中国とはどんな国だろうー法輪功学習者に対する残虐行為、土地改革と鎮反運動 | 日本人の進路

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左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

中国とはどんな国だろうー法輪功学習者に対する残虐行為、土地改革と鎮反運動




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中国共産党の犯罪、法輪功学習者に対する残虐行為






打倒中国共産党より




中国共産党の犯罪 四


法輪功学習者に対する残虐行為


http://dadao.kt.fc2.com/fanzui04.htm








■中国最大のタブー

 最近は大手マスコミで法輪功に関する報道をほとんど見かけなくなった。一方でインターネットや雑誌では法輪功や大紀元時報を取り上げる機会は増えている。当サイトの「中国のタブー度」でも指摘しているように、法輪功問題は現在中国最大のタブーである。大手マスコミは毒入り食品問題は積極的に取り上げるが、法輪功問題となると中国政府からの圧力を恐れて完全に縮み上がっている。マスコミとしての責務を完全に放棄しているのである。






■中国でも公認されていた法輪功

 法輪功が公に活動するようになったのは1992年5月から、李洪志が中国吉林省で最初の講法を行ったのがきっかけである。92年12月に法輪功は東方健康博覧会に参加、93年12月にも東方博覧会に参加し、このときは博覧会の最高奨を受賞している。当初は中国政府にもその健康効果が認められ、瞬く間に中国じゅうに広まり、学習者の数は1999年までに中国全土で7千万人、全世界で1億人にまで広がったという。7千万人というと超巨大組織のように思えるが、そもそも法輪功は明確な組織体系を持っておらず(全くないとは言い切れないだろうが)、入会手続きも会費の支払いも不要、ただ単に定期的に公園や広場で行われている修練場所に参加するだけである。中国の中高年層では気孔は普通に行われていることであり、中国で7千万人が参加したといってもそれほど異常というわけでもない。






■江沢民が激怒

 初めて法輪功に対する批判的言論が行われたのは1996年6月の光明日報である。だがその当時はメディアで時々批判的言論が取り上げられる程度で、依然として学習者の数は増え続けていった。本格的な弾圧が始まるのは99年からである。1999年4月11日に天津教育学院が発行する『青少年博覧』誌が法輪功のことを「学習者は精神病をきたす」「義和団のような亡国団体」と批判、これに対し18日から24日にかけて法輪功学習者は天津教育学院前で抗議行動を行い、該当する記事の削除を求めた。24日、天津市公安局は45人の法輪功学習者を逮捕した。

 そして4月25日、法輪功学習者1万人が天安門広場に集結し、中央政府に対し不当な弾圧をやめるよう平和的な抗議行動を起こしたのであった。時の首相朱容基は法輪功学習者の訴えに理解を示し、今後の法輪功の活動も認める方針であったという。だが共産党員を上回る7千万人に広まっていた法輪功にかねてから脅威と嫉妬を感じていた江沢民は1万人の抗議行動に激怒、法輪功を徹底的に弾圧する命令を下した。








■本格的な弾圧が始まる

 1999年6月10日、法輪功を弾圧する専門機関610オフィスが設立された。中国のいかなる法律、憲法をも凌駕する特務機関である。
7月19日に中国全土で法輪功禁止令が公布、中国共産党は法輪功を「邪教(日本語で言うカルト宗教)」に指定した。中国メディアは一斉に法輪功の危険性をでっち上げるでたらめな報道を連日繰り返すようになった。中国共産党得意のメディアを総動員する戦術で、1994年以降の反日教育もメディアを総動員して人民に反日感情を徹底的に植え付ける戦術が取られている。

 さらに合法的に出版された数百万冊の法輪功関連書籍やビデオテープが没収され、焼却処分された。全国各地で法輪功学習者が摘発され、監禁、拷問を受けた。弾圧が始まってから1年以内に10万人の法輪功学習者が中国共産党による人権侵害の餌食になったのである。









■迫害、拷問の実態

 中国当局に拘束された法輪功学習者には、とても21世紀の文明社会とは思えないような残虐な拷問が待ち構えている。

吉林省出身の女性Lさんは収容所で目撃した、そして自らが経験した拷問を生々しく語っている。学習者の潘剛さんは看守によって棍棒で足殴られ、楊立東さんは棍棒で頭を殴られ大量出血してしまった。ハンストをしている趙西順さんと潘剛さんに対し、看守は棍棒で彼らの前歯を叩き折った。肖錦春さんは電撃棒で電撃拷問を受け、死亡した。Lさんがいた収容所ではほかにも鉄の鞭で打つ、靴で顔をめちゃくちゃに蹴るなどなどの拷問が行われていた。薛保平さんは数人の看守によって体を固定され、電気棒を直腸に差し込むという拷問を1時間にわたって受けた。Lさん自身も電気棒によって繰り返し拷問を受け、消化器官が麻痺しまともに食事もできない状態となった。幸いLさんは労働強制所から釈放され、健康状態も幾分回復したため、自らの拷問経験を語ることが可能となった。


2001年12月、山東省で法輪功真相の資料を配っていた孫秀彩さんが、警察に拘束され、そこでゴム棒で滅茶苦茶に殴られ、さらに拘留所に送られてリンチを加えられ、危篤状態に陥った。やむなく釈放されたものの、2002年1月上旬に孫秀彩さんは自宅でこの世を去った。

 河北省では2001年11月、宋興国氏が警察により自宅から強制連行され、石家庄留置所へ送られ監禁された。入所してからというもの、迫害に対し絶食することで抗議を行った。監禁され丸一年が経過し、非常に衰弱していたにもかかわらず、石家庄留置所は彼をさらに自宅から遠く離れた邯鄲労働矯正所へ移送した。宋氏が息も絶え絶えとなった時に、邯鄲市労働矯正所の警官は、構うことなく乱暴に口や鼻から、食物を強引に詰め込み虐待した。その11日後に宋氏は死亡した。邯鄲市労働矯正所は、監禁している法輪功学習者に対し凄まじい拷問を行っている。例えば、針を爪と指の間に差し込む、棍棒で殴打する、寒い雪の中に立たせる、更に学習者の片足を切断する事さえもある。56歳の法輪功学習者任盂軍氏は、邯鄲市労働矯正所で8ヶ月もの間酷刑による虐待を受け、両耳は聞こえなくなり、尻及び両腿は鬱血して黒紫色を呈し、内臓は酷く傷つけられ、血尿と血便が出るようになり、2001年10月29日に死亡した。


 瀋陽市魯迅美術大学に勤務していた高蓉蓉さんは2003年7月に竜山強制労働収容所に送り込まれ、収容所で看守に殴打されるなどの虐待を受けていた。2004年5月7日高蓉蓉さんは、7時間に亘ってスタンガンで拷問を受けた。彼女は顔、頭、眼に火傷を負わされ、顔が腫れ形も変わった。彼女の顔は水泡に覆われ、髪の毛も膿と血にまみれた。高さんは、この拷問から脱出したい一心で、二階の事務室の窓から飛び下り、結局骨盤、もも、足を骨折した。彼女がこの傷害で入院したことで、彼女の顔、首、体にある傷の写真を入手できたのである。




(画像省略)



$日本人の進路-法輪功02


スタンガンで拷問された高蓉蓉さんの顔








 黒竜江省出身の徐紅梅さん(左)と沈子力さんは、2007年1月13日に不当に逮捕された。二人は警察によって一週間にわたる残酷な殴打及び拷問の後、体が震えて血を吐き、痛みながら死亡した。徐さんは午後4時30分、沈さんは午後8時50分に死亡し。この二人の女性の体には強打の跡や打撲傷で全身が覆われていた。

徐さんは五日間の虐待の間、両手にかけられた手錠だけで空中に吊り上げられていた。時には彼女の腕を背中に回した後で手錠をかけ、そのまま吊り上げるということもあり、彼女は極度な苦痛を受けた。徐さんは一時、体を大の字形にされて金属かごに閉じ込められていたという。徐さんが苦痛によって意識不明になると、警察は彼女を冷水に浸し、拷問を続けていた。
同じ施設に監禁されていた沈さんは、椅子に縛られて粘着テープで固定されていたという。警察はあるとき、沈さんが意識不明になるまで彼女の頭を繰り返して壁にぶつけて、彼女の意識が戻った後、また拷問を続けた。

 ここで紹介した拷問はほんの1例であり、2001年から現在に至るまで少なく見積もって3000人以上の法輪功学習者が中国共産党の迫害により死亡している。










■生体臓器摘出

 2006年に入って新たな事実も判明した。臓器移植大国である中国で、死刑判決を受けた受刑者から臓器移植が行われていることは以前から指摘されていた。だがなんと拘束された法輪功学習者の臓器も移植用に利用されているのである。しかもなるべく「フレッシュな」臓器を提供するために、生きたまま臓器を摘出するという、聞いただけで背中が凍るような残虐行為が行われているのである。臓器摘出は2001年頃から始まったという。

生体臓器摘出問題は、2007年2月にカナダの独立調査団がカナダ議会で、生きた法輪功学習者を狙った臓器狩りが行われ、売買されている犯罪が中国に現存していることを立証したことを報告しているし、2007年国連報告書でも、国連人権委員会拷問問題の特別調査官マンフレッド・ノーワック氏の最新報告内容によって記されており、極めて信憑性が高い。









■中国以外では普通に活動している法輪功

 中国共産党は法輪功を危険極まりない邪教として宣伝している。だとすれば法輪功は諸外国でも監視され、規制されるはずである。ところが法輪功は世界80カ国でごく普通に活動している。香港でも、韓国でも、台湾でも、シンガポール、タイ、アメリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカなど世界中至るところで、気孔の修練を行い、大紀元時報や新唐人テレビなどのマスメディアを運営し、残虐な中国共産党からの脱党及び中国の民主化を促進する運動を行っている。日本でも全国約50箇所で修練を行い、ほぼ毎月全国のどこかで中国共産党脱党応援パレードを行っているし、東京都ではNPO法人(非営利団体)として認定されている。法輪功の活動はどこの国でも合法的であり非暴力で平和的である。危険極まりないカルト宗教は間違いなく中国共産党のほうである。

 まるで中世のような残酷極まりない拷問は、我々が生きている21世紀の現在、わが国のすぐ隣で行われている。日本と中国は経済的にも文化的にも関係は非常に深い。日本人には日中関係や中国の人権問題に関心を持つ人も多いはずである。ならばこそ、中国共産党が現実に行っている中国人に対する身の毛もよだつような人権侵害を厳しく糾弾すべきである。これができない人には日中友好を語る資格は全くないと断言してよい。
 












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中国共産党の犯罪、土地改革と鎮反運動






打倒中国共産党より


中国共産党の犯罪 六



土地改革と鎮反運動

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui06.htm







 特集:中国共産党の犯罪ではこれまで、中国共産党が諸外国の民族に対して及ぼした残虐行為を取り上げてきた。当然ながらこのような暴虐殺人組織に支配された国民はさらに悲惨である。実際のところ、中国人こそが中国共産党による最大の犠牲者である。中国共産党が殺した中国人の数は実に8千万人にのぼる。間違いなく中国共産党は人類史上最悪の殺人集団といえよう。


 1949年10月1日に中華人民共和国が建国されたとき、多くの人民は期待と希望に胸を膨らませたことであろう。だが建国とほぼ時期を同じくして、6億の人民の淡い期待はたちまち恐怖へと変わる事になる。




 中国共産党は政権を握ると早速土地改革を実行に移した。土地改革はすでに抗日戦争や国共内戦時代から根拠地で行われていたが、政権獲得後は全国で虐殺と略奪の嵐が荒れ狂った。土地改革とは表向き地主や富豪から土地と財産を没収し、貧しい農民に分配するというものだ。中国共産党は土地改革により、暴利を貪る地主の搾取から農民たちが解放されたと自画自賛しているが、実態はどうであったかを以下に見て見よう。



 共産党は土地改革を行うにあたり、破落戸たちから積極的に情報提供などの協力を得ることにした。破落戸とは日本語では「ごろつき」という読ませ方をする(ほかにも「ならずもの」とも読む)。要するに素行が悪く、人間性の欠如したチンピラのことだ。そして破落戸は、生活が豊かで、財産と文化的教養を身に付けた地主や裕福な家庭に憎しみを抱いている。そういうこともあり、毛沢東は破落戸こそが農村革命の勇敢な参加者と位置づけたのだ。





 土地革命は次のような手順で行われた。家族が朝食をとる時間を見計らって共産党軍が地主の家に乱入し、家族全員を一箇所に監禁し、金銭、金品、土地の所有証書などを徹底的に略奪。見つからなければ地主を拷問して場所を聞き出す。奪うだけ奪いつくすと、地主及びその家族を広場に引きずり出して、村人たちに裁判を開かせる。この裁判でも破落戸たちが協力している。破落戸たちは地主の罪状を次々とでっちあげて糾弾する。そして死刑判決が下される。地主を地面に跪かせてライフル銃で射殺する。脳みその半分は飛び散ってしまう。このような殺戮が中国国内のありとあらゆる村で行われた。中国共産党が掲げた「一村一焼一殺」という方針により、1952年までに240万人の地主や富裕層が虐殺された。命は助かったが財産と家屋を略奪されたものも400万人近くにのぼった。建国前に革命根拠地で行われていた土地改革では地主の家屋までもが破壊されたが、建国後の土地改革では地主の家屋は共産党の支部として利用するために温存された。




 こうして土地改革により、中国共産党は全国に共産党の支部を設立し、地主から金品や財産を略奪し、6億の人民に恐怖心を受け付けるという成果を収めたのである。



 土地改革と同じ時期に鎮反運動、いわゆる「鎮圧反革命分子運動」が開始された。1950年10月10日、毛沢東は「反革命活動鎮圧に関する指示」を発令し、それに基づき1951年2月21日、中国共産党は「懲治反革命条例」を制定した。「匪賊、悪党、スパイ、国民党員、反動的団体の幹部、反動的セクト組織のリーダー、麻薬反」などが鎮圧の対象とされた。だが裁判や刑執行に関する法律が全く不明確で、なおかつ毛沢東は全国に殺害のノルマを制定した。「人口の千人に一人以上」というものだ。なぜ千人に一人という数字なのかは不明であるが、毛沢東が気まぐれで、これだけ殺しておけば人民に恐怖を受え付けることができると判断したとしか解釈しようがない。こうして中国全土で殺人の嵐が吹き荒れた。まず各地の共産党組織が人民代表連合大会という動員大会を開き、群衆たちに反革命分子を告発させる。それに基づき公安が告発された反革命分子を一斉に逮捕する。即座に人民法廷が開かれ、その場で死刑を言い渡し、即座に銃殺する。





 処刑された人たちの罪が、死刑に価するかどうかなどは、中共にとってどうでもよい問題である。《中華人民共和国反革命分子を懲罰する条例》によると、「デマを飛ばす」ことさえも、即時死罪にすることができるのだ。実際のところ、千人に一人の犯罪者を探すことなど容易なことではなく、ほとんどの人々は匪賊にもスパイにも反革命活動にも心当たりがないまま告発され、処刑された。


 1951年10月まで続いた鎮反運動により、71万人が虐殺され、そのほかに129万人が逮捕された。中華人民共和国建国からわずか2年で、中国共産党は土地改革と鎮反運動によって300万人の大虐殺を行ったのである。




 鎮反運動と土地改革が一通り終わってからわずか3年後の1955年、中国共産党は粛反運動(粛清反革命分子運動)を繰り広げた。実態は鎮反運動とほぼ同じである。この運動で逮捕されたのは130万人。そのうち処刑されたものは8万人に上った。普通の国であれば短期間で8万人が虐殺されれば、その国の歴史にとって最も暗黒な時代として記憶されることであろう。しかし中国共産党暴虐独裁政権にとって8万人の虐殺ぐらいは日常茶飯事であり、大きく取り上げるほどのことではないのである。



 人民を恐怖に落としいれ、全国で虐殺の限りを尽くした中国共産党の残虐行為はこの程度で留まることはなかった。さらに大規模で残虐な無差別大量虐殺が中国全土を襲うことになる。











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