今上陛下・皇太子“殺し”を信条とする山本信一郎(宮内庁長官)を懲戒罷免しない安倍晋三(その1) | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

今上陛下・皇太子“殺し”を信条とする山本信一郎(宮内庁長官)を懲戒罷免しない安倍晋三の“犯罪”(その1)

 

 


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中川八洋掲示板
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/08/23/210710


今上陛下・皇太子“殺し”を信条とする山本信一郎(宮内庁長官)を懲戒罷免しない安倍晋三の“犯罪”


2018.08.23
天皇制廃止の安倍・式典事務局

 

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 

 

 

 

 

 

 

 2001年4月、宮内庁天皇制廃止のレーニン型共産革命官庁へと変貌した。

“札付きの共産党員”羽毛田信吾宮内庁次長になったからである。

羽毛田は、2012年6月1日に退官するまで、天皇制廃止の策謀を法的制度化するのに、前例のない悪知恵を絞った。

大きく二つある。

 

 第一は、女性天皇女系天皇の導入。2004~6年、コリアン小泉純一郎・首相が血眼になって全力疾走した。これが2006年9月に頓挫すると、羽毛田信吾女性天皇女系天皇と全く同じだが外目には一歩引いた形の「女性宮家」を導入すべく、野田佳彦・首相を誑し込んだ(2011年10月)。野田は2012年に入るや「女性宮家」の制度化に猪突猛進した。結果は尻切れトンボになったが、羽毛田が震源の共産革命語「女性宮家」は、広く国民の間に浸透し、測り知れないレベルの思想的害毒を日本に遺した。

 

 羽毛田信吾天皇制廃止ソフト革命」の第二番目の策謀が、簡略化・簡素化である。具体的には、儀式祭祀陵(墓)の三つを標的とした「簡素化・簡略化」革命が、2012年を境に一気に加速されるようになった。羽毛田信吾の、過激な天皇制廃止の執念と悪知恵は、見事に軌道に乗った。

 

 例えば、“陵の簡素化・簡略化”については、羽毛田が退官前に駆け込みでぶち上げた、「陛下の意向」だと、“半・詐称”での「火葬を含めた、葬儀と陵の簡素化」のことを、本ブログ読者の多くは思い出すのではないか。附記を参照されたい。

 

 ここでは簡素化・簡略化は、天皇制廃止に繋がる共産革命”なのを、しっかと理解してもらうことにしたい。要は、「女性宮家に絶対反対」は皇統護持に必要最低限の国民の義務だが、これと同じく、「《簡素化》反対、《簡略化》反対」は天皇制度護持に必要最低限の真正国民の行動である。

 

 

 

“賢帝”光格天皇の二度の「大パレード」は、バジョット『英国憲政論』の七七年先取り

 光格天皇は、二度も壮麗かつ盛大な行幸、すなわち「大規模街頭パレード(御列)」──当時の語彙では「路頭の儀」──を実践した。この事において、実に稀有な大秀才の天皇であられた。このような威厳や壮麗こそ天皇が為すべき“属性の義務”の一つだとご理解できる卓見とその実践において、光格天皇は、室町時代から衰微いちじるしく困窮にすら遭遇せざるを得なかったそれまでの皇室経済を大幅改善し、朝廷と幕府の関係を一気に朝廷優位の権威回復にベクトル転換した。

 第一回パレードは、まさに“スーパー大パレード”で、当時の江戸幕府は唖然と仰天した。これをもって光格天皇は、幕府内で一気に警戒されると同時に尊崇も集めた。実際に、光格天皇を敬仰する徳川一門や譜代大名が急増した。第二回の“譲位パレード”に全面協力した京都所司代・大久保忠直(小田原藩主、のち老中職を二十年間。仙洞御所に「一升石」11万ヶを献上)や、内裏研究を助成した尾張藩主・徳川斉朝らは、これらの氷山の一角に過ぎない。

 1790年11月22日、二十歳になられたばかりの光格天皇は、天性の大秀才ぶりを発揮された。この日は、(三年前に火災で御所が焼失したため)仮御所とされていた聖護院から新造の御所への還幸である。それを、江戸幕府に対する威圧効果抜群のものへ、そして都中の一般国民が一気に皇室への尊崇を沸騰させるものへ、活用する事にした。新御所遷幸の、歴史的に記録される豪奢にして壮麗かつ大規模な街頭パレードは、こうして実行された。

 正装で供奉するもの約1500名、騎馬100頭以上。光格天皇がご座乗される鳳輦を肩に担ぐ駕輿丁が54名、鳳輦を四方向から引っ張る駕輿丁各6名に御輿長8名を加え32名で総計86名。

 聖護院と内裏の距離は直線にして僅か2㎞だが、それでは街頭パレードにならない。光格天皇は(幕府や一般国民に)「見せる」街頭パレードを企図した。ために、わざわざ遠回りすべく、コースは聖護院からいったん東に向かいその後に直角に南下し、さらに西に直角方向転換して三条大橋を渡り、柳馬場通りを北上し境町御門から建礼門に向かっている。距離にして4㎞を越える。

 時刻と速度。行列は、先頭が午前8時に聖護院を出発し、行列の中央に位置する鳳輦が内裏に入ったのが正午頃。つまり、掉尾まで考えると四時間以上もかかっている。パレード時速はほぼ1㎞強。しんがりは、警備も兼ね、京都所司代の太田資愛(掛川藩主)であった。建礼門では、町人代表が裃で正装し正座してお迎えをした。

 そして、この街頭大パレードを記録すべく、大坂の絵師・吉村周圭に六曲一双の屏風絵を描かせている。むろん、1500名一人一人の顔と服をデッサンするので、行列の周りにくっ付きながら筆をとるアシスタント絵師は150名を優に超えただろう。ともあれ、この屏風絵があれば、その後、何かにつれて幕府側の要人に静かに見せるだけで無言の圧力(権威向上)になる。光格天皇の政治的判断力の高さは、新井白石が小物に見えてくる。

 新内裏への光格天皇の「ド派手で大規模な“1790年還幸行列”」をふと思い出した時、二つのことが頭に浮かんだ。一つが、バジョットの『英国憲政論』。もう一つが、天皇は何をなすべきか/どうあるべきかの“天皇位”に対する意識や思想が、今上陛下は光格天皇と真逆であること。

 バジョットの『英国憲政論』をいくつか引用しよう。

「昨日の制度は、今日の制度として最上無類である。…尊敬を勝ち取るのに最も誂え向きのものである。昨日の制度だけが、この尊敬を受け継いでおり、新しい制度は、新しくこれを獲得しなければならないのである。人間の創った最も堂々とした制度は、最も古い制度である」

「英国の国体(憲法)は、歴史的な、複雑な、そして威厳ある演劇的部分をもっている。これは目には見えないが、絶大な力によって、被治者大衆を動かしている。その外観は、堂々たるゴシック時代の壮麗さを帯びて威厳をもっている」(以上、72頁)。

統治機構の威厳をもった部分は、機構に力を与えるとともに、その力を発させるものである。機能する部分(政府)は、その力を利用するに過ぎない。従って、統治機構のお飾り的な部分も必要性をもっている」

「民衆の尊敬の念を呼び起こし、これを保持する部分を、仮に威厳ある部分と呼ぼう」(以上、68頁)。

(備考)頁数は、『世界の名著』72、中央公論社

 

 天皇制度(王制)の必要性と有用性を簡潔に論及した、実に見事な視点である。しかも、“天皇側が一般国民に対して(幹部分ではなく)枝葉の部分の制度はどうあるべきか”を示唆してくれる著作物は、二千年間もあったのに、実は日本にはない。日本には帝王学があるが、花園天皇の『誡太子書』のように、天皇の資質や徳性を高める/陶冶することに焦点を絞っているものばかり。

 桜の木に譬えれば、健康で病気をしない/虫がつかない桜の木に育つ事をもって帝王学としている。桜を観賞する者を惹きつけるには、花はどう美しく咲かせればいいか、若葉を美しく映えさせるにはどうするかなど、観賞者の心理をつかむことによって天皇制度そのものの安泰と永劫性を盤石にする思考や思想の理論は日本にはない。

 だが、光格天皇の1790年の大パレードは、満開の桜の花を一千五百本ほど同時に見せるがごとく、江戸時代の日本人に八百年以上の昔の平安時代の壮麗な美の絵巻物を眼前に繰り広げたのである。しかも、四時間にもわたって。

 この華麗なる美に包まれた「八百年以上の昔の平安時代の壮麗な美の絵巻物」を国民に提供できる光格天皇こそ、バジョットの言う「堂々たるゴシック時代の壮麗さを帯びて威厳」ある天皇だし、バジョットの言う「真の君主制になくてはならない神秘的な尊敬や宗教的な忠誠心が生じる感情」(67頁)を引き出せる天皇ということになろう。光格天皇は、バジョット『英国憲政論』(1867年)に先駆けること七十七年、『英国憲政論』の偉大な実践者であられた。 

 

 

 

畏れ多い事乍ら、光格天皇の「貢献」を破壊する、「簡素化」の罠に嵌った今上陛下

 翻って今上陛下は、畏れ多いことながら、光格天皇とは真逆であらせられる。儀式重視の光格天皇に対して、儀式軽視の今上陛下。平安時代への回帰をモットーに伝統重視の光格天皇に対して、儀式の「簡素化」という名の、“儀式破壊”と紙一重の“儀式軽視”が日常の今上陛下。光格天皇とは余りに対照的。余りに相違がありすぎる。

 

表1;畏れ多い事乍ら、光格天皇を全否定される今上陛下

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 今上陛下はなぜ、光格天皇が最重視された“譲位パレード儀式”を踏襲しようともせず、弊履のごとくに無視され廃止なされるのだろうか。譲位パレードを実施するか否かは、皇室のこれからの運命を決定的に左右する。それほど重大な儀式である。儀式軽視や儀式破壊は、天皇制度不要論を爆発的に醸成する。が、今上陛下は“経費節約の方を、天皇制度消滅より価値を置かれておられる”と奏上申し上げざるを得ないのは誠に無念でございます。

 また、譲位・受禅の儀式は、平安時代から30回ほどを数える。そのいずれも、同日に行われている。今般初めて、「譲位が4月30日、受禅が5月1日」と、別の日にわざわざ分離。しかも、「譲位」ではなく、「退位」である。神武天皇から連綿の万世一系「王朝」を125代でいったん終わらせる共産革命なのは丸見え。5月1日、新しい王朝が「国民の総意」で始まったと擬制するためである。

 問題は、この天皇制廃止の策謀を見抜けるか否かではない。問題は、伝統に従っていれば、このような策謀が自然に排除されるのに、伝統に従わないが故に、畏れ多い事乍ら、今上陛下が天皇制廃止の“役に立つ白痴”(レーニンの名句)の役割を担っておられるのです。マンドヴィル/ヒューム/ハイエクが喝破してきたように、確立した伝統には不可知なあらゆる叡智が凝集しており、人智の及ぶところではありません。伝統のままに「退位→譲位」「譲位日は5月1日」とするだけで、天皇制廃止の策謀が、一瞬で吹き飛んでしまうのです。

 伝統重視、それこそが、暗黒と嵐の太平洋上ですら、小舟の天皇制度と皇室を、未來に安全かつ安定的に導いてくれる唯一の羅針盤であり唯一の探照灯なのです。

 

 

 

“ご譲位大パレード”は、総勢807名/コース「紫宸殿南庭→仙洞御所の小御所」

 今上陛下のご譲位に伴って必ず実行されるべき“譲位パレード”の先例は、ちょうど二百年前の1817年(旧暦)3月22日に行われた。現在の暦では4月上旬頃であろうか。これについては、顔から血を滴らせる“悪魔の共産党員”山本信一郎(宮内庁長官)が、恐るべき真赤な虚偽を政府部内に撒き散らしたが、前稿でもふれたとおり、正しい歴史事実は次の通りである。

 まず、120名の駕輿丁が担ぎ引っ張る鳳輦が、午前7時、御所(御常御殿)に到着。7時半前、光格天皇は紫宸殿の殿上に鳳輦にご座乗のまま御され、何らかの儀式をなされた模様。光格天皇にとり最期の紫宸殿。その後、紫宸殿南庭に集合した総勢807名を御列させ、午前8時に出発を命じた。

 御列は、そのまま、南に直進し承明門・建礼門を通れば、いとも短時間で仙洞御所に着くのに、わざわざ北上し宜秋門(唐御門)から内裏の外に出た。壮麗・華美な大パレードを京都市中から参集した武士・町人・僧侶に「拝見」させるためである。この“譲位大パレード”は、宜秋門通りを南下し東へ左折し建礼門通りを亀の速度で進んでいる。行列の速度を時速750メートルから1㎞と仮定。

 建礼門と対峙する側に、(所司代が提供設置した)「筵が敷かれた拝見席」が設けられ、ここに数千人以上おそらく一万人前後の武士・町人・僧侶が拝見に集まった。皆、正装。町人は一帳羅を着ている。拝見席は幅250メートル/7列と算定。1メートルにつき二人座ると仮定。この場合、正座で拝見できるのは約3500名。その後方に立ち見で約5000名を仮定。

 紫宸殿南庭から、宜秋門経由で、仙洞御所の小御所までの距離は約1500メートル。時速1㎞なら所要時間は一時間半。時速750メートルなら二時間である。二時間かかったと仮定すれば、光格天皇が仙洞御所・小御所前にて鳳輦から下乗されたのは午前10時。一時間半の行程であれば、午前9時半。

 

 

 

図;光格天皇ご譲位パレードコース

内裏・紫宸殿南庭→宜秋門外→建礼門外→仙洞御所・唐門→仙洞御所・小御所
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 譲位儀式は、午前10時から午後1時の間。正確な時間は不詳。儀場は、仙洞御所内の小御所か弘御所(大広間)。列席者は意外に少ない。皇太子の名代は正親町大納言。

 午後2時、剣璽渡御の儀が始まる。光格天皇と共にあった剣璽は、光格天皇を離れ、仙洞御所の唐門から内裏の建春門を潜り抜け内裏の内側に。いったん御常御殿(「御所」)に奉じられる(仮安置)。午後3時過ぎ、御所から紫宸殿に渡御。その前、剣璽が仙洞御所から遷幸されたとの報告の後、皇太子は東宮御所(御花御殿)から、清涼殿にすでに遷幸されておられた。

 紫宸殿にて、剣璽渡御の儀が執り行われる。その終了とともに、剣璽は公卿以下が前後を供奉して、再び御常御殿に渡御される。この間、新帝(皇太子)は清涼殿に留まれておられる。公卿たちは、御常御殿「剣璽の間」での儀式後、清涼殿に戻る。紫宸殿の中門の外に立つ関白が賀を奏して、いよいよ受禅の儀が開始。時間は深夜午前1時(午後7時頃のはず。清書時の誤記か。具体的には、「子半刻」とあるが、正しくは「酉半刻」ではないか。もしかすれば午後5時の「申半刻」。これをチェックできる史料が書陵部に20点を越えて存在する)。公卿も「殿上坐」に着く。受禅の儀については省略。

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

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