尖閣諸島 | 日本人の進路

日本人の進路

左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

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尖閣諸島






http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page005.html


尖閣諸島全景




$日本人の進路-尖閣諸島全景01





$日本人の進路-尖閣諸島全景02

尖閣諸島全景(01)   魚釣島・飛瀬・北小島・南小島

出典:産経新聞社



手前から南小島、北小島、魚釣島。
北小島と魚釣島の間に白い波が見えるが、
これが飛瀬(とびせ)と思われる。
大体この方向が尖閣諸島全景写真の定番である。











尖閣諸島全体図



$日本人の進路-尖閣諸島全体図02







$日本人の進路-尖閣諸島全体図03






$日本人の進路-尖閣諸島全体図04





$日本人の進路-尖閣諸島全体図05






$日本人の進路-尖閣諸島全体図06










尖閣諸島位置図


尖閣諸島は東支那海にあり、一番大きい魚釣島まで、沖縄本島より東へ410km、
石垣島から北北西へ170km、台湾からは石垣島と同じく170km、
中国大陸までは330kmの位置にあります。





$日本人の進路-尖閣諸島位置図01

(図・第11管区海上保安部)







$日本人の進路-尖閣諸島位置図02








 尖閣諸島の名前の由来


黒岩恒

$日本人の進路-黒岩恒






尖閣諸島の名前は黒岩恒(当時沖縄県師範學校博物農業教師教諭、後国頭郡組合立農学校長)の命名に由来 する。
明治33年古賀辰四郎が永康丸を尖閣諸島に派遣した時に氏は校命により調査にと同行し、魚釣島の調査に あたった。
この調査結果を発表した地學雑誌第140巻「尖閣列島探検記事」(明治33年)の中に次の文がある。



+++++++++++++++++++

總論
茲に尖閣列島と稱するは、我沖縄島と、清國福州との中央に位する一列の小嶼にして、八重山列島の西表(いり おもて)島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り、本列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離 亦略相似たり、臺灣島の基隆へは僅々一百二十余哩を隔つ、帝國海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ず るに、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸岐(※1)、及び黄尾嶼より成立し、渺たる蒼海の一粟なり。左れど其位置上の 関係よりして、古來沖縄縣県人に知られ居れり、而して此列島には、未た一括せる名稱なく、地理學上不 便少なからざるを以って、余は窃かに尖閣列島なる名稱を新設することとなせり。-後略-


尖閣諸嶼 (※2)
-前略- 尖閣或は尖頭(※3)なる名稱は本島の處々に見る所の突岩に基くものにして、南小島の東部に 屹立する者頗る大なり。
余は之に新田の立石なる名稱を附せリ、(仝僚教諭・新田義尊氏に因む)又北小島の西 端なる三尊岩(新稱)の如きも、尖閣の名に負かさるなり、-後略-


+++++++++++++++++++



※1「岐」は間違い、正→「嶼」
※2黒岩は釣魚嶼の東方に位する二小島と、数個の岩礁の総称を「尖閣諸嶼」 と名付けるに当たって日本帝国海 軍水路部が作成した「日本水路誌」の「ピンナクル諸嶼(尖頭諸嶼)」と英海軍水路誌にある「The Pinnacle group」を 参考にしているが、北小島と南小島の二島だけでなく魚釣島・久場島などを含む列島全体を「尖閣」としたのは北小 島や南小島の様相が影響している様である。
※3「尖頭」とは日本水路誌にあるピンナクル諸嶼(尖頭諸嶼)のこと。










五つの島と三つの岩からなる尖閣諸島



尖閣諸島とは東シナ海に浮かぶ5つの島と3つの岩からなる島嶼のことです。
5つの島とは、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島のことであり、
3つの岩とは、飛瀬、沖ノ北岩、沖ノ南岩のことです。
最も大きな島の魚釣島でも広さが約3,6平方キロほどしかありません。



$日本人の進路-尖閣諸島位置図01



上図は第11管区海上保安部のものに飛瀬(とびせ)を加筆したものです。

(書き加えたのは飛瀬の位置を明らかにする為です)

これは第11管区海上保安部が位置図を変更する前のものです。

現在のものは沖の北岩・沖の南岩の名前もないので更新前のものを採用しました。







写  真





$日本人の進路-写真01

魚釣島
(写真:第11管区海上保安部)






$日本人の進路-写真02

北小島・南小島
(写真:第11管区海上保安部)



$日本人の進路-写真03

全景(南小島、北小島、魚釣島)
(写真:第11管区海上保安部)







$日本人の進路-写真04

久場島
(写真:海保航空基地の業務)





$日本人の進路-写真05

大正島
(写真:webサイト)










地図



魚釣島





$日本人の進路-魚釣島01

黒岩恒氏の作製した地図



「釣魚嶼地質図」となっている。

日本の支配下にあった琉球たが、表向きは中国の属国として朝貢しており、

公式文書は漢文であり、その歴史が見て取れる名称である。

この時代にどういう名称を使っていたとしても、日本の尖閣諸島領有に疑念は生じない。

日本が尖閣諸島を編入して以後、1970年代に石油の埋蔵が確認されるまで

中華民国政府も中国共産党政府も異議を唱えていない。あまつさえ中華民国は、

福建省恵安県の漁民が遭難したのを魚釣島の住民に助けられた際、感謝状を

贈っているが、その中にハッキリと 「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島の和洋島(魚釣島)」と書かれ

ており、 中華民国駐長崎領事馮冕の文字と中華民国駐長崎領事印と書かれた公印もある。

古賀善次氏もこの「感謝状」があると述べている。




国際法も国内法も後で書かれたものが有効である。

1970年代以降の台湾と中国の領有権主張は一方的なもので日本政府は承認していない。

従ってこの石油の埋蔵が発見されるまで行きがなかった事実と感謝状の存在だけでも

国際法は明確に尖閣諸島の日本領有を支持するのである。








$日本人の進路-魚釣島03

魚釣島地名入り図


地學雑誌明治33年9月第12輯第141巻に黒岩恒

釣魚嶼地質圖(地学雑誌明治33年卷・)

geological map of hos-pin-su


H.KUROIEWAは作者黒岩恒(くろいわひさし)氏のこと。





魚釣島の地名-黒岩氏が命名


上の地図は黒岩恒が魚釣島に地名を付けた地図である(地學雑誌第140巻)。

++++++++

彼は山や渓流にも色々と名前を付けている。
釣魚嶼の最高峰(362メートル)を奈良原岳は 当時の奈良原繁沖縄県知事から、北面の東谷の道案渓は八重山島司野村道安氏から、安 藤岬は沖縄師範学校安藤喜一郎校長、南小島の西岸に伊沢泊とあるは伊沢弥喜太氏か ら。
伊沢氏は明治二十四年に漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航している。
南小 島の東部にある「新田の立石」は黒岩氏の同僚新田義尊氏から。
北小島と釣魚嶼とのあいだ の西よりの佐藤水道は永康丸の佐藤和一郎船長から。
永康礁は大阪商船会社汽船永康丸 から。

(管理人)


++++++++





現代の地図に黒岩氏の付けた地名を加えてみました



(2) 地名が記された久場島の地図


$日本人の進路-久場島01


黄尾島之圖(宮嶋幹之助作成・明治33年)



今は全て無人島ですが、かつて魚釣島・久場島・南小島には鰹節工場があり、多い時は99戸、248人が住んで いました。上図は明治34年出版の地学雑誌第13集(東京地学協会)に掲載された上図 「黄尾島之図」ですがはっ きりと 「古賀村」と書かれています(拡大図)。









 領土編入の経緯



 我が国が尖閣諸島の領有意志を明確にしたのは、一八八五年(明治十八年)沖縄県知事西村拾三が、尖閣群島 を同県の所轄として国標を建設したい旨大政大臣宛に上申して以来のことです。

 上申を受けた井上外務郷は、尖閣諸島が清国福建省境に近いことから、清国との間に問題の起こる事を恐れ、こ れを退けました。中国人はこれをもって「日本は中国の領土と分かっていたから奪う機会を狙っていたのだ」と言いま す。それは邪推というもので、自分たちだったらそうする(現代の南沙諸島も尖閣諸島に対するやり方を見れば明白) から、日本人も同じだと考えているだけのことです。併し今の日本を思えば当時の日本政府が何でそういう態度に出 たのか当然理解できると思います。当時清国は大国で日本は完全な小国です。明治の日本が領有権を表だって主 張できなかったことは当然です。併しそれは尖閣諸島が清国の領土だと認めていたからではなく、あくまで当時は大 国であった清国との間に問題の起こることを恐れた結果にすぎません。




 併し沖縄県では、その後も尖閣諸島近辺において漁獲を試みる者があったようで、沖縄県知事は明治23年(189 0年)、明治26年(1893年)と相継いで同県の所轄方と標杭の建設を、内務および外務両大臣に上申しました。下 に引用した「久米赤島久場島及魚釣島版図編入経緯」の中にそのことが書いてあります。



 明治28年(1895年)3月14日、閣議で魚釣島・久場島を沖縄県の所轄と認め、沖縄県知事の上申通りに所轄標 杭を建設することを決定(勅令十三号)し、その旨を沖縄県知事に指令しました。翌明治29年4月1日、沖縄県知事 は勅令十三号に基づき同列島を八重山郡に編入させる借置をとりました。この尖閣列島に対する国内法上の編入借 置により尖閣列島は正式に我が国の領土に編入されたのです。




 日本は清国と戦争になって初めて尖閣列島領の意志を表明できたのです。それまでは清国との争いを恐れ明らか にできませんでした。日清戦争で日本は尖閣諸島を奪い取ったと言われるのはこのためです。ですが、よく考えて下 さい。当時の世界には未発見の土地があってそれを発見した国が領土に編入した時代です。そして、いつでもどこで も本当のことが言えるというのは大国の論理です。百年後の現在も本音を言えない民族や国家が沢山あります。戦 後の敗戦小国の日本は再び三度事なかれ主義に陥り何も言えない、言わない時代が続きました。今もそうです。経 済大国となり尖閣諸島を領有している現在ですら政府は中国との争いを恐れ尖閣諸島に上陸し領土を侵犯した中国 人を中国の圧力に屈し法律で罰することなく帰国させました。こういう態度が中国や台湾につけ込まれるスキを与え てしまい、問題をこじらせてしまっているのです。








「久米赤島久場島及魚釣島版図編入経緯」(『日本外交文書』第十八巻版図関係雑件)

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沖縄県ト清国福州トノ間二散在スル久米赤島(久米島ヨリ未申ノ方大凡七十里ヲ距チアリ清国福州ヲ去ル或ハ ニ百里二近カラン)久場島(久米島ヨリ午未ノ方大凡百里ヲ距テ八重山島ノ内石垣島二近接セル大凡六十里余 二位ス)及魚釣島(方位久場島ト同一ニシテ唯十里程遠シ)ノ三島ハ別ニや国所属ノ証跡見エス且ッ沖縄所轄ノ 宮吉八重山高等二接近セル無人島填ナルヲ以テ国標取建二関シ沖縄県知事ヨリ上申アリタルヲ以テ右ノ詮議 方太政大臣へ上甲スルニ先チ明治十八年十月九日山県内務卿ヨリ井上外務卿へ意見ヲ徴シ来レリ外務卿ハ 熟考ノ結果本島填力清国国境二接近セルコト叢雨タル(筆者注小さい)島填ナルコト当時清国新聞紙等二於テ 本邦政府力台湾近傍ノ清国所属島填ヲ占拠セシ等ノ風説ノ掲載セラレ清国政府ノ注意ヲ促シ居ルコト等ノ理由 二拠リ国標ノ建設島填ノ開拓ハ他日ノ機会二譲ル方然ルヘキ旨十月二十一日回答セリ依テ十二月五日内務外 務両卿ヨリ目下建設ヲ要セサル儀ト可心得旨沖縄県知事へ指令アリタリ

明治二十三年一月十三日沖縄県知事ヨリ本件島喚ハ従来無人島ナルヨリ別二所轄ヲ定メス其儘二為シ置キタ ル所近時水産取締ノ必要ヨリ所轄ヲ定メラレ度キ旨八重山島役所ヨリ伺出アリタルニ付勇管轄所定万内務大臣 へ上申アリタリ

明治二十六年十一月二日更二沖縄県知事ヨリ当時二至り本件島嶼へ向ケ漁業等ヲ試ムル者アルニ付之力取 締ヲ要スルヲ以テ同県ノ所轄ト為シ標杭建設シタキ旨内務外務両大臣へ上申アリタリ依テニ十七年十二月二十 七日内務大臣ヨリ本件閣議提出方二就キ外務大臣へ協議アリタルモ異議ナカリシヲ以テ閣議ヘ提出ノ上明治 二十八年一月二十一日閣議ノ決定ヲ経テ内務外務両大臣ヨリ曩ニ上申中ノ標杭建設ノ件聞届ク旨沖縄県知事 へ指令アリタリ




(一)

魚釣島外二島ノ所轄決定二関シ伺ノ件

甲第一号

管下八重山群島ノ内石垣島二接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀二付十八年十一月五日第三百八十四号伺二 対シ同年十二月五日付ヲ以テ御指令ノ次第モ有之候処右ハ無人島ナルヨリ是迄別二所轄ヲモ不相定其儘二致 置候廼昨今二至リ水産取締ノ必要ヨリ所轄ヲ被相定度旨八重山島役所ヨリ伺出候次第モ有之労此際管下八重 山島役所々轄二相定度此段相伺候也

明治廿三年一月十三日

知  事

内務大臣宛



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古賀辰四郎の尖閣諸島開拓





古賀辰四郎

$日本人の進路-古賀辰四郎01


62才、安政3..1.18-1856大正7.8.15-1918 

「危機迫る尖閣諸島の現状」116ページより







(ア) 一八九五年六 月十日付で野村靖内務大臣にだした古賀氏の「官有地拝借御願」



高橋庄五郎著 「尖閣列島ノート」・「古賀辰四郎という人」より


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私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラス水産業挙ラサルハ予テ 憂ヒ居候次第ナレハ自ラ帆楫ノ労ヲ取リ明治十二年以降十五年ニ至ルマテ或ハ琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ海産物ノ 探検ヲ致候以来今日マテ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致至候



更ニ業務拡張ノ目的ヲ以テ沖縄本島ノ正東ニ在ル無人島ニシテ魚介ノ群常ニ絶ヘサル大東島ニ組合員ヲ送リ一 方ニ以テハ農事ヲ勤メテ日常食糧ノ窮 乏ヲ防キ一方ニ以テ大ニ其地海産物ノ捕漁ヲ為サントシ己ニ明治廿四年 十一月廿日時ノ沖縄県知事丸岡莞爾氏ニ同島開墾ノ許可ヲ得タル次第ニ御座候



是ヨリ以前明治十八年沖縄諸島ニ巡航シ船八重山島ノ北方九拾海里ノ久場島ニ寄セ上陸致候処図ラスモ俗ニバ カ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候止マリテ該鳥ノ此島ニ棲息スル有様ヲ探求仕候処秋来タリ春ニ去リ巣ヲ営 ムヲ以テ見レハ全ク此期間ハ其繁殖期ニシテ特ニ該島ヲ撰テ来ルモノナル事ハ毫モ疑無御座候




予テバカ鳥ノ羽毛ハ欧米人ノ大イニ珍重スル処ト承リ居候間試ニ数羽ヲ射殺シ品見本トシテ其羽毛ヲ欧州諸国ニ 輸送仕候処頗ル好評ヲ得其注文マテ有之候是ニ依テ考ヘ候ニ右羽毛ハ実ニ外輸出トシテ大ニ価値アルモノト信 セラレ申候尤モ輸出品トシテ海外ノ注文ニ応スルニ足リル数量ナルヤ否ヤヲモ探究仕候処捕獲ノ方法ニ因リテハ 相当ノ斤量ニ於テ多年間輸出致候ニ差支無キ見込有之候



以上ノ次第柄ニ付直ニ其捕獲ニ従事致度考ニテ候処甲乙ノ人々ニ聞知セラレ競フテ乱殺候様ノ事ニ立チ至ベク自 然多人数間ニ分チテ輸出ノ業ヲ営ミ候ハ相互ノ利益ニアラス所謂虻蜂共ニ獲ラレザル結果ニ成行キ可申恐有之 候間バカ鳥羽毛輸出営業ノ目的ヲ以テ久場島全島ヲ拝借候様出願ニ可及ノ処右久馬島ハ未タ我邦ノ所属タル事 判明無之由ニ承知仕候故今日マテ折角ノ希望ヲ抑制致居候是レ見本送達ノ際欧州ノ注文アリタルニ係ラス之ニ 応スル能ハサリシ以所ニ御座候然ルニ這度該島ハ劃然日本ノ所属ト確定致候趣多年ノ願望ニ投ジ申候

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(改行は私がしたものです-管理人)






(イ) 古賀辰四郎の開拓事業





$日本人の進路-古賀村

久場島の古賀村(宮嶋幹之助作成・明治33年)

古賀氏は魚釣島・





魚釣島にはかつて古賀氏が建設した鰹節工場跡がありますが、他に久場島・南小島の3カ所にも工場跡が
残っています。多い時は99戸、248人がいたとありますが住む古賀村と呼ばれた村落がありましたが、これ
は当時の資料や現在の跡地から考えると3島全体の数字 と思われます。





古賀氏は福岡県八女郡山内村(今は八女市山内)の人間で、一八五六(安政三)年の生まれ。一八七九(明
治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いています。






古賀氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、夜光貝などの貝殻をボタンの材料として、神戸に売って(年
間一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店をだした。その翌々年の一八八四(明治十七)年に尖
閣列島を探検して、その有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手。一八九
五年、古賀氏は本籍を福岡から沖縄に移し、「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民古賀辰四郎」とな
り、本格的に事業にとりくんだのである。








古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月
号でこう語っている。



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当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出 た若者が、 途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話 を聞いたんですね。そ こで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになった んです。明治十七年のことですがね。

 この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八 八五)年、 父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時 の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。

 ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣 しました。 調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以 後西村は政府に日本領とするようしきりに上申しまた。

 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年で す。父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったというこ とが、宣言に踏み切らせた理由と思います。


古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て三○年間 無償借地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八 名を送り込むことに成功し、さらに翌明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九 名を送り込んだ。この年の久場島在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。これらの 労働者がいつごろまでいたかは明らかでない。説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏 雄論文『日本及日本人』一九七○年新年号)。

 古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた(注 明治三十「一八九七」 年五十人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八九九」年二十九人の労働者を尖閣 列島に派遣、さらに明治三十三「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。

 大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けら れ、事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、剥製作りの職人七~八十人(筆者注上地龍典氏 によれば八八人)が、魚釣島と南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季 刊沖縄』第五十六号)。



 明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人の労働者を派遣し、翌三 十一年には更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始 めたのである(牧野清論文「尖閣列島小史」)。

 石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣して、列島の探検調査に 当たらせ、翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開拓民を送りこんだ。こうして最初の四年 間に島に渡った移住者は、一三六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。明治三十六(一九○ 三)年には内地から剥製職人一○数人が移住し、明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に二四八人 に達し、九九戸を数えた。南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍 典著『尖閣列島と竹島』)。以上の移住の状況を書いている人たちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島と だけいっている人がいるが、 それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったのか、どうもはっきりしてい ない。

 尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島である。また牧野清氏に よれば魚釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島と久場島をアベコベにしていとす るとどうなるのか。この島名をアベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知って いる。一九四〇(昭和十五)年になっても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といってい る。古賀辰四郎氏が一八九五(明治二十八)年に久場島といったのはじつは魚釣島ではなかったのか。古 賀善次氏がカツオブシ製造と海鳥の剥製作りをしたのは魚釣島と南小島であった。


 古賀辰四郎氏が事業を開始されたのは,久場島からではなかったのかといっているが、その理由は、久 場島は魚釣島ほど地形が複雑でなく、地質も単純であり、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘクタ ールと思われる砂糖キビ畑も船から望遠され、同行の者がパパイヤの木も見受けられたと言うし、古賀辰 四郎氏は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。


 また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地にして事業を始めたよう だといっている。そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽が三つ残っていたという。だが、よく 考えてみなければならないことは、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは海鳥を捕ま えて、これを外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑がわし む」といわせたのは南小島と北小島の海鳥どもであった。南、北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西 側にひろがる平坦地は近代工業の敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのこと である。


どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただけでもまちまちである。

 国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規模な資本を投じて、尖閣列 島の開拓に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に家屋、貯水施設、船着場、桟橋など を構築するとともに、排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注  この功績によって政府は一九〇九「明治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している)(前掲尖閣列 島研究会論文)。

 開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業をおこなった(前掲 尖閣列島研究会論文)。

 大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けら れ、とくに魚釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐採が営まれてきた(前掲尖閣 列島研究会論文)。古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を 設けて、カツオブシ製造をおこなったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞の採集などを営 んでいた(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七〇年新年号)。


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次は上地龍典著「尖閣列島と竹島」(中国・韓国との領土問題)時事問題解説NO.95 w@r>





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その後、尖閣列島の改革は、古賀氏の情熱と、
大規模な資本の投下によって、飛躍てきな発展をとげ る。
まず彼 は、開拓民の移住を計画、列島借用の許可が下がった翌30年から、
毎年、30人、40人と開 拓民をおくりこんだ。
そして最初の4年間に、島に渡った移住者は、136名に達し、
そのなかには女性9 名も含まれていた。
古賀氏は、魚釣島と久場島に、家屋や貯水設備、船着場をつくった。
明治36年(19 03)には、内地から剥製職人10数名が移住し、
海鳥の剥製工場がつくられた。さらに、カツオ節向上、
べっ甲、珊瑚の加工場も建設された。こうした海産物関連の
事業に力を入れる一方、彼は、おびただしい
鳥糞が燐鉱石状なったグアノ(肥料用)の採掘にも着手、
止まるところのない多角経営がはかられたので ある。
彼が偉大な構想をめぐらせていたことは、
住民の島内での時給自足をめざしたことでも分る。
彼は ジャングルを伐り拓き、草地を開墾して、穀物、
さつま芋、野菜類を栽培、そのうえ、牧畜、養蚕にまで手 をのばした。



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$日本人の進路-006


カツオ節工場での作業風景


アサヒグラフ・昭和53年5月5日号15頁下





(以下省略)




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