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悪事千里を走る
馬の耳に念仏
朝令暮改
朝鮮人民主党に喝
侵略国家中国・尖閣諸島
(以下画像はすべてクリックで拡大)
(追記)
日本青年社が灯台を設置していたそうです。
是非写真ででも紹介していただきたいですね。
+++++++++++++++++++++++
尖閣諸島の写真と地図集 より
探検と開拓時代、そして跡地
http://senkakusyashintizu.web.fc2.com/page009.html
かつて尖閣諸島には私達日本人の祖先が住んでいました。
他国の者が尖閣諸 島で生活したことはありません。
多い時には200名ほどが魚釣島の鰹節工場で働 き、久場島でアホウドリなどの海鳥を捕獲していました。
今も魚釣島にはその工場 の跡地があり、多くの写真に記録されています。
久場島にはその痕跡が残ると聞き ます。
いつかその写真を見つけたいと思っています。
探険時代
魚釣島地名入り地図
この地図は黒岩恒氏が作成したものてす。
黒岩恒氏は沖縄県師範学校教諭。
明洽33(1900)年5月に、沖縄県那覇区在住古賀辰四郎氏は、その借区たる無入島へ向け、 汽船大阪商船会社汽船永康丸を派遣した。
その時調査に従事したのが、沖縄師範学校教諭:黒岩恒と理学博士宮島岩之助
奈良原岳の奈良原は当時の第8代沖縄県知事奈良原繁の名前をとったもの。
道案渓(どうあんたに)は探険に同行した八重山島司・野村道安氏の名前からとったもの。
永康礁は魚釣島と久場島の探険に使った永康
開拓時代
以下はアサヒグラフ・昭和53年5月5日号
「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」
の記事(12頁~17頁)と
東京地學協會編「地学雑誌」第拾貳集・
明治33年自第百参拾参巻・至第百四拾四巻に掲載された
宮島幹之助の撮影した写真 、及びサピオ、八女市広報に
掲載された写真である。
尖閣列島の領有権を巡って懸案の日中条約交渉に暗い雲が影をのぞかせたのが、今回の中国漁船団領海侵犯事 件だが、ここに明治明治時代以後、多くの日本人が尖閣列島の魚釣島に住み着いていた証拠の写真が、那覇市で 発見された。
(1) 鰹節工場と工場で働く者達の住居-1
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」
写真に記された原文:魚釣島全景 10戸あまりの家がひとかたまりになっている。(12-13頁)
※1 管理者:尖閣諸島では多い時には200名ほどが働いていたと言われております。
(2) 鰹節工場と工場で働く者達の住居-2
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」
管理人:海に浮かぶ船が上の写真と同じ形であるから同じ時に撮られたものだろうか。
(3) カツオブシ工場前での記念写真
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(14頁右下)
原文:「当時の住民達が総出でカツオブシ工場前で記念写真をとった」
※3:-管理人より-
写真には50名ほどlの人間が写っている。これは写真が鮮明でなく判別しずらいのでおよそ の数である。
高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」に中にこういう記事がある。「ここに一枚の写真がある。一九 七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人 島ではなかったという「証拠の写真」を 八枚掲載した。
それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そ のなかの一枚は筆 者が一九七一年に入手したものと全くおなじものである。
筆者のもっている写真は,一九〇一 年二月に黄尾島で生まれたという伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の 写真である。
そし て、おなじ一枚の写真を古賀花子さんは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さ んは黄尾島(黄尾嶼=久場島)のもの だという。
この写真には事務所の責任者として、日の丸 のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目 のところに白い着物を着て帽子をか ぶり、ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。」
雑誌の写真では分からなかったが、スキャンして拡大したら、左端に5名ほどの子供達の姿 が見える。その横には女性が9名ほど写っている。 (女性たちはまかない婦たちであろう。
何か の本で子供たちが数名丁稚として雇われていたという文章を読んだことがあったが、どうやら事 実であったようだ。
(ようやくその何かを見付けた。望月雅彦 「古賀辰四郎と大阪古賀商店」『南島史学』第35号 の中の「南島史学会 1990年」-古賀辰四郎年譜-」にあった。平成21年10月05日)
一九〇八年
五月、恒藤博士、列島を探険す。
同時に宮城、福島二県より七歳十一歳の貧児十一
名を丁年迄の契約にて雇入れ渡島せしむ。
とある。一九〇八年とは明治41年である。貧児とは何だったのだろう。家を失った子供達のこ とを言うのだろうか。東北の困窮は昔から長く続いてのだ。
(4) 船付き場での記念写真
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(14-15頁)
(5) カツオブシ作りの作業風景
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(15頁)
原文:「カツオブシ工場でのカツオブシ作り」
(6) 明治三十年代に島で暮らす人々
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(16頁上)
――――
※4 管理者:中央下の猟銃を持つ人物が古賀氏ではないかと思われるが、あくまで推察である。
古賀辰四郎氏は沖縄に初めてピストルを持ち込んだと言われる。
未亡人の花子さんは辰四郎氏の ことを、「大変なハイカラさん」と語っておられる。
この写真の人物は腰に帯ではなく銃の弾帯をまい ており、下の 鰹節工場の入り口に立つ古賀辰四郎氏の写真の帯も帯にしては小さく、白色系統の 和服に弾帯をまい ているようにも見える。また帽子は西洋のものの様である。
上の(4)「カツオブシ 工場前での記念写真」の 添付した高橋氏の指摘では、「白い着物を着て帽子をかぶり、ステッキを ついているのが古賀辰四郎氏で ある」と書いておられる。あの写真では小さくてよく分からないが、 これらの情報から写真の人物は古賀氏 の可能性は高いと言っていいだろう
―――
(7) カツオブシ工場の入り口と古賀辰四郎
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(17頁)
管理人:
原文では「カツオブシ工場の入り口 立っているのは原辰四郎さん」とあるが、 「原」ではなく「古賀」の間違い。
第11管区海上保安庁の右写真には門が写っているが、古賀氏が立っているのはその左の門のようである。
(9) 「南小島にいたカツオドリ
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」 (19ページ 下)
原文:「南小島にいた海鳥」
※7 海鳥とあるのはカツオドリのこと。今は絶滅や希少種に指定されている。
ひょっとしたらこれが日本で写真に撮られたカツオドリの第一号の写真家も知れ
ない。アホウドリ、クロアシアホウドリ、カツオドリ、アオツラカツオドリ、などが、
当時は数十万羽いたと言われている。
(10) 魚釣島に咲くユリ
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(16頁下)
写真の原文:「島の斜面に咲き乱れるユリの花」
管理者:魚釣島には今も百合が咲いている
(11) カツオ節工場の前で記念写真を撮る古賀商店の面々-2
出典:サピオ
管理人:
上のアサヒグラフのものと同じ写真である。両方とも古賀善次未亡人花子さんが
持っていた同じ写真だろうか。それとも違うものだろうか。1917年と言えば
大正7年だろうが、その頃は既に尖閣諸島での古賀商店の活動は衰退期に
入っていたと思われる。「石垣市発行の八重山写真帖より」とあるが、これは
高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」に中に書かれている、「ここに一枚の写真がある。
一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人 島ではなかったという
「証拠の写真」を八枚掲載した。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、
そ のなかの一枚は筆者が一九七一年に入手したものと全くおなじものである。
筆者のもっている写真は,一九〇一 年二月に黄尾島で生まれたという伊沢弥喜太氏の
長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そし て、おなじ一枚の写真を
古賀花子さんは・・・」とある。私には明治四十年頃、つまり1907年頃というのが正しい
ように思える。
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代 (20)
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代 (21)
魚釣島の港 珊瑚礁を切り開いたもの
写真元:「秘境を探る」 -尖閣列島-より
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(23)
古賀氏が作った鰹節工場跡
写真元:第11管区管区海上保安庁
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代 (26)
出典:サピオ
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