母が亡くなった日以降、兄達の地域は大雪でも、実家のある地域では大雪の被害はほとんどなく快晴の日が続いていた。

お通夜も葬儀の日も素晴らしい快晴だった。


火葬場への道。

実家からは同じ市内の反対側でちょっと離れている。民家も少なく昔は林だったところで、子供の頃、兄達は夏休みになるとクワガタ採りに来ていた場所の近くだ。兄達も懐かしそうに、よく来ていたよなと話す。


父は痛みは治まったのか、じっとしていた。

到着して、念のため父を車椅子に乗せていく。


いよいよ母と最後のお別れ。

棺が係の人によって運ばれていき扉が閉じられた。




待合室はちょっとひんやりしていた。テーブルと椅子が並び、後ろにソファーがあった。

接待係の人も来ており、お茶とお弁当を配り退室した。


隣の部屋は人数が多いのか賑やかだ。

私達は静かにお弁当を食べ、待った。

父は後ろのソファーに座って目を閉じていた。



室内は明るかったけれど、格子の内窓が閉まっていて外が見えず、私はそれを開けて明るい外を眺めていた。お母さんらしい、青空だなぁ、なんてぼんやり。


すると、父が そこ 閉めて、 と。

明るい青空を眺める気分ではなかったね…




暫くして私達の名前が呼ばれた。



跡形のない姿。

最初に喉仏と胸仏を探します、と係の方が丁寧に探す。


綺麗な喉仏ですね。胸仏は2つしか見つかりませんでした…と見せてくれた。


本当にお釈迦さまが座っているようだ。

2つの胸仏は小さな他のお骨と一緒に私の分骨用の小さな骨壷に収められた。


喉仏は別の小さな骨壷へ。


全てが収められ、焼け残った10円玉は6個あった。その他に一つ、円形のまるでペットボトルのキャップのようなものが残っていた。一体何だろうと思っていたところ、長兄が、


あ、これは人工弁だ…と。



母は僧帽弁閉鎖不全症を患っていて何度か手術をしていた。

この人工弁の手術は治験で使われた弁だった。まだ当時は認可の降りていなかったもの。

まだ若き医師だった長兄が、当時の長兄の大学病院の執刀医に最高のものを、最良と思われるものを付けてくださいとお願いした人工弁。


この人工弁の寿命は20年程だから、再度手術が必要になるだろうと言われていた。母は、次の手術を受けるのは80歳近くだからねぇ…とこの弁の寿命が自分の寿命、ということも言っていた。


それから35年。

この人工弁も母も随分と頑張ってきた証だ。


長兄が、これは俺が貰っていいか?と人工弁をお守りに持っていった。


6枚の10円玉は次兄と私で3枚ずつ持つことにした。それぞれの子供達の分と自分達のために。




遺影と二つの骨壷を持ち、繰り上げ法要のために葬儀場へ戻った。



全てが終わり実家に着いたのは午後2時近くだった。葬儀会社の方が供花と後飾りの祭壇を持ってきて設置していってくれた。供花は実家、長兄、次兄と分けたがそれでも十分に花に囲まれた祭壇になった。




一休みし、兄達はそれぞれの家に帰って行った。

父と二人になると家の中は急に寂しくなった。


とはいえ、寂しい気持ちは長く続かず


やり終えたなぁ。

次は手続きか。


そんな気分だった。