母の三回忌 ~親の心子知らず~ | 地球のかけら☆

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2014年3月、EOS-M(ミラーレス一眼レフ)デビューしました❤
EOS-M(現在はM3)との、お写ん歩日記です。



※本日、シモのお話が入っておりますので、お食後の方、ご興味のない方は、どうか本記事スルーしてくださいませm(u_u)m


ようつべカスタマイザ



わが家は、コーラン・聖書・各種仏典が絵本代わりの家で(変態の匂いがするでしょ…にへ

文化水準は それほど低くはなかったと思うのですが、

ホームレス中学生もびっくりなド貧乏でしたヽ(;´ω`)ノ



<あぁ!子どもの頃のことなら、ネタがつきない…:*:・( ̄∀ ̄)・:*:>


小学校の低学年の頃は、



「うわ~、この家、誰か住んでるのかなぁ?」



「・・・( ̄Д ̄)・・・わたしんちだけど?」



「・・・ぇぇぇ・・・あせる


こんなやりとりを、何回かしましたが、見慣れたクラスメートは、そのうち、な~んにも言わなくなりました( ̄▽ ̄)。



そんなド貧乏だったのに、母の町内での権力はなかなかなものでしたがーん



↑もちろん、ここは我が家ではありません。すっぴんで、町内会長さんちで熱弁?


いろんな相談事が母に持ち込まれていたようですが、一度、女房子供(わたしの幼なじみ)を泣かせた、

暴力団幹部のおじさんの顔面を、パチパチパッチン、ひっぱたいているのを見た時は、

子ども心に、「そのおじちゃんは、叩いちゃいけない人じゃないの?ぼーぜん

と((゚m゚;)思った記憶があります・・・



真っ直ぐで、短気で、情にもろく、そして何より、笑い上戸の母でした。




この時代の女性にしては珍しく、世界中を船で旅した人でもありました。




当時は国外に2万円しか持ち出してはいけない時代だったらしく(母談)、掃除婦をしたり、

ヨーロッパではベンツの社長さんのおかかえ指圧師をしたりして生活していたらしく、

生活力と生命力の塊のような人でした。

おそらく、これは、母の特徴ではなく、この時代の人たちの特徴でもあったのだろうと思います。




余談ですが、そんな母、写真家を名乗っていた時期もありました。おいおい┐( ̄ヘ ̄)┌







「違う違う!お気に入りはそれじゃない!」と聴こえて来そうなので、この辺でやめます・・・(;´▽`A``


写真は、アサヒグラフが買ってくれたと言い張っておりましたが、うちにあるのは、この1冊だけ・・・



一応、母の旧姓が載っておりますが、この時代のカメラマン、名乗ったもん勝ちのようです…(≧▽≦)



ところで・・・



被写体選びの変態さは、遺伝しないでしょうか(´・ω・`)。大丈夫でしょうか(_ _。)。





さて、は、本当にポックリと旅立ってしまったのですが、

母は長い長い闘病生活に耐えることとなりました。


母の病気が分かったのは、わたしが東京で学生をしていた時でした。

父と結婚して北海道に移り住んだ母ですが、元々は東京の人だったので、こちらに来て、娘と自宅療養したいということで、

北海道から東京に移ってまいりました。

今思えば、東京に帰って来たかったのでも、町内の(敵対勢力の?)人たちに「弱った姿を見られたくない」わけでもなく、

へっぽこ娘がバイトと奨学金で、なんとか掴みかけていた未来をおもんばかったのだろうと思います。



母の病気は脳の病気でしたので、いつにも増してイライラしやすく、

お膳はひっくり返すわ、テーブルは倒すわで





昭和の漫画かえ!!!ヾ(。`Д´。)ノ

という有様でしたが、寝る前に、仕事のこと、ゼミのこと、オモシロおかしく話すと、

笑い上戸の母のこと、ケラケラと面白いくらい良く笑うのでした・・・ヤッホー


笑うと、どういうわけか、便意をもよおすらしく、自力での排泄が無理なので、わたしと一緒に頑張るわけですが(笑)

なぜか、この時、ほとんど必ず母が言うのが

「kor、デートしなさい」





状況が状況なので、わたしが吹き出すと(≧▽≦)、母もつられて笑いだし、

笑うと面白いようにプリンっと、出てくるのですうんち失礼


今思えば、この「デートしなさい」も、

夜に出歩けない娘の花盛り(?)を気にかけていたのでしょうが(誰よ!今、咲いてないって言ったの!( ̄^ ̄)

最初で最後(?)・・・だったかもしれない・・・恋愛も、

「おっかさん付きでいいよ」と言ってもらえるほど、愛される魅力が くまともには無くがーん

これが、わたしの一番大きな親不孝だったと思います。


恋をしていたことも、終わったことも、母は知りませんでしたが、例え、終わる恋だとしても、

そんな瞬間もあったこと、話してあげたら良かったのかもしれないと、今も迷うのですリラックマ





一方、母が飛び上がって喜んだのが、療養生活3年目、

わたしが年に1回の海外バックパッカー旅行を再開しようかなとつぶやいた時でした飛行機


旅の大先輩の母ですから、わたし以上にワクワクしている様子でしたが、

それも、今思えば、海外旅行の土産話が楽しみな訳でもなく、

準備の様子を見るのが楽しい訳でもなく、母親として、娘の自由が嬉しかったのかもしれません。





再発と手術を繰り返しながら、自宅療養は無理とDrに言われ続けましたが、

ヘルパーのナカジマさんキラキラの力も借りて、母は8年も自宅でがんばりましたにっこり



ナカジマさんの登場から、本題に入りたいと思いますが、あまりにも長くなってしまったので、

続きは明日にしようと思います・・・土下座本題なのに!!!

ごめんなさ~~い(。>0<。)!!!


長い文章、終わりまでお付合いくださいました皆様、
本当にありがとうございます!


明日の、本題の『笑う門には福』が来た!というお話をもちまして、母の三回忌の記事としたいと思いますかお