私は眠気を催すと「ダブルが抜けかかる」と述べたが、これを文字通りに解釈するとダブルは睡眠中に肉体から抜け出るものと受け取る方がいるかもしれない。
実はダブルそのものが肉体から離れることは絶対にない。抜けてるのはその中のエッセンスとでも呼ぶべきものである。これが睡眠中に抜け出た時は一定の形態はなく、淡い色をした雲状の固まりである。私が殻と呼んだダブルの外郭は肉体の中に収まったままである。
そのエッセンスは死後に使用するエーテル体の素材であって、殻の中でゆっくりと成長しながら性格と外形を整え、肉体が滅びた後その殻(ダブル)を脱ぎ捨てて自我の表現の媒体(幽界で使う体)となる。
(中略)
異なるのはダブルの方が肉体よりも振動が緻密なことである。死期が近づくと潜在意識の働きでダブルの中のエーテル体の成熟が促進される。そのエーテル体も肉体の容貌そっくりである。但しそれは元気盛りの時の要望でやって、七十歳、八十歳の老体では無い。もっともエーテルの子宮とでもいうべきダブルの中でこしらえられる新たなエーテル体はそのままではすぐに使用できないので類魂が影から援助するが、いずれにしても処理が完了するまでが冥府での滞在期間である。
類魂団の生命を支配している統括霊は当人との共同作業によって容貌や外観をこしらえ直す。但し当人の本性の基本的な部分は少しも変わらない。環境は新しくなっても当人の外観は地上時代と同じである。
マイヤース 個人的存在の彼方
イメージ図
イメージ図を作ってみました。実際は図のように卵の殻の中に黄身と白身が入っているわけではなく、どちらかというと電波のように感応しているという表現の方が近しいのですが、イメージとしてわかりやすいので図のように現わしました。
肉体と幽体は振動数が大きく隔たるために直接コントロールすることが出来ないので、その中継をするのが肉体の複製品ともいうべきダブルです。実際は肉体の方がダブルの複製品なのかもしれませんが、いずれにしても幽体(魂)と肉体を繋ぐ連結体の仕事をしています。
本体や霊体のことはわかりませんが、ひょっとしたら幽体と肉体を繋ぐのにダブルという連結の役割をする中間質があるように幽体と霊体、霊体と本体の間にもあるのかもしれません。
幽体、霊体、本体という用語は本によってマチマチで全然統一されておらず仙人の人たちは本体のことを「玄体」と呼んだりしますし、「光体」とか「神」のように表現されることもあります。いずれにしても大雑把に4つに分類されることが多く、肉体と幽体(とその連結体の役割のダブル)に関することはある程度知られていますが、霊体と本体のことはほとんど知られていません。きっと地上生活を営む間の人間にはあまり関係がないことなのでしょう。
マイヤースは人間は生きている時に死後の世界において使う幽体や霊体を形作っていると述べていますが、ひふみ神示や出口王仁三郎を始めほとんど多くのスピリチュアル系の書物で似たようなことを述べています。
言い方を変えると生きている時の善悪の行為や思想が死後の世界においてどの境涯に行くのかを決めるということで、善行を積めば(幽体の形態や性格がそれ用に形作られて)天国にいく、ということになります。
死んでも物質界とつながりなくならん。生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。
(中略)
それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ
(ひふみ神示)
現代の人間は百人が殆ど百人迄、本守護神たる天人の情態なく、何れも精霊界に籍をおき、そして精霊界の中でも外分のみ開けてゐる。
霊界物語 第48巻 > 第1篇
人間は生きているときに既に霊界に籍をおいていて、生きながら既に精霊界(中有界)や地獄、稀に天国で暮らしているおいう趣旨のことが述べられていますが、
(天国、地獄、中有界の詳細はこちら)
睡眠中に自分が所属している境涯に行ったり、起きたままでも稀に行ってしまうことがあるようです。
前回の記事でも書きましたが幽体は「高級なエーテルの部分」と「低級なダブル」の部分に分かれており、このエーテル部分がだけが睡眠中に抜け出して幽界や霊界にいく話には枚挙に暇がありません。
実は、あなた方は今でも毎夜のように霊の世界を訪れているのですよ。ただ思い出せないだけです。この体験は死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあることを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識でもって見ることができます。その時すべての記憶が蘇ります。
(シルバーバーチの霊訓)
参考サイトはこちら
あッカアリィじゃありませんか! 不思議なことがあればあるものですね。家内中が皆幽界へ引越して来ている!』
叔父。『別に引越した訳でもないが、斯うして毎晩幽界へ出張するものは実際なかなか少くない。人によってはのべつ幕なしにこっちへ入り浸りのものもある。その癖眼が覚めた時に、そんな連中に限ってケロリとして何事も記憶して居ない。彼等に取りて幽界生活と地上生活とは全然切り離されたもので、睡っている時は地上を忘れ、覚めている時は幽界を忘れ、甚だしいのになると、幽界へ来て居る間にまるきり自分が地上の人間であることを記憶せぬ呑気者も居る。斯んな連中は死んでも死んだとは気がつかず、何時まで経っても睡気を催さないのが不思議だと思っている。が、大ていの幽界居住者は多少地上生活の記憶を有って居て、逢いたく思う地上の友を捜すべく、わざわざこの辺まで出掛けて来る。又生きて居る人間の方でも、夢で見た幽界の経験を曲りなりにも少しは記憶して居る。ただ極端に物質かぶれのした人間となると、幽体がその肉体から離れ得ないので、死ぬるまで殆んど一度も此所へ出掛けて来ないのもないではない。就中食慾と飲酒慾との強い者は自分の幽体を自分の肉体にくくりつけて居る。──が、談話はこれ位にして置いて、ちょっとカアリィに会ってやろう。しきりに私の事をさがしている………。』
叔父さんは通行者の群を突き抜けて、直ちにカアリィに近づきましたが、彼女は安楽椅子に腰をおろせる生前の父の幻影を描きつつ、キョロキョロ四辺を見まわして居るのでした。彼女の身に纒えるは、きわめて単純な型の純白の長い衣裳で、平生地上で着て居るものとはすっかり仕立方が異って居ました。
やがて父の姿を認めると彼女は心からうれしそうに跳んで行きました。
カアリィ。『お父さましばらくで厶いましたこと! お変りは厶いませんか?』
J.S.M. ワード (著), 浅野 和三郎 (翻訳)
参考サイトはこちら
『モシ先生、あそこへ来るのは万公ぢやありませぬか。何だか心配らしい顔をして歩いて来るぢやありませぬか』
『ウン確に万公だ、併しながら言葉をかけちやいかないよ。向ふがもの言ふまで黙つてゐるがいい。先方がもの言つても、こちらはもの言つちや可けないよ』
かく話す折しも、万公は行歩蹣跚として、二人の前に立ちふさがり不思議相な顔をして、二人を眺めてゐる。治国別は心の内にて、天の数歌を奏上してゐる。竜公はあわてて、治国別の戒めた事を打忘れ、
『オイ万公ぢやないか、何だみつともない、其ザマは、シツカリせぬかい』
と背中をポンと叩きかけた拍子に、万公はプスツと煙の如くに消えて了つた。
『アヽ万公かと思へば、何だ、化物だなア。ヤツパリ霊界は霊界だなア。万公に冥土の狐奴、化けてゐやがつたのだなア』
『エヽ仕方のない男だなア、ありや万公に間違ひないのだ。肉体はまだ現界に居つて精霊のみが俺達の身の上を案じて、捜しに来てゐるのだ。肉体のある精霊に言葉をかけるものぢやない。肉体のある精霊は霊界にゐる者が言葉をかければ、すぐに消えるものだ。それだから俺が気をつけておいたのに、困つた男だな、これから伊吹戸主の神様の関所へ行くのだから、余程心得ないと可かないぞ』
霊界物語 > 第48巻 > 第1篇 変現乱痴 > 第1章 聖言
3つほど引用しましたが、まだまだ睡眠中に人が肉体を飛び出して幽界や霊界に行く話はたくさんあります。そこで死んでしまった親族や知己と旧交を暖めたり、高級霊から指導を受けたり、人によっては霊界での仕事をしているそうです。J.S.M. ワードの「死後の世界」では生きた人間が霊界に来てチェスで遊んでばかりいる話も出て来ますが、この辺りは色々のようです。
この幽界または霊界での記憶を夢として目覚めた後に思い出したり、インスピレーションとしてアイデアを思いついたり、あるいは元気づけられていたりするわけです。
例えば大切な家族、恋人、友人などと死に別れて落ち込んでいる人が時間とともに段々と元気になっていくのは、ほかにも理由があるのでしょうが、寝ている間にその死んだ人と幽界や霊界で会っており、それに元気づけられて目覚めた時に詳細は覚えていなくてもその人の内面は活力を取戻していくケースも多いです。
ポイントはこの幽界や霊界で過ごすときにちゃんと体を持っている点で、これが日々の生活で私たちがダブルの中で作っている死後の世界用の体なわけです。
マイヤースは「そのエッセンスは死後に使用するエーテル体の素材であって、殻の中でゆっくりと成長しながら性格と外形を整え」と述べていますが、悪事ばかりを行っている人は醜い姿となり地獄に籍を置きますので、寝ている間も中有界の下のほうか、酷いものになると地獄へいきます。
「ダブルの中でこしらえられる新たなエーテル体はそのままではすぐに使用できないので類魂が影から援助するが、いずれにしても処理が完了するまでが冥府での滞在期間である。
類魂団の生命を支配している統括霊は当人との共同作業によって容貌や外観をこしらえ直す。」
と述べられていますが、これは本格的に霊界で過ごすための霊体を作るための最終調整であって、生きている間も睡眠中に幽界や霊界行っているわけですし、存命中でもちゃんと体があると私は感じています。
またこれはおそらく普通一般の人の話で出口王仁三郎の話では極善人は生前に既に天国行きの準備が整っていて、霊体などの準備の手続きも完了しているので、死の際に頭から幽体が抜けていき天国へ一直線に登っていく人もいるとのことです。
逆に極悪人も同じく地獄行きの準備が生前に既に完了しているので死の際に足から幽体が抜けて行って地獄へ真っ逆さまの人もいるようです。
こういった霊は極端な善人、極端な悪人の話で普通は死後しばらく中有界に留まって天国行きか地獄行きかを「外分の状態」「内分の状態」「準備の状態」の3つの状態を経過して定められていくようです。おそらくこのマイヤースのいう 「ダブルの中でこしらえられる新たなエーテル体はそのままではすぐに使用できないので類魂が影から援助するが、いずれにしても処理が完了するまでが冥府での滞在期間である。類魂団の生命を支配している統括霊は当人との共同作業によって容貌や外観をこしらえ直す。」というのが「準備の状態」に相当する気がします。
要するに人間は生きている間に死後の世界で使う体を作っているわけですが、面白いのが人間がダブルの中で形作っている幽体のエッセンス(以下便宜上幽体と呼称)なのですが、肉体は着飾っていて美しく整った顔立ちでいても幽体は醜い顔をしている人がいることです。
肉体上は美男美女であっても、精神的には劣悪な人格をしており、悪には悪が相応するためその容貌も地獄的なものになっていて、ほとんど悪魔だなと思うような人もいます。ほとんど悪魔というよりは地獄の2段目によくいる完全な悪魔みたいな人間すらいます。
J.S.M. ワードの死後の世界の「陸軍士官の地獄めぐり」に地獄にいる連中の描写があります。
その次ぎの瞬間に彼は又もや人間の姿に立ちかえったが、実は人間というのは大負けに負けた相場で、いかに人相のよくない人間でも此奴のように醜しく、憎々しい、呆れ返った相貌のものは広い世界にただの一人も居はしません。眼と云ったら長方形で、蛇の眼のように底光りがしている。鼻と来たら鷲の嘴のように鈎状を呈している。大きな口に生えた歯は何れも皆尖って象の牙のように突き出している。悪意と邪淫とが顔の隅から隅まで漲り渡り、指端はまるで爪見たいに骨ッぽい。総身からは闇の雫がジメジメ浸み出るように見える。そうする中に彼の姿が又もや変って今度は真紅な一本の火柱になったが、ただ不思議なことにはそれから少しも光線というものを放射しない。
J.S.M. ワード (著), 浅野 和三郎 (翻訳)
参考サイトはこちら
美男美女とは言わなくても、外見は普通一般なのに幽体は実際ほとんど化け物でかろうじて人間………か?、というような容貌の人もいて、私がここで人間と呼ぶのは目と耳が2つで鼻と口が1つで手足も2本ずつで直立歩行だから、なんとかギリギリ、出血大サービスで、仕方なく、「いやもうこれは人間とは呼ばないでしょ」と心の中では思いつつ、仕方なしに人間と呼んでいるだけの、鼻や頭が尖ったり、口が耳まで裂けていたり、手足の爪が猛獣のようになっていたり、肌は爛れていたり、言うに言われぬ醜いという言葉では全然足りない表現の人たちもいます。
それどころか「この人、幽体は何処にいった?」と思うような人もおり、この辺りは正直よくわかりません。崩れてしまっているように見える人もいます。
その人のこれまで生きていた人生と築き上げてきた人格がそのような姿を自分で作ってきたわけです。
逆に地上ではブサイク、ブスと呼ばれるような人でも幽体は美しく麗しい姿をした姿の人もいます。その本質の美しさは霊性の高さつまり前回の記事で述べたような高潔さから来ており、愛情深く、親切で、他人のために自分を犠牲出来るような人です。
幽体と肉体は原則的に合わせ鏡なので精神・性格が悪ければ、それが肉体の容貌にも滲み出てくるのが普通一般ですが、不思議とそうでない場合もあり、幽体を無視して純粋に肉体だけを見れば美男美女がいることあります。
このような例外と思えるようなケースもありますが、おそらく類魂、分魂や試練や致し方ない事情や埋め合わせの原理でそうなっているのだと思われます。しかし確実に言えることは愛情のレベルが無条件の愛に近付くほど、利己と保身を捨てて他のために尽くすことが出来るほど、他人も自分も同じように大切に守っていける人ほど、その幽体は美しいです。
地上時代にいかに美男美女と行ってもそれは肉体上の20年~30年くらいの短い期間であって死後の世界は永遠ですので、線香花火みたいな短い一瞬に過ぎません。
幽体と肉体の美しさが比例せずにアベコベになるのは地上の主目的が試練のための場所だからだと思いますが、なぜこんな美しい幽体をしている人がこんな姿で生まれてくるのだろうと疑問思うことがあります。きっと私にはわからない理由があって、本人の試練だったり、学ぶべき教訓があってそうなるのでしょう。
幽体としての姿が見えなくても人はこれを直感的に感じ取り、世間一般では美男美女と呼ばれる人なのになぜかその人から嫌なものを感じたり、逆に世間一般ではブサイク、ブスと呼ばれる人なのに理由はわからないけれど、なぜかその人に好感・愛着・愛嬌を覚えることがあるというのは誰にでもあるのではないかと思います。
親和性もあるのでしょうが、多くの場合は肉体の表面ではなく、内面の美しさ、具体的には幽体をなんとなく直感で感じ取っているのではないかと思われます。
私の知る限りでは天人天使たちはみな美しく、その美しさは地上の美男美女と言われる人たちの何千何万倍に比しますが、同じように地獄の住人も地上のブサイク、ブスよりも何千何万倍も酷いです。酷いとか美しいという言葉がまるで空しく響くほどです。そんな言葉では物事の本質の1%も表現出来ないレベルです。
この人もこんな姿になってこんな悲惨な境涯に来ることがわかっていたら地上時代にもっとマシな生き方をしたんだろなぁ…と思うこともよくあります。
結局のところ、可哀想と思ったりもしますが、全部自業自得であって生前の行いによって形作られているのですので、死後中有界の霊たちが「こんなことになるなら、生きている間にもっと善行を積めば良かった…そうすればもっと良い境涯に行けたのに」と後悔しているのはよく見かける光景です。
一旦死んでしまったからには生き返る工夫はないわけですが、間接的にではあるものの死後の霊が善行を積みたいという理由で地上に残してきた家族や同じ考えを持つ人間に懸かることがあるのでそちらはまた後日別の記事で書いてみたいと思います。
シルバーバーチやホワイトイーグルを始めとする霊訓関係やひふみ神示などで天国、地獄、幽界の消息が知らされているのは本当に有り難いことで、イエスの「自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこでは虫と錆びで傷物になり、また泥棒が穴をあけて盗みます。自分の宝は天に蓄えなさい。そこでは虫も錆びも付かず、盗人が穴を空けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」というのも比喩とか例えではなく、そっくりそのまま事実であると思います。
蓄財については別に私は常識的な範囲で他人を苦しめるレベルでなければ今の時代しても良いというか、するべきだと思います。キリスト教は現代と全く社会構造が違う二千年前のことをそのまま現代に持ち出してくるので、その辺りは「当時はそれで良かったのかもしれないが、現代ではそれは通用しないでしょう」と思う部分があります。
イエスだってあくまで当時生きている人に対して述べているのであって、わざわざ二千年後の現代にのみ焦点を当てて喋ったわけではないはずです。今後時代が進んで今までがそうであったように社会機構がさらに変化する可能性は十分あるわけですから、ますますイエス存命時の理屈が通用しにくくなるはずです。
まとめとしましては一部の直感によって、あるいは霊覚が発達している人を除けば、こういうことに理解を持ってくれる人は現代人では少ないはずです。
大抵は仕事・事業で大ピンチになるとか、大病を患うとか、愛する人を失うとか、人生の大きな悲劇に見舞われて初めて表面的な物質社会での快楽や財産や名誉を追い求めることの馬鹿らしさに気づき、もっと本質的なことに目を向ける人がほとんどなのですが、死後に天国へ行って良い暮らしをするために努力することが、そっくりそのまま地上生活をより良くするための努力を被るので私としては人間が死んだ後どうなるのか?を多くの人に理解して欲しく思います。
誰にも強制は出来ませんが、入り口は現世利益でも、困ったときの神頼みでも、興味本位でも、何でも構わないので、地上時代に悪事を働くことほどアホらしいことはないということが分かれば多分地上から悪事は減っていくのではないかと考えています。