「八雲神社 夏祭礼 2014」屋台と神輿が町内をゆく | 「小江戸川越STYLE」

「小江戸川越STYLE」

「時が人を結ぶまち川越」
川越のヒト・コト・モノ、川越物語りメディア、小江戸川越STYLE。
川越の現場で様々なまちづくり活動にも従事しています。
「小江戸川越STYLE」代表:石川真

国道16号から川越所沢線へ。

住宅やお店が建ち並ぶ通りを進んで久保川を越えると、

町名変更でできた中台元町があります。

この地域は古くからの農家さんが多くて、

古い家だと13、4代になるところもあります。

中台元町にあるのが八雲神社です。





「八雲神社」という名前の神社は各地にありますが、川越ではここだけ。

祭神はスサノオノミコトです。


この地域は、江戸時代の中頃には人が住み始めていたといいます。

地域に川越城から分けてもらった稲荷塚ができ、

その後そこに神社ができ、八雲神社と名付けられた。


こんもりと木が生い茂り、色とりどりの提灯が下げられ、
8月3日、毎年8月第一日曜日恒例の伝統行事、

夏祭礼が行われました。
前日に行われた夜宮(よみや)と合わせて、

二日間に及ぶ夏の天王さまです。





土曜日に屋台が出て境内賑やかな雰囲気になり、

(「以前は盆踊りも行われていたんだよ」と、昔の話しを聞かせてもらいました)

日曜日の日中、神輿が町内を渡御し、同時に屋台を町内曳き回して囃し、

八雲神社に戻ってくるという日程。

農家が多い地域では、夏には疫病が流行りやすかったため、

悪霊除けの願いを込め、五穀豊穣を願い、行われてきたお祭りです。


この辺りは、

今でこそ川越で一番さつま芋が栽培されている地域ですが、

もともとは麦やニンジン、ゴボウなどを栽培していたそう。

「食べるものは自分たちで作る」自給自足のような生活でしたが、

なにより土に恵まれた土地だった。

サラサラして水はけの良い土は根菜類の栽培に適して、

その先に、今に続くさつま芋作りがあります。


八雲神社の4月の春祭礼の時は神輿渡御はないので、

貴重な神輿廻りを楽しみにしていました。

中台は、生まれた場所からすぐ近くの地域。

八雲神社にも小さい頃から来ていたし、

三峰神社の夏祭りにも遊びに来ていました。

自分にとっての川越の原体験は、なにより今福や中台の畑の風景です。


3日、朝早くから境内には神輿が準備されていました。

見てみると、年季の入った神輿と新しい神輿、二台が並んでいました。





古い神輿は、建造された年代が「もう誰も分からない」と口にするほど

昔から使われているもの。

年長の氏子さんが、

「小さい頃からこの神輿はあった」と話し、
毎年夏祭礼で使われてきました。


輝いている小さな神輿は、子ども神輿として近年作ったもの。

子どもたちに神輿に親しんでもらうために作ったそうです。

なにせ、古い神輿の方は子どもには持ち上げられない重さです。


「70貫以上はありますよ」ということなので、300キロ以上はある計算です。。。

これを15人ほどの大人で担いで渡御する。

広い地域なので、廻るだけでも大変な行程です。


神輿と屋台が廻るのは、八雲神社を出発して

川越所沢線から中台通りを進み、

御嶽神社に少年刑務所の手前の三峰神社まで行くという結構な長距離。


道中の屋台はずっと囃子を演奏しています。

今では、中台通りの自治会館で立ち止まる行程ですが、

昔は地域の主だった家を一軒一軒廻っていたそうです。


「この辺りは農家しかいなかったし、70軒ほどの集まりだったんですよ」


とのこと。それらを全部神輿と屋台で廻り、

家の庭まで入って止まっては

神輿をその場で練って見せ(上下左右に激しく揺さぶるさま)、

家主にたらふくご馳走になり、

食べ呑み終わるまでは次の家に行けなかった、と振り返ります。


「でも、それが楽しみでもあったんだよ」


と話してくれた前氏子会長さん。

そうして中台通りを進んで

狭山の方まで全部廻り終わる頃には、夜遅くになっていた。

最後の方はみんなベロンベロンになっていて、

お祭りであり、地域の結びつきを強める日でもありました。


重い神輿を一日担いでいると、

肩に厚い布を入れていても出血するほど大変なものでした。

それがずっと続いてきたこの地域の伝統行事。




農作業の合間のつかの間の楽しみとして、

夏祭礼というお祭りを、担ぐ方も迎える方も楽しみにしていた。


地域の伝統行事は、形が変われど、やり方が違うだけで

どこの同じようなお祭りがありますね。

中台は神輿と屋台。

田んぼの地域には屋台を曳き回したり、弓を射ったり、とありますが

根底にある願いは同じ、五穀豊穣。

ここでも、

川越の郊外に残るお祭りに、川越の素の表情が見えると実感。

残っているのは、残していこうと頑張っている地域の方々の姿をいつも見ます。

屋台と神輿を同時に運ぶのは人手がたくさん必要で、

今では神輿はトラックで運んでいますが、

それでも町内を渡御することを大事にしています。



地域性があるのかもしれませんが、

この地域の方は誰に聞いても、昔の話を気さくに聞かせてくれます。

昔は麦を栽培していた、

神輿は70貫あるんだよ、みんなで担いで重かったなあ、

囃子のことならあそこにいる人に聞いたらいいよ、

みんなでワッショイワッショイ担いでいってね、

担ぎ手はみんな農家だよ、

あの舞いの意味はね、

この囃子の曲の意味はね、

昔の神輿はあそこまで行った、

家々でこんなご馳走してもらった、

食べ終わるまで出て行けなかった。。。


中台囃子連という、もとは里神楽から始まって、

川越でも特に古い囃子がある地域なので、

お祭り好きという土地柄が関係しているのでしょうか。

そして、「食べて、呑んで」とどんどん勧められる。。。


「このお祭はなくさないように、と今みんな熱心です。

転入した新しい家族も増えて、子どもたちも参加してくれます」


農家の願いが込められていますが、

地域の繋がりを感じるための行事でもある。

みんなで神輿を担ぐことで、

小さい子が大人になった時に

八雲神社のお祭りに参加した、神輿を担いだ、そんな思い出になるかもしれない。

小さくても地域の夏祭りこそ、色濃く記憶に残るものですもんね。


八雲神社のお参りの後、幣束に神様が移られ、

御神体となって神輿の中に立てられました。


いよいよ神輿の担ぎ出しです。


こういう儀式を見ると、神輿の本来を確認できました。

神輿に神様に乗ってもらって、

神様の方から人々のところに出会いに行く。

氷川神社の神幸祭もそうですが、

人が神社にお参りに行くのではなく、

神様の方から出向いてくれる神輿は、貴重なもの。



そして、屋台の方にも囃子手が乗り、お囃子が始まりました。

賑やかな「屋台」に、

落ち着いた「鎌倉」、

軽快な「いんば」と曲が続きます。


中台囃子連をはじめ、川越まつりの囃子は

もともとは周辺の農家が担い、

お祭りの時に呼ばれて山車で演奏することが多かった。

その流れが今でも残り、

中台囃子連は仲町の山車に乗って演奏しています。

今福囃子連は六軒町の山車に乗ります。


今年の川越まつりにも、中台囃子連は仲町の山車で演奏します。




中台囃子連に入っているのは15人ほど。

代々農家が多い地域なので、代々囃子に入っている家族もいます。


「さあ、行きますよ!」


という掛け声が境内に響き、屋台は八雲神社を出ていきました。


目の前は、川越所沢線。交通量の多い道路です。

道に出ると緊張が高まる。

田んぼのあぜ道を進むのとは違うヒヤヒヤ感があります。



川越所沢線に現れた屋台に囃子の音色。

車の方は驚いたでしょうね。


脇道に入って細道を進みます。

所々の家の軒先に提灯が下がっていました。




中台通りへ来ると、

川越所沢線より交通量は少ないですが、ここも車の往来が多い道路。

砂利道だったという昔が今では想像できません。


「鎌倉」が鳴り響き、

地域の人で綱を手に取り屋台を曳く。

鎌倉という囃子の曲は、しっとりと落ち着いた曲です。
賑やかな曲もいいですが、

この通りに響く鎌倉がなんともしっくりきます。

のどかな風景にぴったりの曲。









通りを真っ直ぐ南に来て、関本記念病院近くでしばしの休憩。

ここから続々と子ども達が加わり、

明るく賑やかな屋台曳きになりました。

曲も「インバ」に変わったりして楽しい雰囲気に。




容赦なく太陽が照りつける通りを、暑い暑いと口にしながら綱を曳く。
自分達の地域の屋台を曳き、自分達の地域のお囃子を聞く、

唯一無二の夏休みの思い出になってくれるはずです。

楽しそうに曳く子ども達を尻目に、

一方の車を止め、一方の車を通し、と大人たちは大変です。

周りをサポートする大人の姿は見逃せませんでした。




視線の先にあれが現れる。。。

みんなの顔がこわばります。

屋台曳行の最大の難所が目の前に。


「頑張ろうね!」

「さあ、登るよ!」



視線の先に、関越自動車道の陸橋が見えていました。

ここを屋台を押して進みます。

綱を握る手に力が入る。


「ヨイショ!ヨイショ!ヨイショ!」




声を合わせて屋台を押し出す。

子ども達が頑張って、無事に関越を登りきりました。

陸橋の上から見えるのは、昔から変わらない畑と、

新潟方面に走る車の列でした。





下りは力を抜いて、ゆっくり進みます。



街の構造が複雑になるなかで、

山車や屋台の曳行にとっては難所があちこちに出来きてきたりし。

中台の屋台の関越越え、

川越まつりで野田五町の川越市駅踏切越え、

はたまた、南田島の屋台の旧富士見有料道路くぐり、など

難所であるけれど、同時に見所でもあって

一致団結する感じがあります。。。(*^.^*)


中台ゴルフセンターを越え、ヤマト運輸のはす向かいにある

三峰神社にある自治会館にたどり着きました。
ここで一旦休憩。

子どもは全部で60人ほど集まっていて、

屋台曳きを頑張った後に自治会館で振る舞われるおにぎりにアイスを楽しみにしています。




美味しいものを楽しみにするのは、地域のお祭りに参加する子どもたちすべての特権。
今、屋台曳行を管理している大人も、
「小さい頃は、このお祭りで出される団子が特に楽しみだった」と言います。

食べ終わったら子ども神輿をみんなでワッショイワッショイしました。




「ホレ、頑張れ!」
「神様乗ってるから重いでしょ!」
「手挟まないように、気ぃつけてな!」

そして、自治会館の中でお昼ご飯を食べながら

中台囃子連による囃子と舞いも子どもたちに見てもらいました。
先ほども書きましたが、中台囃子連は川越まつりで旧十ヵ町の一つ

仲町の山車に乗って演奏する歴史ある囃子連。






この囃子連では、一人で太鼓や笛、と何役やるのではなく、

太鼓なら太鼓だけ、舞いなら舞いだけ、と分かれています。
それにより、それぞれが専門職のようになって、さらには
「あの家はもどきを演る」といったように

家の役が一子相伝で受け継がれたりしています。




楽譜はありません。
全て、やって見せ、演じて見せ、体で覚えさせる。
中台囃子連は、特に舞いが素晴らしいです。


天狐なら天狐の練習しかしない、

その役を何十年と演じている専門職です。
その専門性により一瞬一瞬が絵になるように美しい。
天太(おかめ)の指先の動作が綺麗です。


「舞いと踊りは違うんだよ」


舞いは姿勢を見せるもの、動かなくても絵になるような姿勢なんだと教えてくれました。
足の指先を少し動かす、髪が微かに揺れている、それも舞いなんだ、と。


中台囃子連が「上覧囃子」と呼ばれるのは、
かつて川越氷川祭礼(川越まつり)の時に、
川越城内に山車を曳き入れることを許され、お殿様の前で演奏し、

上覧囃子の称号を授けられたのが始まり。
昭和34年には、「中台上覧囃子」は埼玉県の指定文化財に指定されています。


子どもたちの中から、囃子に興味持つ子が出てきて、

将来、仲町の山車で演奏することがあるかもしれない。


「それじゃあ、出発するよ!」


三峰神社を出発した後は、次の中継ポイント御嶽神社へ。

やって来た中台通りを戻って行きます。









今の舗装された道路からは想像できませんが、

昔の中台通りは家は数えるほどで、あるのは畑と山くらい。

道幅も狭く、砂利道だったそうです。


今では住宅にマンションに、

三共自動車教習所があり、コメリにラーメンの一指禅に、と建物の方が多く並びますが、
でも地域の生活の主要道路であり続けていることはずっと変わらない。

さらにここは、川越最大のさつま芋畑ストリート。



去年の秋に収穫体験した畑が、この通りの山田園さんでした。

川越を楽しみ尽くし隊 山田園から
畑を見ると、さつま芋の葉がフサフサと茂っています。

あと一ヶ月ほどで収穫できるとのこと。
山田さんも囃子に笛で参加していました。

いくつものさつま芋畑を越え、中台自治会館に到着。

ここでもまた、この地域の子どもたちに舞いを見てもらいます。





そして、八雲神社に戻って来て、

夏祭礼の屋台曳行は無事に終わりました。




広い地域なので、屋台曳行もかなり遠くまで行きましたが、

それでも、狭山の境まで一軒一軒行って終わったのは夜遅く、

という時代から比べたら近い範囲。

昔の形と変わっても、地域の新しい家族がたくさん参加して

これからも守られていく中台の伝統だと思いました。


神社に自分からお参りする方は多く、

それを大事な行いとしている方は多いと思いますが、

屋台や神輿が町内を廻るのは、

神様の方から出向いてくれる貴重なお祭り。

地域の神社のお祭りは大事にしていきたいですね。。。


夏真っ盛り。

近くから盆踊りの音が聞こえてきたら、

覗いてみるのもいいのではないでしょうか♪


「八雲神社 夏祭礼」

毎年8月第一日曜日









読者登録してね