中国とはどんな国だろうーー中国共産党血の履歴書 | 日本人の進路

日本人の進路

左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

中国とはどんな国だろうーー中国共産党血の履歴書





    はじめにクリックをお願いします 
人気ブログランキングへ














***************************





中国共産党血の履歴書







中国の民族浄化

(クリックで拡大)

$日本人の進路-中国の民族浄化




超軍国主義国家
超侵略国家
超虐殺国家
脱人間国家
共産主義、全体主義国家、悪魔帝国
人治主義、無法国家

それが支那(中国)共産党が支配する中華人民共和国という国である。
 















【直言極言】中共に何も言えない日本のジャーナリズムと政治[桜H24/2/10]




















【直言極言】中共の宣伝工作機関と化したNHK[桜 H21/4/11]





















*********************************





東アジア黙示録より 
http://dogma.at.webry.info/200803/article_7.html





胡錦濤チベット血の履歴書…89年ラサ大虐殺指令

作成日時 : 2008/03/21 


89年のラサ大虐殺で、胡錦濤は何を行なったのか…血塗られた履歴を暴く。そして「人民戦争」を宣言した現チベット総督は、胡錦濤の親友であり東トルキスタン弾圧組織のリーダーだった。 






(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット001










ラサの街は中共軍のキャタピラに蹂躙され、そこに暮らすチベット人からの音信は、ほぼ途絶えた。7世紀から続く宗教都市は、外部世界の者に悲鳴さえも届かない闇の底に沈んでいる。

今この瞬間も、聖都では兵士らによる過酷な弾圧が進行し、人々は恐怖の中にいるのだ…
  







▼ラサ中心部での検問3月17日(ロイター)


(クリックで拡大)



$日本人の進路-チベット002



専門家による映像解析の結果、ラサ市内には早くから中共軍部隊が送り込まれていたことが分かった。 アジアの軍事・外交問題専門誌『漢和防務評論』平可夫(ピン・コフ)編集長は、こう解説する。

「装備などから、いずれも成都軍区最精鋭部隊の第149緊急展開師団と第52山岳歩兵旅団が出動したと見られる」
 








▼ ラサに侵攻した装甲車(米NBC)



(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット003









ラサで確認できたのは、90式、92式と呼ばれる最新鋭の重装甲車で、車両後部の白い覆いの下には、中共軍所属を示す赤い星が隠されてるという。

「治安部隊は発砲しておらず、戦車など人を殺害する武器は一切使っていない」

植民地チベットの序列2位に当たるシャンパ・プンツォクは、17日の会見で、そう強弁していた。しかし、精鋭部隊投入の発覚で、アバでの射殺遺体に続いて中共侵略政府の嘘がまた一つ暴かれた。
 








▼装甲車の後部・側面に白い覆い3(ロイター)


(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット004











▼通常の仕様では該当部に赤い星と認識番号

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット005








チベット地域を管轄する成都軍区は最高レベルの警戒態勢に入ると共に、増派を続けている模様だ。チベット人弾圧が加速するカム地方アバ周辺では、ミリタリー・コンボイの移動も相次いで確認されている。 






▼カム地方で19日確認された軍車両(ロイター)


(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット006








成都軍区の総兵力は、それだけで自衛隊に匹敵する20万人規模。圧倒的な軍事力で、恐怖支配を推し進める計画だ。有無を言わせない力による封じ込め。ゴーサインを出したのは中共党中央軍事委員会である。

軍事委主席は胡錦濤。悪名高いチベットの屠殺鬼は、19年前とまったく同じ手法で、祈りの大地を血で染め上げるつもりだ…
 





 【重要行事の禁止令に蒼ざめた市民】

1988年12月末、中共政府は、植民地チベットの新しい総督をラサに送った。胡錦濤である。その時、46歳。貴州省党委員会書記から、チベット自治区党委員会書記への異動だった。

中共による軍事占領下チベットでは、常に漢族がナンバー1の党委員会書記に就き、チベット人の自治区主席はナンバー2である。西洋列強の植民地支配システムと同じで、中共体制下では永遠にその支配構造は変わらない。
 









▼中山服を着た胡錦濤3月10日(AP通信)

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット007









それまで歴代の植民地チベット総督はすべて軍人だったが、胡錦濤に軍歴はなかった。初めての「文民総督」出現だ。皮肉なことに、その非軍部出身者が着任後まもなく、狂気の軍政を敷くことになる…

胡錦濤のチベット総督就任は、左遷人事ではなかった。情勢不安定なチベット地域への転任は、北京の老人達から与えられた“出世のチャンス”でもあったのだ。
 







▼軍人栄誉式での胡錦濤2006年

(クリックで拡大)

$日本人の進路-チベット008





46歳の男が支配者となった時、チベットは揺れていた。名だたる高僧の相次ぐ公開処刑で、チベット民衆が動揺。蜂起の形で反発が高まった。中共侵略政府の恐怖政治が社会不安をもたらしたのである。

そこに、新顔の総督が最悪の決定打を放った。

チベット人には欠かせない正月の重要行事を一存で潰したのだ。チベット暦新年(ロサ)明けに行なわれるモンラム(大祈祷祭)。89年2月6日、胡錦濤は突然、モンラムの禁止を宣言した。
  









▼3月14日のジョカン寺前(ロイター)


(クリックで拡大)

$日本人の進路-チベット009








理由は、モンラムに向けて地方から多数の僧侶がラサに集まるのを防ぐ為だった。これに僧侶と市民は一斉反発。翌2月7日には、チベット密教の総本山ジョカン寺に市民が続々集まり、猛抗議の声をあげる。


「胡錦濤は直ちに軍責任者を含む緊急党委員会を招集し、情勢を分析して対策を協議した。同時に、党中央にラサの緊迫した状況と政策提案を報告した。


 胡錦濤は政策提案の中で、軍の出動準備と出動命令の権限を自分に与えてくれるよう党中央に求めた。文民職の党書記が党中央に対して、軍に対する命令権を求めるなど、前代未聞のことだった」(楊中美著『胡錦濤-21世紀中国の支配者』130-131頁)


胡錦濤の異例の要請は受け入れられ、そして、ラサは修羅の棲む地と化した。
 





 【群衆に発砲…血に染まったラサ】

1989年3月5日。モンラムが禁止されたジョカン寺に多数の僧侶と市民が参集した。2008年3月14日に装甲車が群衆の中に突入し、チベット人を轢き殺したのも、このジョカン寺の周囲だった。
 









▼ 89年虐殺時のジョカン寺前

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット010








彼らはチベット民謡「雪国の理想」などを歌いながら街頭に繰り出す。中には雪山獅子旗を手に持ち、チベット独立を訴える者もあったという。平和的な行進の参加者は次第に膨れ上がり、ラサの街は熱気を帯びた。しかし、そこで胡錦濤は非情の決断を下す。

「午後1時40分、胡錦濤は前述した党中央から送付された『チベット情勢と取るべき対策』に従って武装警察を主体とした武力鎮圧を発動した。


 チベット人の歓声は銃弾の中に消え、代わりに負傷者のうめき声、泣き叫ぶ声、恐怖のあまり逃げまどう人々の叫び声などが響いた。ラサの街は一瞬のうちに血と涙で覆われてしまった」(前掲書131-132頁)
 












▼ 境内で僧侶を襲撃する中共部隊(89年3月)


(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット011









19年後の3月に行なわれた虐殺も、この時と同じような惨状だったに違いない。ジョカン寺に人々が集まり、膨れ上がるのを待って襲撃を仕掛けたのだ。

これまでの情報を総合すると、今回のジェノサイドは89年以上に苛烈であった可能性が高い。
  





 【チベット人犠牲者は約800人にも…】

治安部隊の大量投入による徹底した弾圧、無差別殺戮は3月7日まで続いた。89年のラサ弾圧を撮影した映像が残っているが、それは恐らく、この「悪夢の3日間」であると推定される。

寺院内に入り込んだ武装警官らが僧侶に激しい暴行を加える瞬間、市民を殴りつけて拘束する模様、拘束した僧侶をトラックに押し込む様子などがカメラに捕らえられている。世界に衝撃を与えた映像だ。
 


この時は、事前に海外メディアの記者が緊迫化したラサに入っていたのである。 











▼ トラックに押し込まれる僧侶


(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット012








 「チベット問題を考える会」の代表で僧侶の小林秀英氏は「最初の2日間で200人のチベット人が殺された」と告発し、次のように語る。

「当時、日本人の観光客も現地にいたのですが、若い兵士が広場に入って来て、いきなり民衆に発砲したり、ホテルや建物にまで向かって乱射する様子が目撃されています」
(週刊新潮2002年2月15日号)
 











▼チベット青年を乱打する治安部隊員

(クリックで拡大)

$日本人の進路-チベット013








いったい何人が犠牲となったのか?


今回と同様に、多くの外国人旅行者・滞在者がラサ市内にいた。海外メディアは、旅行者や市民の証言から「犠牲者数は800人規模に上る」とも推定。


だが、中共政府が発表した死者数は、たった11人だった。


2008年3月の現在進行中のジェノサイドでも、中共当局は「死者13人」などという偽情報を発信している。情報統制の闇の中で、どれだけの犠牲者が出ているか、89年のケースが参考になるだろう。
 









▼街を埋め尽くす治安部隊員

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット014






その時の悲劇は3日間で終わらなかった。聖都ラサを血で覆った胡錦濤は、中共史上初となる戒厳令を布告するのである。




【ヘルメット・軍服姿で大虐殺を陣頭指揮】

ラサ市内を武力制圧した後も、胡錦濤は手を弛めなかった。間もなく3月10日を迎える…1959年のラサ平和蜂起から30周年となるメモリアル・デーだ。


胡錦濤は再び現地の党・政府・軍の責任者を招集して緊急会議を開催。穏便な対処を求める意見も出たが、胡錦濤は反対の声を抑えつけて決定を下すと、直ちに北京の党中央に連絡した。

「今こそ戒厳令公布の時です」
 







▼軍人と談笑する胡錦濤3月10日(ロイター)

(クリックで拡大)

$日本人の進路-チベット015








胡錦濤はチベット侵略政府の名義で第1号令、第2号令、第3号令を発布。その内容は中共武力集団による無法状態を導き出すものだった。

「1989年3月8日、零時をもってラサ地域に戒厳令を実施する。(略)いかなる者でも、いかなる場所でも、いかなる方法でも、独立要求を煽動したり、混乱を起こしたり、権力機関を攻撃したり、公共施設を破壊したりすることは、絶対に許されない。

 公安警察、武装警察、軍はこれらの行為に対して強硬措置をとってもよい。上記のような行為をした者は、その場で拘留する。もし暴力による抵抗が行なわれたら、直ちに銃殺してもよい」(前掲書134頁)

中共軍を含む全武装組織の出動と、その場での銃殺は、現在のラサ及びアムド、カム地方の町で行なわれている大弾圧と同じだ。戒厳令公布の状態となんら変わりない。
 










▼インドでの反胡錦濤デモ(Phayul.com)

(クリックで拡大)

$日本人の進路-チベット016






胡錦濤の非情極まりない対チベット政策は今も昔も一緒である。違いがあるとすれば、19年前のジェノサイドで胡錦濤は、北京の老人たちに強いインパクトを与えるパフォーマンスを行なったことだ。

「3月8日、零時、ラサ市に戒厳令が出された。とそのとき、胡錦濤が文民職のチベット党委員会書記でありながら、自らも軍服姿になり、鉄のヘルメットをかぶって、戒厳部隊と共にラサの街頭に現れたのだ。

 新華社は、この写真を全国に配信した。軍服、ヘルメットを着け、厳しい表情と鋭い目つきの胡錦濤は、本当の将軍のように勇ましい姿だった」(前掲書134頁)
 











▼閲兵式に臨む胡錦濤2007年(ロイター)

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット017








戒厳令下のラサでは、市民の数人の集まりも集会と見なされ、拘束の対象となった。また武装集団は、「煽動した」「噂を流した」などとして罪のないチベット僧・市民を相次いで捕らえ、拷問を行なった。

本当の悲劇は、市内の混乱が治まった後に起きたのである。そして戒厳令は、実に419日間解かれることがなかった。
 






 【胡錦濤の眼前で差別政策を糾弾】

1989年のラサ大虐殺。僧侶と市民による反発は、胡錦濤によるモンラム禁止命令だけではなかった。その直前にもチベット世界に衝撃を与える出来事があったのだ。


パンチェン・ラマ10世の謎の急逝である。


文革中に投獄されるなど過酷な体験をしたパンチェン・ラマ10世は、長らく北京の代弁者とも見なされてきた。法王猊下のインド亡命後、中共政府はパンチェン・ラマを利用して牽制していたのだ。
 








▼ 若き日のパンチェン・ラマ10世

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット018







しかし、1987年のエセ国会(全人代)でパンチェン・ラマ10世は、中共によるチベット差別政策を非難し、チベット人を驚かせる。北京に洗脳されてはいなかったのだ。

88年の末、幽閉同然で北京に蟄居していたパンチェン・ラマ10世は、政府専用機でラサ空港に降りたった。久々の祖国凱旋である。それに同行し、密着していたのが、新総督就任が内定していた胡錦濤だった。

パンチェン・ラマ10世がチベット各地で熱狂的に歓迎されるのを、胡錦濤は目の当たりにしたという。胡錦濤は、自分の植民地統治プランの中で、パンチェン・ラマ10世を巧みに使おうと謀っていたようだ。
 










▼パンチェン・ラマ10世

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット019









ところが…

89年1月24日、チベット第2の都市シガツェで歴代パンチェン・ラマ霊塔の再建落成式が催された。中共侵略政府の高官が居並ぶ中、パンチェン・ラマ10世は、そこで再び、北京を痛烈に非難する。


「チベットは中国から得た恩恵よりも、中国によって失ったものの方が大きい」
参照:ダライ・ラマ法王庁HP『パンチェン・ラマ10世』


このセレモニーで、パンチェン・ラマ10世の隣の席に座っていたのが胡錦濤だった。新たに就任した46歳の総督は、いきなりメンツを潰されたのだ。


その僅か4日後の1月28日、パンチェン・ラマ10世は急逝する。死因は心臓発作とだけ公表された。余りにも不可解な最期であった。
 







(クリックで拡大)




$日本人の進路-チベット020












直前の非難発言とあわせて、急死を疑問視する噂が急速に広がったという。それが、ラサでの反発の大きな下地となった。

パンチェン・ラマ10世急逝に関する詳しい状況は、今も隠されたままだ。
 





 【現侵略政府トップは胡錦濤の直系】

1989年のラサ大弾圧は、若き胡錦濤がシナリオを描き、党中央の裁可を経て実行した。では、今回のジェノサイド指令を出したのは誰か?


それもまた胡錦濤である。


現在の植民地チベットの総督は、張慶黎(ちょう・けいり)。遥か異国の山東省出身の57歳だ。北京では侵略区主席のチベット人シャンパ・プンツォクが会見に応じていたが、その権力は比較にならない。
漢族の党委員会書記が圧倒的に力を持っている。
 









▼全人代で会見する張慶黎3月7日(AP通信)

(クリックで拡大)



$日本人の進路-チベット021








3月19日付の『西蔵日報』は、初めて張慶黎の強硬発言を報じた。 張慶黎は、こう語ったという。


「生きるか死ぬかの血みどろの戦い」


植民地総督らしい下劣な言葉遣いである。実は、この張慶黎こそが胡錦濤直系の子分で、家族ぐるみの付き合いがある同志なのだ。

「胡錦濤が1982年から共産主義青年同盟書記を務めていたとき、部下に張慶黎という副部長がいた。張は当時まだ中将だった張万年の甥である。(略)

  


 宿舎にはもう一つ小さな西向きの部屋があり、そこには若い張慶黎夫婦が住んでいた。その後1992年に胡錦濤が党中央指導者になるまで、10年間、胡錦濤と張は隣同士だった。西向きの部屋に住む2人は家族ぐるみで仲がよかった」(前掲書185頁) 









▼ 会見する侵略政府トップ張慶黎3月7日(AP通信)

(クリックで拡大)



$日本人の進路-チベット022











軍歴のない胡錦濤は、早くから張慶黎の伯父である張万年に接近し、関係を深めていた。張万年は後に党軍事委副主席に選出され、中共軍制服組トップの大将となった老将軍である。

その人物相関図が19年の時を経て、再びチベットに銃弾の雨を降らすことになった…



【末代に続く「民族の罪人」の汚名?】 



胡錦濤は老将軍の甥である張慶黎を重用し、自分が党中央指導者になると重要ポストに抜擢。2000年には「新疆生産建設兵団」の司令官に任命している。

この「新疆生産建設兵団」とは、党・軍・行政が一体化した中共唯一の特殊な組織だ。東トルキスタンの独立運動を封じ、漢族の移住を進める目的で、毛沢東が政権樹立直後に作った準軍事組織である。
 








▼ウルムチに配備された中共特殊部隊(ロイター)

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット023





胡錦濤は、東トルキスタンで軍事組織を率いた愛弟子を2006年5月に植民地チベットへ送り込んだのだ。武力による強権発動は、既にセットアップされていた…

3月15日に「人民戦争を発動する」と宣言した植民地チベット緊急拡大常務委員会の最高責任者も張慶黎だった。この男は、旧友の胡錦濤が「殺戮の嵐」を評価されて出世した事実を熟知している。
 












▼ 日本人学生を迎える胡錦濤3月15日(ロイター)

(クリックで拡大)


$日本人の進路-チベット024








そして、胡錦濤-張慶黎ラインが恐れているのは、国際社会からの非難などではなく、あくまでもチベットの独立だ。それは中共指導者にとって「万死に値するもの」なのだという。


戒厳令発令を決めた1989年3月7日夜、緊急会議の席で胡錦濤は、こう発言した。


「われわれは祖国の統一、または分裂に関わる重大な問題において、旗印をはっきり示し、立場をはっきりさせなければならない。今、チベットで一歩でも退いたとしたら、われわれは民族の罪人となってしまい、第二の秦檜(しんかい:南宋の宰相)や汪兆銘になってしまう」(前掲書132頁)


連中にとって、チベット人の悲鳴も涙も関心事ではない。ただ、自分が末代に続く汚名を着ることを恐れているのだ。その身勝手な考えによって、いったい何万人のチベット人・ウイグル人が犠牲になったことか… 











(クリックで拡大)



$日本人の進路-チベット025.










現在、チベット全域で進行中のジェノサイドが、89年のラサ大虐殺を上回るのは確実だ。

それだけに国際社会の素早い対応が求められている。すでに14日の虐殺開始から1週間が経った。最早、1分1秒とて遅れの許されない深刻な人道上の危機である。
 








 (以上 東アジア黙示録より) 










**********************************




共産主義は人間を悪魔に変える「人類最悪の思想」であり、人間の命を虫けら以下に扱う恐怖で人々を統治する「人間性ゼロ」の暴力政治思想である。 

人気ブログランキングへ