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まとめ

・お金の浪費は控えめに言っても判断力の欠如。

・生活費以上の財産はあの世で収支報告が必要。

・無用に浪費したお金で出来たかもしれない人助けをしなかった償いをする必要がある。

・遺産や財産譲渡は霊が生前の償いのために存命の人へ行うことが多い。

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○お金の使い道

 

もし神がこの者に力と富を与えられたら彼はこれを全体の利益のために彼に委ねられた預かりものとみなす。
彼はこれを自慢の種としない。なぜなら彼はこれを彼に与えた神は彼からそれを取り上げることも出来ることを知っているから。


無思慮な浪費は控えめに言っても判断力の欠如である。
財産はこれをちゃんと管理する人には与えられてもこれを浪費するものにはもう与えられることがない。
財産は収支報告を要する預金なのである。
人はもしかしたらできたのに実行しなかった善行すべてを報告せねばならぬ。人は無用に浪費した金で、もしかしたら泣かずに済んだ人たちのすべての流した涙に償いをせねばならぬ。

 

 

他者のために自分の利益や楽しみを犠牲にすることは神の前では最大の価値がある。
それが愛の法に適っているからである。



(霊の書 アラン カーデック )

 

 

どうすればより豊かになれるのか?はまた別の記事で書いてみたいと思いますが、現状の日本であればその日に食べるものもない、着るものもない、体を休める部屋もないという人はゼロでは無いものの基本的には日本の国家としての水準を考えれば例外的であると言えるでしょう。むしろ人並みの生活をしたいと思い、それ相応の努力や忍耐をする人にそれが与えられないということは日本ではレアケースになります。

 

 

そこで自由になるお金は人それぞれですが、基本的に自分が自由にできるお金を誰もがある程度(例え僅かでも)持っているはずです。今回はお金の使い道についてスピリチュアリズムの視点から検討してみたいと思います。

 

 

基本的にスピリチュアリズムで述べていることは、言われてみれば当たり前だと思えるような道徳的なことがほとんどですが、お金の使い道に関しても一言で言えば利己を捨て他人のためにお金を使うという言葉に集約できると思います。

 

 

霊の書でアラン カーデックは色々と霊に質問をしていますが、「無思慮な浪費は控えめに言っても判断力の欠如」「財産は収支報告を要する預金」「人は無用に浪費した金で、もしかしたら泣かずに済んだ人たちのすべての流した涙に償いをせねばならぬ」などの言葉は誰もが多いに参考になる言葉です。

 

 

結局のところ地上で与えられた財産というのはみな神から一時的に預けられたものであり、あの世には持っていくことが出来ません。金を幾ら貯めても地獄の沙汰は金ではなんともならないわけで、特にこれはお金持ちであればあるほど試練であるようです。

 

 

浪費癖のある人、計画的にお金を使えない人、お金を利己と保身のためだけに使う人などもいずれは神の前でそのすべてをさらけ出し、責任を取らなければならないと述べられています。

 

 

普通に考えれば与えられたお金を世のため、人のため、社会福祉のために使うというのは立派な事であり、それを神様が喜ぶと言うのはごく当然のことでしょう。

 

 

自分さえ良ければ他人なんてどうなっても構わない、という利己と保身の塊のような人間たちが集まる社会と自分の利益・財産・楽しみなどを犠牲にしてでも他人のために尽くす人間たちが集まる社会ではどちらが天国的でどちらが地獄的であるかは考えるまでもありません。


 


富の善用はすなわち利己心を克服するということであり、これは多くの人間にとって人生のテーマでもあります。我が身可愛さに他人の苦しみを見て見ぬふりをしたり、そこまではいかなくても出来たはずの善行を保身のためにしないことは霊的に見れば未熟であり、利己性が抜け切っていない証拠です。


死後は同レベルの利己心を持つ人たちの境遇に進むでしょうし、死後あるいは地上生活でもそれ相応の報いがあるはずです。

 

 

 

今の時代はお金がなければ何もできないというくらいお金は重要なものになっていますのでこれを突然捨てるような真似は常識で考えればとてもできません。


悪魔達の通信・宗教では金を捨てろとか、その人の身分に沿わない寄付を求めるようなものがありますが、基本的にはその時代、その社会に沿ったやり方でやるべきです。お金も善用すれば決して悪いものではなく、悪いのはむしろそれを使う人の心でしょう。

 


仮に全人類が貨幣システムを捨てることに同意してお金のない社会が実現したとしても、人間の中にある利己心や悪意はそのままであれば、人間たちは相も変わらず不幸であるはずです。それはお金があることによって生まれる不幸とは別の形かもしれませんが、問題の本質は貨幣システムではなく人間の心(利己性)にあります。


 

そういう意味ではむしろ人間の利己心を克服するための道具としてお金は有用な試練の道具であるとも言えます。

 

 

何処まで利己と保身を捨てて他人のために、社会のために自分に与えられた財産を使えるのか?は霊性の進歩、あるいはさらに豊かになるための方法としてもとても重要なことでしょう。

 

 

 

○遺産や財産の譲渡

 

問い。

財産がその源は宜しからぬ方法で入手した場合これを相続したものはその責任を負いますか?

答え。
いいえ。他者の為した誤り、本人の関わり知らないことは本人には何の責任もありません。
しかしながら次のことを心得てください。
財産が特定の人に譲られるという事は、不正の償いをする機会をその人に与える、そういう目的のためだけに譲られることがよくあるのです。
このことに納得が行けばその本人には幸福があります。もしこの償いを不正を為した人間の名においてするならその償いは両人のためとなります。なぜならこのことを仕組んだ当の人物は後者である不正の原因となった人物のことがよくあるからです。

 

 

遺産相続については、スピリチュアリズムの本によって述べられていることが多少違ったりします。霊の書では親と子を全くの別の存在として扱っており、遺産相続においても相続した子供には責任が無いと述べていますが、別の書物では、悪いことをして手に入れた財産は、やはりめぐり(カルマ)付きの財産であり、綺麗なお金では無いと述べていることもあります。


類魂や家系で1つの単位とみられることもあり、親が悪事を行って積んだ財産は子に渡ってもやはり失われてしまうことが多いようです。霊の書でも「悪事を行った責任はない」と言ってるのであって、財産そのものがクリーンであるかどうか?持続性があるのかどうかは述べられていません。



例えば泥棒や強盗や詐欺などの不正をして得た財産がその人の家族や知人などに渡れば途端にクリーンなお金になるのかどうかは個人的にはかなり疑問です。ひふみ神示でも「汚れた金は御用にならん」という趣旨のことが述べられていますが、多分盗んだお金は何処までいっても盗んだお金のような気がします。

 

 

霊の書では遺産相続は「財産が特定の人に譲られるという事は、不正の償いをする機会をその人に与える目的のためだけに譲られることがよくある」と述べられており、親からもらった遺産は霊的にはめぐり(カルマ)の精算に使うべき、使うチャンスとして与えられていることがあるようです。

 

 

大抵は遺産を貰えば金額の多寡に問わず自分のためだけに使ってしまう人が多いように思えますが、これもやはり利己心や霊性の進歩の土台による気がします。

 

 

自分が汗水垂らして得た正当な報酬ではない棚ぼた式のお金を利己的に使うことに私個人としては抵抗を覚えますが、親の金は子である自分の金だから好きにして何が悪い、という人もおり、この辺りは人それぞれですが、いずれにしても財産を善用するというところがポイントになります。

 

 

 

利己的に自分のためだけに使うのは霊的には未熟であるということなのでしょう。せっかくのめぐり(カルマ)精算のチャンスを無駄にしていることにもなります。

 

 

地上をより良い世界にするということはすなわち人間の心から少しずつ利己性を減らしていくということでもあり、言い方を変えればみんなで助け合ってやっていくことを覚えるということでもあります。

 

 

利己的な人間にはそれ相応の報いがあり、利他的な人間も同様です。お金というのは利己性を捨てるための試金石として非常に便利なものであると感じます。

 

 

むしろ個人的には人助けのために自分が損をするような方向へ進んだ方が、長い目で見れば結果的に得になっているように思えることも多く、同じお金を手放すにしても「霊的に成長したいからという利己性」からお金を手放すのではなく、「自分は損をしても良いから他人のために出来ることをするという利他性」、つまり動機が重要なのではないかと思います。

 

 

同じ行為をしても動機が重要であるというのは多くのスピリチュアル系の書物が述べるところでもあります。