質問「霊的に高い進歩を遂げている人はどんな特徴がありますか。」

回答「肉体をまとっている人間の霊性の高さは、地上生活での行為のすべてが神法と一致していること、および霊的生命をよく理解していること、これがその基準である。


高潔な人は正義と愛の法を無上の純粋さで実践する人である。彼は常に自分の行為に関して良心に問う。悪い事はしなかったか?力一杯良いことをしたか?自分に対して不満を抱く者がいないか?自分が人からして貰いたいように人にもしてあげたかと。

彼はすべての人に対して寛容と愛の心に満ちており、報いを求めることなく善のためにのみ善を行い、正義のために自分の利益を犠牲にする。人種や宗教の如何にとらわれず、すべての人を兄弟と思い、寛容で優しくすべてに愛情を持っている。

もし神がこの者に力と富を与えられたら、彼はこれを全体の利益のために、彼に委ねられた預りものと見做す。彼はこれを自慢の種とはしない。なぜなら彼はこれを彼に与えた神は彼からそれを取り上げることも出来ることを知っているから。

もし社会機構のせいで彼に部下ができたら神の眼からは同輩なので、彼は愛と寛容を持って部下を受け入れる。権力は彼らを精神的に高めるために使い、威張って相手をヘコますためには使わない。

 

彼は他人の弱点に対して寛大である。それは彼も他人からの寛大さが必要な人間であることを知っているから。またキリストの【罪のない者が最初の石を投げなさい】という言葉を覚えているから。

彼に復讐心はない、だが恩恵だけは覚えている。キリストの範に倣い彼はすべての罪を許す。それは自分が他者を許した分だけ自分も許されることを知っているから。

彼は他者の権利を尊重する。神の定めた自然法に基づいたものとして。彼は自分の場合も権利が尊重されるのを望んでいるのである。

 

(霊の書 アラン カルデック)

 

 

アラン・カルデックの霊の書の印象的な一節なのでご紹介しました。

社会機構の上下関係は仮初めの制度で万物は神の目から見て同輩であるが故に愛情を持って接すること。自分が他人に寛大であって欲しいなら自分も他人に寛大になること。自分の権利を他人から尊重して欲しいなら、自分も他人の権利を尊重することという趣旨のことが述べられています。

 

人への寛大さは霊性の高さを示す一つの尺度と言えます。有名な【罪のない者が最初の石を投げなさい】や【他人の目の中にあるオガ屑は見えるのに、自分の目の中の丸太には気付かない】はまさにその辺りを戒めるものです。

 

 

霊の世界でも霊性が進歩すれば部下を持つようになりますし、階級制度はむしろ人間社会より遥かに厳密で明確になっているのが霊の世界ではありますが、高級霊たちにも名誉や階級への願望はあるものの、それは自分がより高い地位に就けばそれだけ人助けの範疇が広がるからであって自分が偉そうにふんぞり返るためではありません。

 

 

これは地上でも同じで無名の一市民よりは社会的地位のある政治家や実業家などの方が社会的影響力が強いのと同じです。単純に人助けをしたいなら金持ちになったり、偉くなった方が出来る仕事の範疇は広がります。

 

 

またひふみ神示に下記のような一節があります。

 

我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ。

 

(ひふみ神示)

 

ひふみ神示にはよく「善人」と「お人好し」を区別するような文言があり、また善や悪というのは地上的人間の価値観によって変動するものであるという趣旨のことが書かれています。「悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ」というは人間でいうところの「正義の反対は悪では無く、別の正義」というやつです。

 

国によって、文化によって、個人の価値観によって、到達している霊性・道徳水準によって何を善とし、何を悪とするかは実際かなり違います。

 

 

自分にしか通用しない独善的で偏狭なものでも善は善ですし、社会公共のために一生懸命に無私で働いても馬鹿だの、阿呆だの、屑だの、詐欺師だの、犯罪者だのと罵られ、最後は十字架に磔にされて死刑にされたイエス・キリストのような社会から見た極悪人の犯罪者もいます。

 

 

悪魔の守護するこの地上世界ではそれも当然と言えますが、私が見る限り善悪の基準はただその人なりの到達レベルから見た善と悪の判断があるだけで、真の善も真の悪も地上にはないように思えます。

 

 

お人好しも度が過ぎれば悪になる場合もあり、この辺りは日本人にはお人好しが多くて善人が少ないように思え、ひふみ神示にも「今度は本当の善人を作る」というようなことが述べられています。

 

 

あのひと仏様ほとけさまのやうなひとだとひとは、おひとよしの所謂いはゆる好人物かうじんぶつ代表だいへうとはなるが、仕事しごと出来できぬ。鬼神きしん壮烈さうれつくとことわざがある、勇気ゆうき凛々りんりん活気くわつきてるが神様かみさまだ、神様かみさまでなければはたらきは出来できぬ。

 

(出口王仁三郎 三鏡)

 

あの人は仏様のようだ、というのはお人好しの典型で、悪魔たちの悪事に対してもヘラヘラ笑って事なかれ主義を展開するのがまさにお人好しですが、神様の方は悪魔がワンワン泣いて逃げ回るような凄まじい仕事をします。

 

 

それが相手のためになるならば時には厳しく、辛辣に振る舞うのが善人であるはずで、相手を甘やかすだけのお人好しではどうにもならないことがたくさんあります。

 

 

しかし既に述べたように何を善と感じ、悪と感じるかは人それぞれであり、守護している霊の影響もあり、生活している環境の影響もありますので、なかなか難しい問題です。

 

 

こういった進歩には億年単位で時間が掛り、7千万年前くらいのことを述べている霊界物語でも今とあまり変わらない人間くさいやりとりがたくさんありますので、自分のことを含めて時間の掛る本当に難しい問題だと思います。