この世は、地獄だ。

 

現実に打ちのめされる度に、それをよく痛感する。

 

 

何故、私にいきなり『友達』が出来たかというのを後から知った。

保育園時代の話だから記憶にない。

けれど、母から前に聞いた話では、

「保育園に行きたくないという理由は『友達がいないから』」

という話だった。

けれど、私には保育園時代に友達が1人いて、その子と中学時代に再会した。

その時に、その子から、何があったのかという経緯を聞いた。

 

「先生に、君の友達になってくれと頼まれた」

ということだった。

 

ここで私はああそうかと納得した。

この子は、『用意された友達』だったのか。

 

小学校時代も、吹奏楽部に入りたいという理由は音楽が好きだったからだ。

好きな音楽を自分の手で演奏が出来たらという希望があって、けれどそれを簡単に諦めてしまったのは、

「お前にはあの制服が似合わないから他に行け」

とよく話をしていた女子から言われたのが理由だ。

そして改めて入ったフィールドホッケー部でよく話が合うという仲間が出来ても、

その子からうちに来て遊ばないかと誘われて遊びに何度も行っていても、

「お前と遊ぶ約束を一度もしたことはない」

と言われて納得していた。

私はその相手からフィールドホッケーで使うスティックで右頬を殴打されてかなりの顔でと小学校に通ってはいたものの、一度も謝罪をされたこともなく、

その子の家に行くとその子がちゃんと遊ぶ約束をした友達がいて、

私は孤独にゲームを別室でやっているか、もしくは外に自転車で出掛けるとなっても、

私が当て逃げで自転車が壊れて移動が無理となった時、

「いつものお店で先に行って待ってるから」

とその子と2人で行ってしまい、何とかそのお店に辿り着いた時、

そのお店には誰もいなかった。

だから私は、まだこの家に帰って来れていないのかと茫然とした。

 

中学校に入る直前でも、仲良く下校を長らくしていた女子2人から、

「お前には絶対に教えない」

と言われたのは中学で何部に入るのかという件。

 

中学校時代も、いきなりクラス委員長という座に据えられたという理由は分かる。

誰の輪にも入れないクラスメイトの世話をする為。

話が合うという女子2人組と修学旅行の班を別にと担任にされた時にはもうそれが分かっていた。そういう誰か達の面倒を先生方ではなく、私に全部やれということだ。

 

高校時代の途中まで、話が合うという中学時代の1人と遊ぶことはあっても、遊ぶとなると疲れ、玄関先でぶっ倒れるだけの関係は何だろうと思い、その相手に聞いた。

「疲れない?」

しかしその相手は、とても楽しい、と言って笑っていた。この相手は楽しいという感情で私と話をしていて、遊んでいるけれど、何故私は疲れ、帰宅するとその疲れでぶっ倒れるのかという理由がはっきりとした。

この関係性も『友達』ではない。

 

高校時代によくつきまとってくる相手は私を『友達』『親友』と呼んでは、何かにつけて完全無視を繰り返すだけだった。

出逢った最初は、『周囲に気を配れる優しい女子』という印象だった。

駅まで徒歩で歩こうという帰り道、後ろから来ていた自転車から咄嗟に私を庇ってくれて、そういう小さな事であっても、気配りが出来る、そういう優しい女子。

しかし、何故、時に完全無視をされるのかが不思議で、その理由はすぐに分かった。

中学時代にもいた、同じ部類の女子が。

 

「今回は何位だった?何点だった?」

同じ部活で、新入生代表挨拶をこなしたとかいう女子は、中間試験や期末試験となると別のクラスだったけれど、毎回そういう質問をしてきていた。

普通に点数と順位を告げれば、すごく複雑な顔をしていた。

 

そういう女子と同じか、と思ったのもあるが、左隣の席の女子から聞いたのが、

「自分よりも出来がいい女子がとにかく嫌悪対象」

という話。

その女子は1年、高校を留年していて、2回目の1年生を終えて2年生になり、私の左隣の席に座っていた。

自分よりも出来がいいという女子という判断をされるのは頻度を増していった。

試験の直後に関わらず、私が誰かと会話したりとすると完全無視が始まる。

その誰か、というのはクラスの男子か、もしくは別のクラスにいる男子ばかりだ。

しかし、その完全無視という時期が終わるのはすぐだった。

私が偏差値をいきなり20を切ったあたり、そして男子女子関係なく誰とも会話しなくなったあたり。

完全無視が終わると逆にしつこくつきまとうようになった。

聞いてくるのはやはり、試験結果や偏差値、順位の再確認。

そして、各教科で好成績という男子に関する情報を提供してくれという催促。

 

私は少数ながら、まだ会話をしていた男子が数名いたので、その方々の情報提供をという催促だ。

そんな情報屋のような関係性も『友達』ですらない。

 

短大時代となると、実家から手紙が届いているとその女子からの連絡が荷物と一緒に届いてくる。近況報告かと中身を開ければ、困っているから助けて欲しいという懇願の内容から始まり、大学1年なのに妊娠をしてしまった、そしてすぐに中絶をした。

その後別の男性と交際をし、その方とも交際を終わらせ、別な男性と交際を始め、その方とも破局、という内容が続き、最後の1通が結婚式の招待状だった。実家に帰ってからも何通か届きはしていたけれど、もう封を開けることがなかったのでその後の近況報告というものは知らない。

短大では被検体扱いだった。

看護技術のレベルが上がっていくにつれ、血管が逃げるとか血管が見えないという特殊な腕を利用された時が一番過酷だっただろうか。

身体のあちこちが針で刺された痕で痛み、右腕も左腕も右手首も左手首も、両大腿も痛くてどうにもならない。

1人目の同期が失敗してからが地獄だった。

2人目、3人目と私に針を刺し、何人目かもう分からない時に教官が淡々と説明をしながら針を刺したまま、位置を移動させると激痛だった。内心焦っているというのは分かるが、この教官は本当に看護師経験が長くあるのかと疑問だった。

そして臨地実習派遣となると私は絶対に放射線科配属、そして担当患者がナースステーション真横の個室使用者のみ。

そこで何度も知った、絶望と希望のすれ違い。

家族は希望を持っている。そして目の前の患者はその希望に応えられないという絶望を既に知っている。そして、家族もいつかその希望が叶うことがないという絶望を知っていても知りたくない、受け止めたくないという絶望が既にある。

 

看護技術はそこで応用されることはない。末期癌患者、一番死に近い相手に出来ることは血圧測定や脈拍をというバイタルサイン測定も必要がない。同期は他の科を転々都市ながら全身清拭や洗髪、足浴や手浴等をしていても、私がそこで出来ることは他に何もなく、傾聴すること以外に、何もなかった。

下手な希望を語ることも駄目だ。そして現状報告をするのは私ではない。何かして欲しいことがあればと聞いても、大丈夫だからと言われれば、傾聴以外に何もなかった。

遺族に逢うことはあっても、その方は私を知らない。私はその男性が、その子供が、と知っていても、私のことはその方々にとってはただの看護実習生としか知らないだろうし、視界にも入らない程の存在だった。

短大内部となるともう地獄そのものだった。

座学や実技以外の人間関係となると本当に地獄だった。

この人たちは看護師に向いている方ばかりだと思っていた。いつでも冷静に目の前の課題に手をつけていて、国家試験問題の練習をしながら、産婦人科では内科ではという経験を積み、看護技術もレベルが高く、成績もよく、そして私情をそこに絶対に挟まないという方々。

担当患者が骨折をしている方だった場合はという対処法をしっかりと思考し判断出来、計画が出来、実行が出来る。決してそこに私情を挟まず、冷静に対処が出来る。

私は劣等生だった。

看護技術も担当患者に何も果たせない、私情を挟んでしまう異端児だったからだ。

そして同期達が別な意味で友人関係にとなるとそこでは逆に私情を酷使するというばかりで、私はもう限界だった。私情を持って行動をすれば、相手の逆鱗に触れ、

「ムカつく」

と言い放たれた。

暖房が暑いとなると顔面が赤くなるので、それが『赤面恐怖』となり定着した。嘲笑されるのも当たり前だが、顔を冷たい水で何度洗ったか知れない。

ムカつくと言って距離を取った同期はすぐに今までのような関係性でと接してくることにも嫌悪した。

自分が放った言葉で相手がどれだけ傷を負ったかを見る目がないからそんな態度が取れるのかと、もうその時精神的に限界で、私は週に1度くらい来るという学校のカウンセラーという女性と会話するだけで精一杯だった。

 

もうその頃には自分がどういう状況になっているかを知っていたので、そのカウンセリングを受けるという個室でどれ程号泣したか記憶にない。

絵を描いてみて欲しいと言われてももうそれが分かる。心理状態を確認するためのとある方法の1つに過ぎない。邪魔な看護知識、医学知識が邪魔をする。

そして、早めに精神科に行くようにと勧められた。それは希死念慮が顕著に出ていたからだ。脳が勝手に喋ると表現はしていた、でもあれは幻聴であり、その幻聴は私に何度も、「もっと頑張れ」「頑張る以外に何がある」「頑張れないのなら」「もう他に道はない」「死ぬと楽になれる」と希死念慮の塊だった。

どうしても死ぬことは出来ない義務感があり、私は何度も頭部を壁にぶつけては黙らせてきた。血液が飛び散っても打撲痕が残っても、痛覚が働いていなかった。

 

近所に個人経営の精神科があると教えてもらい、何度も目の前まで行っては引き返すという行動を繰り返した。

それでも限界が来て、とうとう私は精神科に、精神病患者となり、短大を退学したいと両親に告げた時、その理由を聞かれ、

「何で精神科なんかに行ったんだ」

と言われ、もう私は精神的にもそこで命を終えたのだと思う。

 

退学処理はなされず、休学扱いとされ、治療という日々もまた過酷だった。

自分で運転をするのは駄目だという理由で同行する母から、通院の道で延々と、精神科なんか精神科なんかと言われ続ければ、状態は悪化するばかりだった。

弟も一度、ドライブ感覚でと同行した時があった。車の中で待っていればいいものを、何故クリニックの中に来たのかは分からない。ちょうどその日はてんかん患者や、発達障害の患者が外来に来ていたので、弟の真横に患者がべったりと座ったということで弟も、「何あそこ、あそこの人たちって気持ち悪い」と言って、それから弟は同行をすることはなくなった。

茫然と実家の居間で寝転がり、ただただ青い空を見るという日々が続き、少し回復がというところで復学の話が出た。

今の状態なら耐えられるかも知れないといろいろな手続きを済ませた後、3年次からの復学となれば1年間の臨地実習漬けという日々となる。

そして、私は自分の配属先が、『放射線科』だと知った。

即日で退学したいと両親に土下座した。

学校側も、学費は返金しますと譲歩してくれたのは救いだったが、先に契約をしていたアパートの解約の時に大家、そして不動産会社相手に文句を言われたかで母からまた劣悪な言葉を突きつけられた。

精神科に通ってしまったので、生命保険の解約をしなければならないというあの時と同じ対応、いや、それ以上だったかも知れない。

 

5年程、静養をしたかも知れない。

その後、仕事をすることになってもパニック発作が出たりすることで周囲に迷惑を掛けるだけの存在だった。

薬が無ければどうにもならない状態で仕事をするのはキツイ。

そして運がよかったのか悪かったのか、仕事先として選ぶ場所というのは劣悪な環境という場所ばかりだった。

パワハラやモラハラが平然と存在している。

抗っても潰される。

難癖をつけられ、最悪な条件で自己都合退職として片づけられる。

治療も継続していたのに悪化するのはそれも原因の1つであるが、

「こんなものに頼っているから長続きしないんだ」

と母にことごとく薬を捨てられるという状態が続き、まともに常飲できる薬は不眠を改善するだけのものに限られた。

 

リントンという薬が出された時、副作用で尿閉が出たので、そんな薬を出す医者は駄目だと転院させられた。

 

仕事が長続きしない理由を話そうとしてもまともに取り合ってくれないという相手に、何故そもそもこういう状態になってしまったのかという経緯の説明も出来る筈がなく、

どこそこの誰かは結婚をして子供がもう何歳だとか、

なのにうちは、

 

母が兄の上京の際にかなりの心配をして泣いていた時も、

私が隣県の短大に通う時に引っ越しをする時に何もなかった時も、

弟が高校を出て国立大学に推薦枠で合格して母が大喜びして泣いたという時も、

 

兄が使うからと私がバイト代で買った初めての原付を勝手に東京に持って行かれたのも、

 

私の原付は、ちゃんと名前があって、私はいつも綺麗に磨いていて、オイル交換もガソリンもバイト代で賄って、これからもいろいろな場所に私を連れて行ってくれるかなと楽しかった日々が、

 

だんだん他の誰かに奪われていくというのは本当に精神的につら過ぎた。

 

だから、決意をした。

家を出れば、今度こそ断絶すれば、まともな生き方が出来るのではないか。

 

私には理解者が、いや、よく一緒にいてくれる子がいた。

その子たちと共に家を出た。

 

しかし、その家を出るという時も、初期費用が加算されたのは、フリーレントの1か月が端数分、足されただけだ。

契約を済ませたなら早く出ていけと言われて、不動産会社に連絡を入れ、本当なら11月からとすれば初期費用はそのままだった。けれど、10日分の端数が加算され、現実はもっと過酷だった。

午後しか働けない状態になっていてもこの稼ぎだと生活が出来ない。

フルタイム勤務は恐怖だ、社会保険に入る、そしてまた、職場が劣悪な場所ばかり、生活を切り詰めればと食費から電気代から水道代からと減らして、

それでもフルタイム勤務となると1日8時間、

朝が早い、朝が少し遅いとなっても、やはり8時間労働、社会保険に入っているから厚生年金が毎月、保険料と共に出ていく。

 

もう駄目だろうか、と最期の職場で痛感した。

辞意を表明しようとしても店長が若い女性で逆に本社の幹部から指導を受けている最中という日々の中、簡易的なメモで先にと伝えようかと思っていたら、

先んじて、その若い女性店長から、勝手に私の退職届が本社に提出されてしまった。

勤務態度が悪かったのだろうか、これでも頑張ったつもりなのに認められなかったのだろうか、だからいつになっても指導や教育をしてくれなかったのか、

ここがといろいろな指摘をしてしまったのが駄目だったのか、

掃除が完璧ではなかったのだろうか、

接客対応が酷かったと判断されたのだろうか、

マニュアル通りにしっかり努力していたのにそれが駄目だったのだろうか。

 

仕事を探すという気力が一気に喪失となった。

もう駄目だ、今度こそもう駄目だ。

 

早く出ていけと言われて早くに出て行ったのに、ずっと捜していたんだ心配していたんだと遭遇した相手から、父が癌なんだという話を聞いて、

私は癌がトラウマであるから話だけは聞くと一度家に帰って話をしても、

早く出ていけと言った時となんら態度が、姿勢が、思考が変化していない。

 

平然と明日のことを語り、平然と、相手を理解しろと言うばかりで、

不確実な話を、絶対に不可能だということを求められると急激に腹が立った。

 

死んでしまえばいい。

 

もう勝手に死んでくれればいい。そして私はもうこの家の者ではないのだから家族扱いをしないでくれ。戸籍から抹消してくれ。親族という扱いもされたくない。

葬式にも勿論出る必要はない。

赤の他人の死を悼むなど私にはもう出来ない。

 

 

生きることは地獄だ。死ぬこともまた、同じだ。

私がここで命を終えたら、誰が、私の本当の家族を守ってくれるのか。

 

まちねちゃんは大破という状況で返された。

 

もうあの頃には、そういう大きな壁が目の前にあったというのに、

私は『生きる事は盲目』だと痛感した。

 

生きることは地獄で、この世界で呼吸をすることすら嫌悪だ。

 

それでも今私が生きて居るのは、まだ守りたい家族がいるからだ。

くま、忠太朗、くまのしん、みんなが私の家族で、

ハッキー、私の愛車。

 

この世がどれ程地獄であっても、私がまだ生きて居るのは、

もう自分から何かを奪われることに一番、悲観しているからで、

その悲観を払拭することが、義務となり、それが今の私を生かしている。

 

そういう、話だ。