群馬県に「上野三碑(こうずけさんぴ)」というのがあるのをご存じでしょうか。その一つが多胡碑なんですが、多胡碑に不思議な話があるんですね。

 

多胡碑についてはこの辺を見てもらえれば。

https://www.youtube.com/watch?v=aF-eyPNyXzs

 

           多胡碑

 

松浦静山という江戸時代後期の肥前国平戸藩主が書いた随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』続編6の七十三巻〔17〕に下記の文章が出ています。(7月12日東洋文庫版で確認しました)

 

〈JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石櫃を堀出だす。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、耶蘇刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮学通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。

多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。今天保三年を距ること千百廿二年。されば彼蛮物は何(イカ)なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずるとことならん。尚識者の考を俟(まつ)〉

 

このJNRIは聖書解説者・久保有政さんなどによるとINRIではないかとされ、INRIはキリストの磔刑像で頭上に掲げられている文字なんですね。そこから久保さんは「羊」は景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)ではないか、と主張しています。

なのでJNRIと書いたものが現存するならおもしろいですよね。そう思って多胡碑記念館に展示されているものをよく観察してみました。

石辺に「十」と書かれたものは十字架に見えなくもなかったけれど、JNRIっぽいものが刻まれた石は残念ながらなかったですね。

記念館の学芸員の方に聞いたけれど、現存しないとのこと。また『甲子夜話』は各地の不思議な話も掲載されているので、そこに書かれているだけでは証拠にはならない。ブツが出てこないと……とのことでした。松浦静山自身が多胡碑を見に来たという記録もないようです

 

また、この地域には羊太夫伝説があるのですが、それについてはこの紙芝居がわかりやすいと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=3bcxCEWfv0w

 

羊神社に行ったら隣に多胡家の墓があり、多胡さんが何人も住んでいるんですね。あそこに羊神社ができた経緯を知りたいものです。

 

 

                羊神社

 

「羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と言う名称が伝えられて」(http://www.city.fujioka.gunma.jp/kakuka/f_bunkazai/nanakosiyama.html)いるという七輿山古墳にも行ったんですけど、こちらは時代が合わないので多胡碑の「羊」とは関係ないようです(多胡碑ができたのは711年、この古墳は6世紀前半のもの)。

 

                七輿山古墳

 

多胡郡があったところにはそれ以外にも羊太夫伝説が残っている場所がいっぱいあるようです。その他の羊太夫伝承が残る場所のリストはこちらに出ています。

 

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujika.html

多胡碑の「羊」と羊太夫伝承

 

今回は上記3カ所しか回れなかったけれど、こういう伝説がどうやって生まれたんだろうと思いをはせると楽しいですよね。

 

しかし、『甲子夜話』が書かれた頃にはJNRIっぽい文字が書かれた古銅券があったんですかね。あったらおもしろいけどなぁ……