日本の悲劇はソ連(コミンテルン)による日本共産化革命によって引き起こされたものである(その1) | 日本人の進路

日本人の進路

左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

日本の悲劇はソ連(コミンテルン)による日本共産化革命によって引き起こされたものである(その1)ー大東亜戦争(日中戦争、太平洋戦争、日ソ戦争)は共産主義者の謀略により引き起こされた

 

ー日本の悲劇は日本の政界、日本の軍部に入り込んだ共産主義者の謀略により引き起こされたものである。

共産主義者は忠誠を誓う母国はソ連であり、ソ連のため、日本が欧米や中国と戦争を引きおこし、大敗北して大混乱状態を作り出し、その混乱に乗じて日本を共産主義国とするため、謀略の限りをつくしたのである。

 

大東亜戦争(下記3戦争)

日中(対蒋介石)戦争、太平洋(対米、英,ほか)戦争、日ソ戦争・ソ連による一方的な日本侵略戦争

は共産主義者・近衛文麿などの謀略により、日本が戦争に引きずりこまれたものである。

日本の悲惨な戦争は共産主義者によって引き起こされた。

 

 

 

 

 

 

 

  日本が好きな方はクリックをお願いします 
人気ブログランキングへ

 

 

 

https://ameblo.jp/kororin5556/entry-12267605760.html

日本の悲劇はソ連(コミンテルン)による日本共産化革命によって引き起こされたものである(その1)


テーマ:

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

********************************

 

 

 

http://ameblo.jp/kororin5556/entry-12182691909.html

ソ連による日本共産化の禍毒ー満州開拓団の悲惨な結末(その1)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ソ連による日本共産化の禍毒ー満州開拓団の悲惨な結末(その1)













****************************





満州開拓団の悲惨な結末 

2012年10月 Minade Mamoru Nowar
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0607HisannaSaigo.html

 

 



1.日本の政治は軍部に乗っ取られた

渡部昇一上智大学名誉教授は、
著書『昭和史 松本清張と私 大正末期~二・二六事件』(ビジネス社 2005年12月発行)の
第454頁で、
「大正2年(1913年)廃止された軍部大臣現役武官制が
昭和11年(1936年)、廣田内閣によって復活し、
これによって日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのです」

と述べている。
 


渡部名誉教授は第459頁~第460頁で「廣田内閣が残したものは、
①【軍部大臣現役武官制】の復活(昭和11年=1936年)
②【日独防共協定】調印(昭和11年=1936年)
③軍拡方針を決めた国策の基準設定
いずれも日本の命取りになるようなことばかりでした」「この廣田内閣の
ときに日本の議会制民主主義の可能性はすべてつぶされたのです」


 「廣田内閣が日本の立憲政治を葬り、
日本を軍国主義の方向に押しやったという事実

あまりにも重いといわざるをえません」と述べている。
 







2.満州移民推進を決定

1937年、廣田内閣は旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。


2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対 していた。



しかし、満州事変後、旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。

100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。
 







3.関東軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の
関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。
 


土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。
 


農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児を
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。 
 





(クリックで拡大)


 

 

 







2012年6月、下記の有力出版社XXX社の雑誌広告が、
日本を代表する大手新聞ZZZ紙に大きく掲載された。
 






 









 「覆る昭和史」、「五族協和の志」、「満州建国の真実」、「曠野に賭けた夢」、
「明治維新の理想」、「東亜大同のため、ついに起つ」というフレーズの
おぞましさに、筆者は寒気がして、頭がクラクラした。

筆者は、この広告は、消費者基本法に違反する誇大虚偽広告に該当
すると思うのだが? このZZZ新聞社には広告内容を審査する機能はないようである。

読売新聞社は2005年8月から2006年3月まで『検証 戦争責任』という大型特集記事を
連載した。この連載をまとめた下記のパンフレットを作成して200円で頒布した。
 












系列の中央公論新社から下記の本を2006年7月に発行した。 




 






さらに2006年12月には下記の英文書が読売新聞東京本社から発行された。 




 

 






ZZZ新聞社はこれらの記事や本を読んでいないようである。

満州国建国の前々年、1931年に起きた満州事変は、昭和天皇、日本政府、
陸軍大臣、陸軍参謀総長、さらには、関東軍司令官の事前承認なしに、
関東軍の高級参謀、
石原莞爾、及び、板垣征四郎が指揮して行われた
不法な軍事行動であった。


この不法な軍事行動を補完するため満州国が建国された。

国際社会は、国際連盟の場において、こぞって日本の不法な軍事行動と
満州国建国を非難した。

1933年2月24日の国際連盟総会で、リットン報告書に基づいて
日本による満州国建国の是非が討議された。

日本を非とする国42か国に対して、日本支持国はゼロであった。
日本(実質的には旧大日本帝国陸軍)はこれを不服として国際連盟を脱退して、
自ら世界の孤児となる道を選んだ。
 





不法な軍事行動であった満州事変を指揮した石原莞爾、及び、板垣征四郎は、
陸軍刑法のせんけん(擅権)の罪で、当然、死刑に処せられるべきであった。


しかし、日本政府、陸軍大臣、陸軍参謀総長は、石原莞爾と板垣征四郎を
陸軍刑法違反で軍法会議にかけることすらできなかった。

満州事変以後、日本は、なし崩し的に、【立憲君主制・法治国家】から、
【非法治・軍部専制軍事国家】へ移行した。

明治維新によって築かれた【立憲君主制・法治国家】が崩壊した。

つまり、昭和天皇の統治権・統帥権を含む国家権力が
旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに簒奪された
ということである。
 


以後、満州事変によって、日本国を乗っ取った旧大日本帝国陸軍は、
戦争への道をためらうことなく突き進み、
筆舌に尽くせぬ惨禍を海外・国内に引き起こして破滅した。


【言論の自由】が無くなり、大手新聞は、連日、
中国侵略戦争における【皇軍の赫々たる戦果(戦禍?)】を
報道する旧大日本帝国陸軍の御用機関に成り果てた。
 









4.関東軍は、開拓団の老人、婦女子、
  小学生、幼乳児を、見棄て、見殺しにした


日本敗戦と同時に、これら【匪賊】たちは、報復のため、一斉に、
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。

開拓団の成年男子(18歳~45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本軍(関東軍)の【根こそぎ動員】で徴兵され、その後、
極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。

徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
 



苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。

敗戦直前、関東軍は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。

【根こそぎ動員】で、夫や息子を徴兵されて、頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児について、関東軍は
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。

ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかった。

関東軍に見棄てられ、見殺しにされたおびただしい数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児は、

ソ連軍戦車の銃撃と

中国人の、鍬、棍棒などによる襲撃で殺害された。

逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。
 











逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、

【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)、
絶望(自殺)等でほとんどが死亡した。

生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。

この旧大日本帝国陸軍と関東軍の、
最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見棄て見殺しの罪】を見逃すことはできない。
 






哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。

廣田内閣の満州移民推進政策は
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。
 









5.開拓団避難民の悲劇 

2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された
『ソ連参戦の衝撃-満蒙開拓民はなぜ取り残されたか』は、
「当時、中国東北部(満州)に住んでいた国策開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、
多くの家庭が母子老人家庭となっていた。

戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭避難民は、
戦闘に巻き込まれて約3万人が死亡した。

その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と報じている。
 







この番組では放送されなかったが、
合田一道著『検証・満州1945年夏 -満蒙開拓団の終焉』
(扶桑社 2000年8月発行)は、
満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、
【殺害】されたり、【集団自決(=集団自殺)】に追い込まれたりした
悲惨な状況を詳しく述べている。

財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
『満蒙終戦史 全928頁』(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)の
第812頁~第813頁は次のように述べている。
 


受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)
すべての運命であった。

もちろん程度の差はある。しかしながら、
ソ連軍の満州進撃の日から、遣送帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。

なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように
悲惨深刻を極めた。


この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。
 


敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に崩壊した。

ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、
原住民の蜂起などが相次いで、
いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。

特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、
したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、
関東軍と日本人役人がいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。
 


しかも、それまでに、
開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵され、
開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが
混乱と悲劇を一層増大したのであった。

ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して

集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、
ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。
 


ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、
全滅した開拓団、及び
1,000名以上の自殺者を出した開拓団は、
100以上を算える。


参考情報:羽田澄子監督の「嗚呼 満蒙開拓団」2009年8月 




 









 (続く) 








 


*************************