慶長初年(1596年)紀州(現在の和歌山県)の浅野家の武士に庄田助右衛門という男がいました。ある時、奥の間の欄干に寄り掛かって庭の草木を眺めている時に狐が1匹現れ、みるみるうちに人に化けて袴を付けて跪き、頭を下げました。

 

助右衛門が「なぜ人間に化けて出て、頭を下げるのか?」と聞くと狐は「自分はあなたの慈悲深さを知った上でお願いがあってここに来ました。あなたの家族に狐を罠に掛けて殺すことを好む悪人がいます。自分の家族や子孫の大半はその人ために殺されてしまい、嘆くに耐えません。しかし、あなたが諫めればきっと狐を殺すのを止めてくれるはずです。どうかこれ以上、私たちを罠に掛けて殺さないように言ってもらえないでしょうか。自分の願いを聞いて下さるならどんな事でもあなたの願いを叶えます。」と涙を流して頼みます。

 

「それは簡単なことだから、止めるように本人に言おう。またここに来てくれ」と約束すると狐は大いに喜んで三拝してその場を去りました。

 

その後、助右衛門は狐を罠に掛けて殺す家人を呼び出して止めるに諭し、罠を取り上げました。狐は多いに喜び、再び助右衛門の元に現れて「自分の願いを叶えてくれたことを大変有り難く思っています。この御恩は忘れません。もしあなたに願いがあれば叶えて報いるつもりです。」と言いました。

 

助右衛門が「では家の蔵が満杯になるくらいの金銀が欲しい。このほかに望みは無い」と言うと狐は手を打って笑ってこう言いました。

「それは馬鹿げた願いです。自分は稲荷明神の使いとして貴狐神として神の位を持っています。しかし畜生の悲しさか美味しそうな餌を見せられると、つい後先を省みずに命を落としそうになることもあります。しかし人間は万物の長にして神と同じ性質を持っており、知恵に明るくちゃんと利害を弁えているではありませんか。

なぜ金銀を貪るようなことを言うのですが。人生において徳なくして豊かになる事は良い事ではありません。金持ちに礼儀正しい人は稀であり、財産が多ければ奢りが生まれ、人を侮り、高慢になって、欲深さから満足するということを知らずに、その貪欲さから最後には身を滅ぼします。これは全て金銀や財産の害です。

身の丈に合わないお金を持つ人は子や孫の代になって乞食や浪人になる例が世の中にたくさんあります。

しかし武家として代々の所領(その武家が支配する領地)は相応の財産といえます。これ以外の金銀に関する願いは無益というものです。ですからあなたに幾分かの領地を与えることで恩に報いましょう」と言ってたちまち狐は消えてしまいました。その後に助右衛門は出世して二千五百石の所領を得たということです。

 

 

奇談雑史 宮負定雄 

 

動物が人間に助けられて恩に報いるという話は奇談雑史にたくさんあり、その動物の種類は多岐に渡ります。昔話でも鶴の恩返しや浦島太郎を始めとして枚挙に暇がありません。

 

また動物が神の使いとして登場するお話もそれこそ山のようにあり、稲荷明神の狐を筆頭に鹿島神宮の鹿、住吉大社の兎、熊野大社の烏、八幡宮の鳩、松尾大社の亀、etc…、などほかにも宮地水位の異境備忘録にもこの手の登場します。外国にだってあります。

 

 

神使以外でも鳶、鷹、狐などの類は天狗になることもあり、あるいは霊的に強力な存在として幽界にいるものもあり、この辺りは色々ですが、いずれにしてもこの狐は稲荷明神の神使として位を持っているだけあってかなり優れています。

 

 

以前のお金の使い道でも述べましたが、この狐の方がお金というものについて人間よりも遥かによく理解しており、なぜこうも高い知性や倫理観を持っているのに、人間が作った見え見えの罠に掛かるのかが不思議です。

 

 

 

檻の下に食べ物を置いておくような人間だったら誰も引っ掛からないような馬鹿げた罠でも動物に対しては有効であり、とてもこれほどの知性を持った存在とは思えません。

 

 

ほかにも奇談雑史には古狐が人間と仲良くなって、色々と幻術を見せて楽しませてくれる話がありますが、人間が幻術を見せてくれる返礼にネズミの油揚げを仲間たちと分け合って食べてくれと大量にプレゼントすると(狐は鼠と油揚げが好きです)、その狐は畜生の悲しさか独り占めしようと大量のネズミの油揚げを全部自分一人で食べてしまい食当りで死んでしまうという話があります。

 

 

その人は自分が畜生の浅はかさを見抜いてこんなにたくさんの鼠の油揚げをプレゼントしなければこの狐も死ぬことはなかったのにと嘆くのですが、どうも畜生は命の危険があっても目の前にエサがあればついつい飛びついてしまい、後先を考えることが出来ないようです。これはいくらペットが賢いと言っても所詮は動物であり、知恵比べで動物が人間に勝てるわけがありません。

 

 

鳥でも四つ足でも魚でもそうですが、なぜ霊としては賢いのに肉体に入るとバカになってしまうのか?を考えると、これは動物の脳や肉体が影響しているのではないかと推測します。

人間も霊としては極めて優れており、誰でも霊としては超能力者と言って差し支えないですが、肉体に入るとその肉体条件による制約を受けます。

 

 

幽体では千里眼や空中飛行や水上歩行が出来ても、肉体に入った途端何も出来なくなるのは誰でも同じですが、これと同じことが動物にも言えるのではないかと思えます。

人間が動物として生まれ変わったりする話が奇談雑史にはたくさん登場しますし、ひふみ神示にも動物が人間の肉体の中に這入った時のことが書かれています。

 

 

動物霊が人間の言葉を使ふことは、附に落ちないと申すものが沢山あるなれど、よく考へて見よ、例へば他人の家に入って、其処にある道具類をそのまま使用するのと同じ道理ぢゃ、判りたか、動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、その人間の持つ言葉を或る程度使いこなせるのであるぞ、故に日本人に感応すれば日本語、米人なれば英語を語るのであるぞ。

 

ひふみ神示 竜音の巻 第十二帖

 

私の知る限りでは動物も霊としては人間と変わらない知性を持っています。会話が可能であり、そうでなくても意思疎通が出来ます。さらに言うなら「動物も霊としては人間と変わらない知性を持っている」と書きましたが、人間はさらに霊としては私たちが普通に考える人間の能力を遥かに陵駕しています。

 

 

人間はどちらかというと神に近い存在であり、動物は人間よりもかなり劣っています。しかし残念なことに動物の容れ物になっている人間が如何に多いことかと見る耐えない例が世の中にたくさんあり、出口王仁三郎の書物やひふみ神示でもそのことを嘆かわしく述べている箇所があります。

 

 

完全な入れ物というよりは感応して操られているといった方が正しいのかもしれませんが、本来神に近しい存在たる人間が格下の動物にいいように使われているのはなんとも情けない話ではあります。

 

 

動物が人間を使って恋愛したり、暴飲暴食したりするというよくある例を筆頭に、四つ足や鳥類は人間が思っているよりもずっと人間と霊的に深く関わっています。本来は動物ではなく高級霊と繋がるべきなのですが、強欲や怨恨、利己と保身しか頭になく社会貢献など夢にも思わない人生を生きている人は残念ながら、自分と同じ進歩段階や性質を持つ霊と引き寄せ合うので、必然的に動物、あるいは天狗を始めとする霊、質の悪いのになると邪神だったり、地上を去ったばかりで地上に未練タラタラの人霊と繋がります。

 

 

繋がると言っても一人一霊のセットではなく、一人の人間にたくさんの霊が感応しており、この当りのことはひふみ神示の竜音の巻に書いてありますので、ご存じなければ読んでみて下さい。

ほかにもいちいち紹介仕切れませんが、こちらの本の中にはたくさんそういうことが書いてあります。

 

1つだけ例を挙げるなら酒やタバコやギャンブルや麻薬など何でも構いませんが、こういったものに深入りしている人は大抵の場合、そういう霊が感応しています。霊が人間に取り憑いて間接的に楽しんでいるわけです。

しかしそんな人間でも時には良いことをしたりすることがないわけではありませんし、何か別の趣味や好物を持っていることもあります。これは色々な霊が感応しているという分かりやすい一例ですが、基本的にこのブログでは霊的な書物を引用して紹介するということを趣旨しているので、個人的な意見や知識を述べることは差し控え、可能な限り出典を明らかにした上で記事を書きたいと思っていますのでこのくらいにしておきます。

 

 

地上に霊懸かりでない人間は一人もいませんので、私自身にも何らかの霊が感応しています。そして私なんかに感応するわけですから、やはり程度も知れています。

また私は間違ったことを言う可能性があり、自分が絶対に正しいとも思っていません。

 

 

シルバーバーチですら自分も間違いを犯す可能性があると述べていますが、遥かに格下の私となれば述べるまでもないでしょう。

 

 

人間としては出来うる限りの善行を行い、人に親切にし、可能であれば神を祀ることです。地道なことかもしれませんが、正攻法しかないわけですから、ひたすらにそれを実践していくしかありません。