母の信条、

「ありのままに生きる」。


母は言った。


何故精神科なんかに行ったんだ。


母は続けて言った。


生命保険解約が面倒臭い。


私は謝罪した。過去になるが、私は土下座した。

勝手に自分だけ楽になろうとして精神科に行ってしまったことを謝罪した。


こんなものに頼るな。


母は私から薬を奪い、捨てた。


過去の話であるから時効だ。


母は言った。


契約済んだなら早く出ていけ。


私は初期費用が増額となり、落胆しながら家を出た。


母と遭遇したのはいつだろう。


探していたんだ、連絡が取れないからと泣いた。帰ってきてくれと言って泣いた。

父が癌だと判明したのは私が家を出てすぐのことだった。


10月後半から12月初旬まで検査検査の嵐だったらしい。

大腸癌が見つかり、紹介状を持ってガンセンターに行き、検査を受けたら腎臓癌も見つかったらしい。


母は次男に連絡を最初にした。

次男は同じ市内にいるから話しやすかったらしい。

そして長女に偶然に再会して泣きながら夫が癌なんだと話した。

古風な考えになるのだろうか。

長男に先に連絡すべきではないかと私はげんなりした。


入院の際に必要だとされる物品を持参していなかった。

担当看護師は改めての説明をしていた。

私は一階にあるコンビニに全部あると聞いて、買い揃えて戻ると、

無駄遣いばかりを、と母は激怒した。


入院手続きなら家族が代行できる。しかし父は1人で総合受付に出向き、1度戻ってきて、駐車券の割引をしてくれるらしいと言って、母は駐車券を父に渡した。距離にすれば軽く200メートルはある廊下を父がまた1人で戻っていく。私は追いかけ、父の入院受付を見ていた。受付が終わり、薬局という小さなスペースに父は移動した。持参した持病の薬を預かると言われ、父は、すぐに取ってきますと立ち上がった。

私は父をその場に座らせ、荷物と共にいる母の元へ走り、荷物全部を持ち、走って戻った。

随分と重い荷物だがもう慣れていた。

車からあのベンチに運んだのは私だからだ。

入院患者用のカートがあることに気付き、それを回収していた方から1台借り、荷物を入れて父と戻った。

母は言った。


最初からそんなの知ってれば苦労しないのにね。


母はカートに掴まりながら近くのエレベーター前に行く。私は先回りして上のボタンを押した。

母とカート、父が乗り込み、閉めるのボタンを押す。

2階病棟に着き、私は開くのボタンを押し続けながら2人が降りるのを待ち、自分も最後にと出た。


飲食禁止のデイルームで待機となると母は喉が乾いたのか飲み物を飲み、口寂しいのか飴を舐め始めた。

そこへ担当看護師が来た。

私は用意されていない物品を買って戻り、無駄遣いをと激怒された。


手術日当日、手術前の父がデイルームに来た。父は言った。

もう少しシャツを持ってくるべきだった。

母は言った。

別に運動してるわけじゃないんだから1枚を何回も着ろ。


手術中は確かに何もすることがない。我々は待つこと以外にできるかとがあるのだが、それは家族がすべきことなので、私はしなかった。

予定時間が3時間らしいのでブラブラと院内を見て回った。

コンビニにも行った。

コーヒーの匂いに吐き気を感じながら、綿100%のシャツを見つけた。丸首とV首の半袖シャツを買い、たまたま100円、という紙袋も買い、そこに外の差し入れ的なものを入れ、無言で戻れば母は爆睡していた。かなりのいびきで呆然としたが、さすがにここではと起こし、手術患者家族専用待合室から母の気分転換の為に外に出た。

綺麗に手入れされている庭の話、こちらからは一階の外来ロビーが見下ろせる話、壁のタイルが芸術的だという話。

母はそれを全部聞いていなかった。


まだ1時間しか経ってないのか。


母は溜め息を吐き、退屈だと言って欠伸をした。



4時間が経過となると母の怒りゲージは振り切れていた。

デイルームに戻っては飴、酢昆布、煎餅を食べ、飲み物を飲む。

そんな時、持たされていた連絡用の携帯が鳴った。

私は足早に戻ろうとした。


急ぐ必要はない。


母はのんびりと歩きながらそう言った。


手術内容の経緯の説明を個室で聞いた。

腎臓は全摘ではなく大部分切除。

今後の経過で退院日が延びるかもしれないという説明。

母は質問をした。


何故4時間以上もかかったのか。


私は何も言わなかったが、執刀医のこの方が序盤にその件は説明済みだった。

前回の大腸癌の手術の影響で腹水が貯まっていたので部位特定に時間がかかった、という説明と、他。


その後5分だけ面会となったが、靴を履き替えるとかで母は面倒だと言っていた。

私はモニターを見て、父の顔色、それから説明されていた廃液を見ていた。

母は、

私が分かるか、

と父に言っていた。

父は何度も、

夢を見ていた、と繰り返すだけだった。

5分が経つ時に私は頭を下げた。痛みを訴えた父の点滴に痛み止めの薬剤を混ぜるとICU専属看護師が言ってくれたからだ。

母は既に靴を履き替えていて、

遅い、と言った。

私はトイレに行くと言って、

ナースステーションに買っておいたものを頼み、入り口の外にいた母に合流して、遅い、と二回目の怒りをぶつけられた。

兄に連絡をしていたが、返ってきたのはたった一言だった。

「お疲れ」


外に出たついでだと母は買い物をして帰ると言ったが、私は自分だけ先に帰りたい、買い物は1人でと言うだけでもう限界だった。

なら車で待っていろ、と母は途中のスーパーに車を停めた。

私はトイレだけ行くかと出向き、帰りがけに無料のお茶を機械でもらい、母にはと温かいほうじ茶を持ち車に戻った。

母はそのお茶を飲まずに駐車場に撒いて捨てた。

熱いお茶を飲む気温ではないという理由だった。


好きな漫画の話、共通の話題をしたその後、母は全然聞いていなかった。ゴルフ友達とのグループLINEに夢中だった。

私はもうその漫画の話をする必要がなくなった。


その日の昼に、母はその漫画の続きはどうなったかと聞いてきた。

私はもう読んでいないと答えた。

母は文句たらたらで聞いていたくなかった。

そして、代行で買ってくれとある服の話をしてきた。

ゲストとして買えばいいと私は断った。

あんたは本当に訳の分からない頭をしているから理解に苦しむ、

と母は言った。


最後の会話は一文。


そんなに嫌なら前みたいに出ていけばいい。


私は無理だ。

もう無理だ。

働くことも出来ない。

それ以上に理不尽な思いをするだけの関係性を宿命とする自分の生き様に心が折れた。


ありのままに生きるという母はありのままにその本質で生きていて、言葉も行動もまさに、ありのままだ。


ありのままに、

という歌がある、素晴らしい歌だと聞かせた時も、

母は、つまんない曲だと言って途中でトイレに立った。

タイトルが母の信条と同じなのだが、ならば母の信条も、つまらない思想として私は片付けた。


生まれたことに酷く後悔をした。

私を生んだという母に酷く敵意を抱いた。

父がいたから私は生まれた。

だから余計に父すらも敵にしか見えなくなった。

お疲れ、の一言だけで済ませてしまう兄にも悲しくなった。

そして、何もしてこない弟にはもう何も感じなくなった。


生まれ、育てられ、希望した道に進ませた親に無関心はあまりよくない。だが、

私が一番愚かだと痛感した。


何故精神科なんかに行ったんだ。


私は死んだらいけないと思ったからこそ、何度も何度も引き返していただけの精神科クリニックに出向いた。親より先に死ぬのは駄目だと考えた。今まで苦労を掛けた分、何とか負担させた金だけでも返した後で死ねばいい。


昔、バファリンを一気に1箱飲んだ時がある。

数日、私は聴覚を失った。


優しかった仲間が、自殺を謀り、電信柱に車で突っ込んだ。単独事故で片付けられたその仲間の死は私に教えていた。

誰かを巻き添えにして死んだらそれは自殺と呼べない。


私は教科書を2階から捨てた。大切に扱っていた指定の鞄も放り投げた。母方の祖母から贈られた赤いランドセルも、足で踏み潰し、切り刻み、庭にと放り投げた。


何て私は愚かだろうか。


譲り受けた母子手帳も切り刻み、燃えるゴミの日に出した。

12歳になったあなたへ、という母からの手紙も破り捨てゴミにした。


しかし、戸籍だけはどうにもならなかった。


私は憎いと思った。

命を得てしまった自分の運命を憎み、呪い、

やり場のない後悔まで、

記憶から抹消とした。