おばはん刑事(デカ)は10歳年下の旦那さん(おやじーで)と娘(ぴしゃん)3人暮らしの家族です。
令和2年10月に愛犬ころんぴぃ♪は星になりました。
得意技は妄想で色んな自分に変身すること。
映画の主人公になりきりながらも気が付けばもう63歳。
人生、もう少し色んな事をチャレンジしながら頑張ってみようかと思っています。
こんばんは!
年金生活になり
少しでも節約しながらも
社会と関わりを持ちたい
おばはん刑事(デカ)です
刑事(デカ)精神を持ち続ける貴方!
松潤の「99.9%」もビックリするような
冤罪事件が実際にありました
今日のお勧めは
「真昼の暗黒」
2時間ちょっとあるから最後に見てね
八海に住む夫婦が殺害され
1月26日、22歳の男性が
強盗殺人で捕まった
犯人はその証拠として
血の付いた衣服や
盗んだ金を遊郭遊びで散財
逃れられない証拠を突き付けられ
早い段階で単独で行ったと供述
しかし
その残虐で手の込んだ手口のわりに
指紋を残すという凡ミスから
単独犯ではなく
複数犯だと警察が推定したことから
複雑な事件へと発展していく
警察による拷問と
自分の罪を軽くするために
1月28日 単独犯であるはずの犯人は
共犯者5名の名前を挙げた
しかもあろうことか
首謀者はその供述した中の一人で
自分は従罪であると
自分を正当化し始める
(認知的不協和音)
認知的不協和音とは
人はこれを解消するために、
矛盾する認知の定義を変更したり、
過小評価したり、
自身の態度や行動を変更する
ほどなくして
共犯者とされる5名のうち
1名はアリバイが証明され
その1名は釈放された
他の4名は
親族によるアリバイだった為棄却
2月1日 犯人は自分を含めた
5名共謀説に供述を変更する
どんだけ保身
しかし冤罪の4名は
密室での長時間の尋問の上
睡眠もろくに与えられず
警棒で暴行・線香の火であぶる等の
拷問で罪を認めてしまったのです
4人は
精神的に追い詰められ
嘘でもこの場さえ乗り切れば
(罪を認めたら)楽になる
そもそも自分たちは無実なんだから
裁判の時に否定すれば良い
そう考えてしまい罪を認める
かくして冤罪はおきる
罪を認めてしまった4人は裁判で、
関与もなく無実を主張するが
そもそも
この犯人、単独犯行なのに
自分の罪を軽くしたい為
何度も単独説と共謀説を
幾度もひっくり繰り返すだけでなく
他に共犯者がいると供述したり
他人の獄中日記をパクったりと
かなりの悪人
刑務所職員も
混乱を回避する目的から
調書の廃棄を行っていたようで
この事件全体の心証も悪かった
その為 無実なのに
主犯格に仕立て上げられた男が
諸悪の根源という感情が
皆に刷り込まれる
第一回審議
翌年1952年6月2日(一審)山口地方裁判所
主犯格(無実)は死刑判決
その他の共謀者(犯人と無実3人)は無期懲役
やっていないという言葉は
検察には届かない
当然、冤罪の4人は控訴するが
第2回審議にあたる
1953年9月18日(二審)広島高等裁判所では
主犯格(無実)は死刑
犯人は無期懲役
残り3人は懲役15年と13年の判決
犯人は上告せず無期懲役が確定
無実の4人は再び上告
獄中から敏腕弁護士助けを求める
この敏腕弁護士により
4人にアリバイがあることや
単独犯行が行えると推測し
無罪を確信
そうは言っても
当時、上告は棄却されることが多く
その場合罪が確定してしまうことから
この弁護士
ある大胆な行動を起こす
1955年 この話を書籍化
『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』
殺人現場の写真まで
載せていた
売ってるのが凄すぎるわ
これがベストセラーになり
1956年
「真昼の暗黒」という題名で映画化
しかし
有罪を下した裁判長も黙っていません
書籍を真っ向から否定する
『八海事件 裁判官の弁明』
『証拠 続八海事件』を出版
内容の訂正・再訂正により
批判を受けます
世の中の関心を集めながらも
冤罪性を訴えて
最高裁への扉を叩きます
第3回審議
1957年10月15日
最高裁判所(第一次上告審)は
審理を事実誤認として
高等裁判所へ差し戻す
このころ
検察側が自分たちに不利になる
アリバイ証人を偽証容疑で逮捕
その後アリバイ否定証言をさせる
第4回審議
1959年9月23日
(第一次差戻審)広島高等裁判所は
初めて犯人の単独犯行であると認定
4人は無罪の判決を受ける
無実の罪から
8年8か月の
身柄拘束からの釈放となる
しかし ここで終わらないのが
裁判は長いと言われるゆえん
検察側は上告
第5回審議
1962年5月19日
(第二次上告審)最高裁判所は
審理を高等裁判所へ破棄差戻し
第6回審議
1965年8月30日
(第二次差戻審)広島高等裁判所は
第一審と同様 首謀者は死刑(無実)
共謀者は15年と12年の刑(無実)
再び4人は上告
そして第7回審議審
1968年10月25日
(第三次上告審)最高裁判所
単独犯罪により4人は無罪で確定
無事冤罪事件からの脱却である
長かった~
起訴から判決確定まで17年
7回の判決(2回は最高裁の差し戻し)により
死刑、死刑、無罪、死刑、無罪を
繰り返し やっと無罪になったが
当時24歳の男性は42歳
人生の一番楽しい時期を
刑務所や無実の罪によって
世間からさらされた
主犯格とされ冤罪に巻き込まれ
死刑求刑された阿藤周平さんが書いた
1968年「八海事件獄中日記」
その後も働きながら
死刑廃止運動に弄走したそうだ
ただこの話には
続きがあるのです
無期懲役が確定
広島刑務所に服役後
仮釈放の制度が認められる
(無期刑で10年以上経過した受刑者が対象)
(残りの刑期を保護観察を受けながら過ごす)
1971年 20年8か月振りの仮出所
その後
呉市で鉄工所の工員として働くが
1975年
27歳の男性を絞め殺そうとして
殺人未遂罪で逮捕
起訴されたのだ
そして裁判中の
1977年7月11日
犯人の吉岡晃は
49歳で病死
死刑制度の賛否
冤罪に巻き込まれ
犯罪者として処罰されることは
絶対にないとは言い切れない
事実 昭和24年~30年で
起訴後に真犯人が現れた事件は
46件もあったそうだ
世の中には
命を絶たれた後に
冤罪だと分かるケースもある
本人だけではなく
その家族には
周りの目が冷たく光る
汚名を返上することもできない不条理
証言さえも虚偽だと決めつけられ
裁判の度に呼び出される親族
偽証罪に問われる屈辱
沢山のプロフェッショナルがいて
その人たちの勘や経験に
助けられているのも事実だけど
慣れないことも
必要なのかな
こんな事件の度にそう思う
おばはん刑事(デカ)おすすめ