あまりにも無知・無能・無責任であった昭和の日本陸海軍の指導者たち(その1)ー戦没者140万人餓死 | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

あまりにも無知・無能・無責任であった昭和の日本陸海軍の指導者たち(その1)

ー戦没者の60%強140万人餓死

 

 

 

 

 

 

 

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本ブログは反日左翼、すなわち日本を解体滅亡させることが目的の「日本の防衛を妨害」するための反戦をあおるためのブログではない。
逆に正しい歴史を知り、日本の防衛をどのように進めていくべきかをしっかりかんがえるためのものである。
日本を滅ぼす、反米・民族派の大東亜戦争賛美、反米で日本を滅ぼすことに誘導されてはならない。
日本の現状の防衛では、全くの防衛力不足であり、反米ではたちまち凶悪国家・ロシア、支那の植民地にされてしまうのだ。
これが現実だ!!! 










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Minade Mamoru Nowar
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html







太平洋戦争戦跡地
戦没者の60%強140万人は餓死であった
                              


2013年9月 

Minade Mamoru Nowar


http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html




 

 

 

                              2013年9月 Minade Mamoru Nowar



 

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第3頁・第4頁

 

 

 

 

 

 


はじめに-戦没者の過半数は餓死だった

第2次世界大戦(日本にとってはアジア太平洋戦争)において、
日本人の戦没者数は310万人、その中で、軍人軍属の戦没数は230万人とされている。


敗戦直後の1945年9月、東久邇内閣が発表した陸海軍人の戦没者数は50万7,000人に
すぎなかったが、調査がすすむとともにその数が増えつづけ、
1977年に厚生省が明らかにした数字では、「軍人・軍属・准軍属」の戦没者230万人、
外地での戦没、一般邦人30万人、内地での戦災死者50万人、計310万人となっている。


なお調査や遺骨収集はつづいており、正確な数は依然として明らかにされていないが、
現在では、日本軍人の戦没者230万人というのが、政府が明らかにしている概数である。


この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、
いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。


「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、
飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。

栄養学者によれば、飢餓には、食物をまったく摂取しないで起こる完全飢餓と、
栄養の不足または失調による不完全飢餓があるとされている。


この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の
不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたことである。そして完全飢餓によって起こる
餓死だけでなく、不完全飢餓による栄養失調のために体力を消耗して病気にたいする
抵抗力をなくし、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出した。


この栄養失調に基づく病死者も、広い意味で餓死といえる。
そしてこの戦病死者の数が、戦死者や戦傷死者の数を上回っているのである。

戦死よりも戦病死の方が多い。


それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、
この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。

悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と
特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。


大量餓死は人為的なもので、その責任は明瞭である。
そのことを死者に代わって告発したい。それが本書の目的である。


出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第5頁~第9頁

 

 


目次

第1章 餓死の実態
1.ガダルカナル島の戦い
①無謀な陸軍投入
②餓島の実情
③ガダルカナル戦が示したもの
④ガダルカナル以後のソロモン群島
⑤孤立したラバウル

2.ポートモレスビー攻略戦
①無謀な陸路進攻計画
②スタンレー山系越えの苦闘
③退却戦とブナ、ギルワの終末
3.ニューギニアの第18軍
①現地を知らない大本営
②死の転進行軍
③アイタベ作戦
④極限状況下の第18軍

4.インパール作戦
①20世紀の鵯越え(ひよどりごえ)作戦
②惨憺たる敗北と退却
③シッタン河谷の後退
④ビルマ戦線の死没者の割合
5.孤島の置きざり部隊
①戦理に反した守備隊配備
②とり残された守備隊
③メレヨン島の惨劇
④ウェーク島の飢餓地獄

6.フィリピン戦での大量餓死
①揺れ動く決戦構想
②餓死への道程
③フィリピン戦の特徴
④住民への加害行為
7.中国戦線の栄養失調症
①世紀の大遠征
②架空の兵姑線
③補充員の苦難
④中国戦線での死因
8.戦没軍人の死因
①戦没者の総数
②餓死者の割合


第2章 何が大量餓死をもたらしたのか
1.補給無視の作戦計画
①作戦が他のすべてに優先する
②情報の軽視
2.兵站軽視の作戦指導
①対米英開戦と兵站
②兵要地誌の調査不足と現地自活主義の破綻
③後方を担った馬の犠牲
3.作戦参謀の独善横暴
①幕僚が戦争も作戦も決めた
②作戦屋の強硬論
③人間性を欠いた作戦


第3章 日本軍隊の特質
1.精神主義への過信
①日露戦後の軍事思想
②白兵主義の欠陥
2.兵士の人権
①軍紀と服従
②無視された人権
③生命の濫費で勝利を購う

3.兵站部門の軽視
①差別されていた輻重兵科
②経理部への差別
③軍医部の地位向上策
4.幹部教育の偏向
①精神重視の教育と幼年学校
②幼年学校出身者の要職独占とその弊害
5.降伏の禁止と玉砕の強制
①日本軍の捕虜政策とその転換
②戦陣訓と捕虜禁止
③命令された「玉砕」


出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第131頁~第138頁

 

 

 

 


第1章 餓死の実態


8.戦没軍人の死因

①戦没者の総数

第2次大戦(日中戦争を含めてアジア太平洋戦争)における
日本軍の戦没者の総数、その中での戦死、戦病死などの割合は、
戦争が日本の敗北に終わったこともあって、正確に数えることは
きわめて難しい。

多くの戦場が玉砕(全員死亡)に終わるか敗退してしまったので、
記録がほとんど失われている。


さらに降伏の直後に、戦争犯罪の追及を恐れて、
組織的に関連書類の大量焼却が指令された。

このため陸海軍の各部隊どころか、
市町村役場の兵事関係書類まで焼いてしまったところも多い。
軍事と戦争に関する史料が、根こそぎ破棄されてしまったのである。
このため戦没者の数にしても、数字に大差がある状況で、
戦後日が経つにしたがって、調査がすすみ、
その数が増えていくという状況にある。


調査不十分の結果もあり、敗戦直後の1945年9月の
第88臨時議会に東久邇内閣が報告した数字は、
太平洋戦争の戦没者陸海軍人50万7000人、
一般国民の死者24万1,000人、合計74万8,000人
という少ないものであった。


その後調査がすすむにつれて数は増えつづけている。
77年に厚生省援護局があげた数字では、
37年7月いらいの、
日本の戦没者は、軍人、軍属、准軍属合わせて
約230万人、外地の一般邦人死者数約30万人、
内地での戦災死亡者約50万人、
合わせて約310万人となっている。


この軍人軍属の戦没者230万人という数字は、
それより13年前の64年に、
厚生省援護局が公表した地域別陸海軍人戦没者数の
合計212万1,000人よりは約18万人多いが、
それはその後の調査の増加分を含んでいるからであろう。

この地域別陸海軍人戦没者数を次に掲げる。


この数字は、地域別ではこれより新しい公式数字はないが、
1977年の数字より約18万人少ないだけでなく、
地域によっては現在判明している数よりも過少である。

日本人全体の戦没者総数についても同様である。
政府はそれ以後、ずっと戦争の犠牲者310万人という
数を使いつづけているが、原爆による犠牲者だけについてみても、
毎年、その数は増えつづけているのだから、
この数ももっと多く修正されるべきであろう。
調査をいっそう重ねて、正確な数に近づく努力が必要である。


この日本人の死者数310万人、そのうち軍人軍属の戦没者
230万人という数字は、その後、日本政府が、
毎年8月15日の戦没者慰霊祭などの場合に、
公式にいいつづけている数字である。

この戦没者数には、朝鮮、台湾などの植民地出身者約5万人が
含まれているので、正確にいえば日本人の死者総数ではない。
また実際には、この数字は過少だという批判がある。


また、日本人の死者数だけをとり上げるのも公平ではない。
日本の侵略の対象となったアジア諸国の膨大な戦争被害に
目を向けなければならないだろう。

ただしアジア諸国民の死者数については、日本人の場合以上に
正確な資料に乏しく、集計も困難である。
何の数字も発表されていない国もあるという状況の中で、
最大の被害国である中国では、抗日戦争期の軍人の死者
380万人以上、民間人の死者1,800万人以上、
計2180万人以上という政府見解がある。


フィリピンでは、死者111万1,938人という数字を
政府が公表している。

そのほかに、フランス領インドシナの餓死者200万人、
インドネシアの被害者100万人、
シンガポールの華僑(現地で帰化した中国人)虐殺の
被害者5万人という数字もある。


したがって、総計では約3,000万人の犠牲者が出ている
であろうと推定される。

つまり戦争犠牲者の総数は不明確であり、
さらに今後の調査が必要だということである。


②餓死者の割合

軍人の戦没者230万人のうち、戦死、病死などの
死因別はどうなっているかについては、
公式の統計はまったくない。陸上自衛隊衛生学校が編纂した
『大東亜戦争陸軍衛生史』は、公刊の衛生史に当たると
いえるものだが、その中では次のようにいっている。

今次大東亜戦争においては、敗戦により、特に統計資料は
いっさい焼却又は破棄せられ、まとまったものは皆無の状況である。
従って、全戦争期間を通じ、戦傷戦病はどの位あったかと
いうことは、全く推定するよしもないのである。


「推定するよしもない」としているこの衛生史は、
戦死と戦病死の割合については、ごく初期の対南方進攻作戦の
ものをあげるだけで、その後の状況については沈黙している。

とくに、後半期の南方の餓死者続出の惨状や、中国における
戦争栄養失調症の多発などについては、まったく触れるところが
ないのである。これは、病死が多数発生するのは軍医として
恥だという感覚からかも知れない。しかし戦争の衛生史としては、
もっとも重大な問題を欠落させているというほかはない。


くりかえしていうが、日本軍人の戦没者230万人の内訳は、
戦死よりもはるかに病死が多いのである。これは衛生、給養上の
大問題であり、戦争衛生史ならば第一にとり上げて、その原因を
分析すべき事態なのである。

それでは、一体、餓死者の割合はどの位だったのだろうか。
今までみてみた各戦場別に、その割合を推定してみよう。
そのさいの、各地域別の基礎数字は、厚生省援護局の
1964年作成のものを使うことにする。実数はこれよりは
いくらかずつ多いはずである。



「第1章1 ガダルカナル島の戦い」でとり上げたのは、
ソロモン群島のガダルカナル島とブーゲンビル島、それと
ビスマルク諸島の主島ニューブリテン島のラバウルの
諸部隊である。

厚生省の統計ではソロモン群島の戦没者
8万8,200人、ビスマルク諸島は3万500人、
計11万8,700人となっている。


ガダルカナル島の場合、
方面軍司令官は、戦没者2万人、戦死5,000人、
餓死1万5,000人と述べている。
ブーゲンビル島では、タロキナ戦以後の戦没者約2万人は、
ほとんど餓死であったと推察される。

そのほかの
ニュージョージア、レンドバ、コロンバンガラなどの

中部ソロモンの諸島の場合も、ほぼ同じような比率であったろう。


したがって、ソロモン群島の戦没者の4分の3に当たる
6万6,000人が餓死したと考えられる。ラバウルの場合、
ほとんど戦死はなく、栄養失調と薬品不足のためのマラリアに
よる病死であるから、ビスマルク諸島の3万500人の
戦没者の9割、2万7,500人は広義の餓死に数えてよかろう。

したがって、この方面の餓死者は9万3,500人を下らない
数に上るであろう。



「2ポートモレスビー攻略戦」と「3ニューギニアの第18軍」
でとり上げたのは、いずれも東部ニューギニアの戦場である。
厚生省の調査では東部ニューギニアの戦没者は
12万7,600人となっている。

各部隊の報告や回想では、いずれも戦没者の9割以上が餓死だった
としている。仮に9割として計算すると、実に
11万4,840人が餓死したことになる。
この多くの若い生命が、密林の中で万斛(ばんこく)の涙を
のんで倒れていったのである。



「4インパール作戦」のインパールはインド領だが、
作戦を担当したのはビルマ方面軍であり、ビルマ戦の一部といえる。
厚生省の調査では、ビルマ(含インド)の戦没者は
16万4,500人となっている。

これは4節であげた陸軍のみの戦没者18万5,149人と
異なっており、航空部隊、海軍を加えれば、さらに数が増える
はずである。そこで述べたように、この78%、
14万5,000人か、それ以上が病死者、すなわち餓死者で
あったと推定される。



「5孤島の置きざり部隊」では中部太平洋の島々とり上げている。
厚生省調査では、中部太平洋の戦没者24万7,200人となっているが、
この中には、上陸した米軍と戦って玉砕したマキン、タラワ、クェゼリン、
ルオット、ブラウン、サイパン、グアム、テニアン、ペリリュー、
アンガウルなどの諸島が含まれている。

玉砕した島以外の各島は、米軍にとって
不必要なために無視され、戦線の背後に取り残された。


その中では、比較的島の面積が広く、ある程度の農耕地もあり、
現地自活が可能だったポナペ、モートロック、ロタ、トラック、
玉砕した2島以外のパラオ地区、ヤップ地区の島の守備隊は、
とにかくにも敗戦時まで生き延びることができた。

しかし、いっさいの補給が絶たれ、自給の手段もなく、
餓死を待つばかりとなった島も多い。

45年4月14日の海軍軍令部調によると、この時点で餓死を
待つばかりだった島は、ウォッゼ、マロエラップ、ミレ、ヤルート、ナウル、
オーシャン、クサイ、エンダービ、バカン、メレヨン、ウエーク、南鳥島で、
なお3万6470人が生き残っていた。


その人々は、地獄の苦しみを味わった後に、6~7割が
最後を遂げることになるのである。

全体として、この地域の戦死、病死の割合は半々とみてよいだろう。
すなわち、12万3,500人が病死、餓死していたといえる。



戦場別でみれば、もつとも多い50万人の戦没者を出したのが
フィリピンである。「6フィリピン戦での大量餓死」でも
述べたように、その8割までが餓死だったとみてよいだろう。

決戦場とされたレイテ島で戦った部隊でさえ、各隊の報告に
よれば、その半数は餓死だったのだから、そのほかの、
ルソンやミンダナオで持久戦を戦った大部分の部隊は、
住民がすべて敵の中で、飢えとの戦いを強いられた。

50万人の中の、40万人が餓死者だったとみることができよう。



中国本土。厚生省の分類で中国本土とされているのは、
日中戦争開始いらいの中国戦線での戦没者で、
フィリピンに次ぐ大人数の45万5,700人となっている。

37年の上海の戦いや、38年の漢口攻略戦などでは
相当数の戦死者を出したが、全体としてみれば、
戦線の広がりの割には戦死はそれほど多くはない。

「7 中国戦線の栄養失調症」で述べたように、栄養失調に
起因する、マラリア、赤痢、脚気などによる病死が、
死因の3~4割を占めていた。


そして、もっとも多くの死者を出した44年からの
大陸打通作戦では、過半数が病死となっている。
全体としては、戦死と病死の比率は、ほぼ半々と考えられる。

すなわち、中国戦場では22万7,800人が、栄養失調を
原因とする病死であろう。