってはならないが、と神の下にある」を、君主の足元に膝づいて君主に迫った、コークの諫言エピソードを思い出すだろう。

 ここで挙げるエピソードは、1621年「国会の大抗議」におけるコーク卿らの奏請決議文『国王への諫言』(Remonstrance to the King、1621年12月11日、備考)が処罰された時のケース。この『諫言』は、国会の国政への関与に関する国王大権との激突に際して、コーク卿が執筆したもの。そこには、国会が国政を議論する自由と権利は、臣民に付与された古来(13世紀のマグナ・カルタ)からの生得権で相続財産であるとした。だが、国王はこれを裁可されなかった。コークらは、これに抗議して、すべてを国会議事録に記録した。国王は、これを国王大権への侵害で不敬罪に当たるとし、国会を解散し、議事録の当該部分は国王自らが破り捨て、コーク卿(この時、枢密顧問官も兼務)を逮捕してロンドン塔(貴族専用の刑務所)に収監した。九ヶ月後の1622年8月、獄中で古希を迎えたコーク卿は釈放された。なお獄中のコークは、人類の遺産『英国法提要』をせっせと書いていた。注5。

 

(備考) コーク卿が執筆した、もう一つの“国会の奏請文”『権利請願』(1628年)の方は、国王チャールズⅠ世は裁可された。これは、英国の憲法的文書の一つとなった。

 

 日本の「諫言」事例として、誰でも知っている和気清麻呂のケースを取り上げる。和気清麻呂は、奈良朝末期の769年、称徳天皇の(皇位を道鏡に譲位する)皇統断絶のご方針を、勅使として派遣された宇佐八幡神宮の神託をもって諫言・阻止することに成功した。称徳天皇は、和気の諫言の方は許諾し道鏡を追放されたが、勅命違反の罪科に対しては、和気の名前を「別部穢麻呂(わけべきたなまろ)」に改名させ、大隅国へ流罪という処罰を下された。

 話を戻す。西尾幹二と加地伸行は、皇室や皇太子殿下への罵詈讒謗を「諫言」だと詐称したのだから、両名には肉体的・社会的な代償を払わせる必要がある。旧刑法には不敬罪があったが、GHQがこれを削除してしまった。まともな人間ではなく、明らかにゴロツキ型or狂犬型の非・日本国民の本性を剥き出し暴言を弄ぶ両名に、不敬罪(注6)に代わる同等の処罰を課す必要がある。

 加地伸行はかつて、民主党政権を指して、「大嘘/暴言/やくざ風」と揶揄した(2010年3月2日付け『産経新聞』)。この評は、そっくりそのまま加地伸行に当てはまる。加地こそ「大嘘/暴言/やくざ風」の三流チャンコロ学者。政権時の民主党国会議員たちは、加地伸行を映した鏡だった。  

 皇室への「諫言」が本心から必要と考えるならば、無学な西尾幹二よ、知ったかぶりの加地伸行よ、堂上公家制度の復活をなぜ一度も唱道しない。西尾幹二や加地伸行が詐称する「諫言」が口から出任せの全くの嘘八百なのは、この事実からもバレバレではないか。  

 なお、1946年2月の現憲法制定時、堂上公家制度をホイットニーのGHQは認めていた。これを、GHQと日本側の間で草案が大混乱と猛スピードで行き来する憲法制定作業のドサクサに紛れて削除したのは、日本の内閣法制局であった。また日本で、堂上公家制度の復活を主張しているのは、1960年代以降では、私一人となった。日本会議や神社本庁は、堂上公家制度の復活を主張したこともないし、考えたこともない。皇室の藩屏である堂上公家制度の復活を考えないのは、皇室を護持せんとする熱情や意思が(弱いというより)欠如しているからである。

 

 

(続く)

 

 

 

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