南漢山城の巨大な城郭は、京畿道広州市と城南市、河南市をまたがり、長い歴史を持っています。
南漢山城は三国時代から存在し、特に朝鮮時代に現在の姿に再建されました。
ここは百済が首都を移転したことで重要な戦略的位置を占め、その歴史は朝鮮時代の文献によく知られています。
一方、百済の影響力が深いこの場所は、新羅時代には晝長城として建て直されました。
晝長城は唐の侵入を防ぐための防御線とされ、唐との戦争から国を守るための山城としての役割を担いました。
そして文禄·慶長の役の際にも南漢山城は重要な戦場として機能を果たしたのです。
1637年丙子胡亂によって清の侵入を受け仁祖は南漢山城に立てこもりましたが、砲台による激しい攻撃を受けて降参したのです。
歴史の流れは常に変化します。 南漢山城は軍事的重要性を失い、退廃しました。
特に外敵の侵入と自然災害により、多くの建物や遺跡が焼失してしまったのです。
1975年に始まった復元作業によって、南漢山城を再び世界に披露するになりました。