【215話】 ついに明かされた七海麻美の過去
ある日、キツネはお腹を空かせていた。すると頭上に熟した葡萄がたわわに実っているのを見つけた。甘くてうまそうだ。
キツネは身体を起こし、手を伸ばしたのだが、甘そうな葡萄ははるか上の方にあって届かない。勢いをつけ飛び跳ねてみるが、やはり届かない。
キツネは葡萄の木に尻尾を向けると、こう叫んだ。
「あんな葡萄、どうせ酸っぱいに決まってる。最初から食うつもりなんてなかったんだ」
(おしまい)
はいどーも!甲楽わんです。かのかり楽しんでますか?この話は、イソップ物語の「狐と葡萄」ですね。英語では負け惜しみのことを「酸っぱい葡萄」(sour grape)と言うらしいです。
ついに明かされた麻美ちゃんの過去。それを知って、このお話を思い出しました。他にも、スラムダンクの三井寿も思い出しましたね。バスケなんてただの部活動じゃねーか!安西先生、バスケがしたいです…。
人はどうしても欲しいもの手に入らないとき、それを価値のないものと言ってしまうことがあります。そうやって、傷ついた自分の心を守ろうとするのです。麻美にとって「恋」とは、まさに手に入らない「甘い葡萄」。本当は欲しいからこそ、あんなもの酸っぱいに決まっていると言ってしまうんです。
本当は恋をしたい、でも恋することは許されない。麻美はそういう状況が辛くて仕方なく、「太郎君との時間は恋ではなく反抗期だったんだ」「恋なんて下らないものなんだ」と思い込むことで壊れそうな自分の心を守っている。
だからと言って、本心でそう思えているわけではない。恋人からの愛情を他の何かで埋められるはずもなく、麻美の心は「恋」を求めてしまう。
◆どいつもこいつも 「恋人ごっこ」してんじゃねねぇよって 215話
どいつもこいつも 「恋人ごっこ」してんじゃねぇよって
「甘い葡萄」を美味しいと言う人を見ると、その葡萄を奪ってしまいたくなる。あんなもの、酸っぱくて不味いものなんだと馬鹿にしたくなる。
麻美の過去回は比喩表現が多く、丁寧に読み解く必要があります。また彼女の置かれている状況や出来事から、言葉の裏にある麻美の本心を捉える必要があります。
今回は麻美の過去を丁寧に整理して、どうして彼女はあのような歪んだ思い込みしてしまったのか話して行きます。
明かされた麻美の過去 絶望と孤独の物語
麻美はとても厳格な家庭に生まれた。「品格は教育から」。その言葉の元、父親の狭い価値観にそぐわないものは全て排除されてしまった。
大切にしていたクマのぬいぐるみ ベア太
男女間の交流
思い出の写真
お気に入りの本
父の価値基準というオーディションを落選したすべてのものは、無理やり奪われた。
当時の麻美にとっては、それは日常であり普通の事だった。だから何か疑問や不満があるわけではなかった。
しかし、身体の成長とともに麻美の心の中に「自由への灯」が灯る。初めて、この『支配という鳥籠』から大空へと羽ばたきたいと願ったのだ。
…う うん…
太郎君は、誠実で、明るく、家族思いの優しい人だった。ソシャゲの話で盛り上がり、3週間後には付き合い始めた。
太郎君は進学校へは進学しない。きっと父は麻美の相手として認めることはないだろう。そもそも男の子と付き合うことすら認めてもらえないだろう。そんな不安を抱えながらも、有り体なその「恋」は麻美にとっては新鮮で刺激的で楽しいものだった。
立派になって!
お父さんも説得して!
絶対に幸せにするから!
そう言って太郎君は大空への自由を約束してくれた。
やがて麻美は、親の支配から抜け出し、太郎君と2人の未来を想い描くようになる。
麻美は鏡の前に立ち、自分の身体を見つめ、お腹をぎゅっと抑えた。このとき、彼女の身体の中に本当に赤ん坊が宿っていたのか、それとも太郎君とその可能性が生まれる行為をしたのか、単に子供を身ごもることだってできるんだと自覚したのか、それは分からない。
「人生初の光り輝く脱線行為」の指すものが、妊娠なのか、性行為なのか、単なる恋なのかは判断できない。それでも、太郎くんへの恋心、自由への憧れは麻美の中で大きくなっていたのだ。麻美は太郎君との未来を手に入れたいと願っていた。
幼いころから親に敷かれたレールに乗るだけの人生を歩んできた麻美にとって、太郎君との恋は「革命」だった。15年の暗闇の中でわずかに光る、この先「自由な自分」を勝ち得るかもしれない、「希望の灯」。この恋を守り続ければ、大空へと羽ばたけると信じていた。
しかし、
太郎と別れろって…!
人の人生 まじ 何だと思ってんの!?
希望の灯は、父親によって簡単に消されてしまう。父親は、決して麻美の恋を許しはしなかったのだ。
ごめん 他に好きな人が出来た 別れよう
太郎君からそうメッセージが届く。絶対幸せにすると言ってくれた彼の言葉は、嘘だった。
部屋でひとり泣きむせぶ麻美。麻美の傍にいて抱きしめてくれる人は誰もいない。その瞬間、彼女の中に生まれた「希望の灯」は、育ち始めたばかりの「小さな赤ちゃん」は消えてしまった。
親の圧力があったとはいえ太郎君に裏切られた麻美は、おとなしく父の言うことを聞くしかなかった。人は長いものに巻かれるのだ。そこに愛や情熱は関係なく、抗えぬ環境とその自分の無力さに打ちひしがれ、膝を折るようにして人生を選択していくのだ。麻美に突き付けられた現実は、彼女を絶望の淵へと陥れるのに十分だった。もう麻美は、一生「恋」をすることを許されず、誰にも愛されることはないだろう。
太郎君に裏切られ、親に突き放された麻美が、大空へ羽ばたく勇気など持てるはずもなかった。私の自由だと言って父親に反抗したものの、自分が無力だと分ると結局は親の言いなりになったのだ。親に反抗してまで得たいとは思えなかった。麻美は、太郎くんとの恋は大して大切なものではなかったと感じ絶望する。
特大のブーメラン。父への反抗は、与えられた環境に抗えないという絶望と、あの恋心はさほど大切なものでもなかったんだという歪んだ認識を麻美に突き付けただけだった。
麻美は、太郎君との時間が「恋」だったのかすら、分からなくなっていった。
それには「恋」よりずっと分かりやすく
「反抗期」という名前があった
一度は彼と一緒に生きたいとすら願ったのに、思い返してみれば、あれは「恋」と呼ぶものでもないのかもしれない。きっと、親の庇護を疎ましく思う、幼稚な子供の「自立本能」。恋ではなく、「反抗期」だった。
そもそも 「恋」だの「愛」だのなんて言葉も
飲み会で盛り上がる為の 後付けのラベリングにしか思えなかった
麻美は家族から物のように支配され、ずっと「愛」を知らずに生きてきた。太郎君に裏切られ、恋心さえ信じられなくなってしまった。そんな彼女の目には、そもそも「恋」だの「愛」だのなんて言葉すら、飲み会で盛り上がるための、後付けのラベリングにしか見えなかった。「他人の為」は全て偽善で、「自分だけ」というエゴと同じだ。今の麻美には、「恋」も「愛」も実態のないただの幻想にしか思えなくなっていたのだ。
だから、恋だの愛だの言って騒いでいる二人を見ると、どうしても壊したくなってしまう。
どいつもこいつも 「恋人ごっこ」してんじゃねぇよって
「恋」も「愛」も存在しないんだと、言いたくなるのだ。
酸っぱい葡萄
ここで話すことは少し理屈っぽくなりますが、着いてきてもらえると助かります。
イソップ物語「狐と葡萄」は、心理学で「認知的不協和」という心理状態の例として挙げられます。
認知的不協和とは、2つの異なる矛盾する認知がある状態です。
「キツネとブドウ」の物語でいえば、
(認知①)甘い葡萄が食べたい
(認知②)けれど手が届かなくて食べられない
という状態です。この2つは互いに矛盾しています。こういう状況になると、人は苛立ったり不安になったりネガティブな感情が生まれます。「クッソ!ブドウに手が届かない!なんでだよ!」ってね。
自分の生活を振り返ってみましょう。「タバコを止めたい けれど止められない」、「彼のことが好きなのに 振られてしまった」、「痩せたいのに 食欲が抑えられない」などなど。私たちの生活の中に、2つの矛盾する認知はたくさん見つけられます。
ヒトは2つの矛盾する認知を持ってしまったとき(つまり認知的不協和に陥ったとき)、その苦しみを低減したり解消したりするために、無理やり認知を変更しようとします。それが認知的不協和の解消ですね。
キツネで言えば、「くっそ!葡萄に手が届かない!なんでだよ!」という苛立ちを、認知を変化させることで解消しようとするわけです。キツネは「手が届かなくて食べられない(認知②)」を変えられません。キツネには道具を使ったり他人に頼ったりするなんて知恵や考えはないのですから。なら「甘い葡萄が食べたい(認知①)」を変えるしかありません。だから「あんな葡萄どーせ酸っぱいに決まってる。最初から食うつもりなんてなかったんだ」と、歪んだ認知を作り上げてしまったわけです。
「タバコを止めたい けれど止められない」
タバコ吸っても長生きするやつは長生きするんだ 俺だけは大丈夫
「彼のことが好きなのに 振られてしまった」
あんな男どうでもいい 最低 もっと他にいい男がいる
「痩せたいのに 食欲が抑えられない」
夜食べなければ太らない 昼間のうちに食べれば大丈夫
私たちは、自分に都合のいい認知を作り上げて、不安や寂しさ、苛立ちを解消しようとします。それは自分の心を守るための自己防衛システム。あなたも自分の行動を振り返ってみれば、根拠のない認知を作り上げてしまったことがあるはずです。あなたはそれを「気持ちを切り替える」「ポジティブシンキング」なんて言い方をしているかもしれませんね。
キツネは、あんな葡萄は酸っぱくて不味いと思い込もうとしているんです。葡萄なんて食うやつは舌がおかしいと言うかもしれません。しかし、それはどうにもならない現実から目を背けるために、自分の本心を無理やり捻じ曲げただけです。もし自らの手でその葡萄を掴むことができていたなら、甘い甘いと言って食べたはずです。キツネは甘い葡萄が大好き。それこそが本心です。
麻美もまたキツネと同じように「恋」を失ってしまいました。その恋がもう二度と手に入らないものだと分かったとき、「恋」をしたいという本心を捻じ曲げるしかありません。太郎くんとの時間は「恋」と呼ぶほど素敵なものではなくただの反抗期だったんだ、そもそも恋なんて下らないものなんだと思い込まなければ、彼女は辛くて仕方がなかった。
◆恋なんてしないって決めてるんだから 20話
恋なんてしないって決めてるんだから
麻美は、和也に振られてしまった後、クッションを抱きしめ不安そうにこう呟きます。恋なんて幻想で、ただの遊びで、素敵なものじゃない。私は恋なんて下らないものしないって最初から決めてるんだ。そう自分に言い聞かせなければ耐えられないほど、麻美は太郎くんや和也を失ったことが辛かったわけです。
捻じ曲げられた恋と愛
少し私の話をします。
私はいわゆる教育ママに育てられました。いくつかの習いごとをさせられ、友達と遊ぶ時間を奪われるのが嫌で仕方なかった。勉強やスポーツができると褒めてくれましたが、言うことを聞かないと手を上げられました。麻美ほど強固なレールを敷かれていたわけではありません。実際にはレールなど敷かれていなかった。それでも、「優秀な自分でなければ愛してもらえない」と感じ、必死に愛情を勝ち取うとしていたと思います。親の期待に答えなければ、自分は大切にされないと本気で思っていました。
だから「無条件の愛」はただの幻想だと思っていました。自分の身を削っても他者の為になりたいという感情が存在するとは思わなかった。ありのままの自分で愛されると実感したことがなかったんです。親にとって私が都合のいい存在だから大切にしてくれるんだと感じていました。
それは大学生になっても変わりませんでした。私は「おおかみこどもの雨と雪」という映画を見て、我が子の幸せを願う母親なんて物語だけにある幻想なんだと思いました。だから麻美の語るように、「他人の為」なんて偽善も、「自分だけ」なんてエゴも等しく意味はない。結局、みんな他人の為なんて言いながら、自分のために行動してるんだと思っていました。
そもそも 「恋」だの「愛」だのなんて言葉も
飲み会で盛り上がる為の 後付けのラベリングにしか思えなかった
麻美にとって、「愛」なんてただの幻想なのでしょう。父親から支配され、自由を奪われ、ただ都合の良い娘を強要された麻美は、「愛」を実感したことないんだと思います。
太郎くんとの時間は、間違いなく「恋」です。ゲームの話で盛り上がり、一緒の時間を過ごしたいと感じ、時には分かり合えずに喧嘩もした。彼に幸せにすると言われて心から嬉しかった。これを「恋」と呼ばないのなら、この世に「恋」なんて存在しないでしょう。
しかし、麻美はそれを「恋」だと認識できなくなってしまった。
太郎君は麻美を絶対に幸せにすると言っておきながら、結局は別れようと言ってきたのです。親の圧力があったことはいえ、恋しい人に裏切られてしまった。麻美が太郎君の気持ちを信じられなくなり、愛する人を幸せにしたいという「恋心」そのものも信じられなくなっても仕方がありません。
そして、父親に恋する自由を奪われ、太郎君との時間は「恋」なんかじゃないと思わなければ、辛くて仕方がなかった。あの失恋をきっかけに、麻美の「恋」は捻じ曲げられ、ただの幻想へと変わってしまったんです。
それでも求めてしまう恋と愛
キツネは別の何かでお腹を満たし葡萄を諦めることができかもしれません。しかし、「恋」や「愛」は他の何かで埋められるものではありません。麻美は「恋」なんてただの後付けのラベリングだ(そんなものこの世界には存在しない)と言いながら、彼女の心は恋をしたいと、愛されたいと叫んでいるんです。
◆どいつもこいつも 「恋人ごっこ」してんじゃねぇよって 215話
どいつもこいつも 「恋人ごっこ」してんじゃねぇよって
それは自分が手にいられない「恋」や「愛」を他者が持っていることに対する嫉妬以外の何物でもありません。ちょうど、キツネが「どうせあの葡萄は酸っぱいに決まっている」と言うのと同じです。スラムダンクの三井寿が「バスケなんてただの部活じゃねーか。本気になってんじゃねーよ」とバスケに一生懸命になる部員たちを馬鹿にしたのと同じです。キツネは本当は葡萄が欲しくてたまらないし、三井寿はバスケがしたくてたまらないんです。
麻美が和也と付き合ったのは、恋がしたかったからだと思います(別れた理由は、父に見つかりそうになったからか、和也のことを本気で好きになってしまうのが怖かったからだと想像しています)。麻美本人は、相手なんて誰でもイイ、コレはただの遊びで死ぬまでの暇つぶしなんだと考えていたのかもしれません。それでも、一生懸命に好きだと伝えてくれる和也に彼女の心は満たされていたはずです。
海で和也の気持ちは自分から離れてしまったと実感したとき、麻美の心にはまたぽっかりと大きな穴が開いてしまった。和也の気持ちが離れれしまったことが辛くて仕方がなかった。恋なんてしないって決めてるんだと思い込まなければ耐えられないほど、寂しくて仕方がなかったんです(20話)。
麻美は、自分の手に入らない「恋」を他人が持っていることを妬んでしまっています。そもそも恋や愛なんて幻想だと言いながら、愛や恋が欲しくてたまらないんです。だから、他人がそれを持っていると言うと、苛立ってしまう。そんなもの存在しないし、下らないものなんだと言いつけてしまいたくなる。
ただし、壊してしまいたいという衝動があることと、実際に行動に移そうと思うかは、まだ別の話です。麻美の過去は今の彼女の行動全てを説明してるわけではありません。麻美は出会った恋人たちすべてに対して手あたり次第壊そうとしているわけではないのです。
どうして和也と千鶴に対してだけ恋人関係を壊してやろうと行動したのか。そこには、和也を千鶴に奪われてしまったという妬みがあるはずです(【195話】押しつけられた麻美との約束)。レンタル彼女という恋人でも何でもない存在に、和也の気持ちを奪われてしまった。本当は許されないはずなのに、嘘の恋人関係を続け、ついには本物の彼女になろうとしている。水原千鶴は、ちゃんと「恋」をして、好きな人と結婚できる。私たちは、これまで描かれてきた物語にも目を向けなければいけません。
麻美は自分は自由に恋すらできないのに、和也と千鶴が恋をしているのが羨ましい。自分は和也を失って寂しくてたまらないのに、楽しそうにレンタル関係を続ける2人が腹立たしかった。また、千鶴がレンタル彼女として間違ったことをしているのだから、この恋は壊されて当然だと自分の行動を正当化できたことも彼女の背中を押したはずです。
もう選択肢のない千鶴
最後に千鶴について少し話しますね。
◆これは自由へのチケット(終電) 214話
これは自由へのチケット(終電)
私と一緒に行くなら 「YES(受け取る)」
まだだらだらと 先延ばすなら 「NO」
麻美のレンタルに応じ一緒に和おばあさんに嘘を告白するのか、先延ばすのか。一見すると千鶴に選択肢が与えられたように見えます。しかし、実際には選択肢なんて与えられていません。もう麻美さんは和おばあさんに嘘をバラす気でいるんです。千鶴がYESと言おうがNOと言おうが、結局和おばあさんに嘘がバレてしまう結果は変わらないんです。もう将棋は詰んでしまっている。千鶴に与えられた二つの選択肢は、YESと答えて投了するのか、それともNOと答えて王将を取られるかの違いでしかありません。
これまでの千鶴の考えに従えば、和おばあさんに嘘を告白することを前提に、和也に相談するでしょう。
和おばあさんに嘘を告白したいと千鶴に相談された和也は、何を思うでしょうか。「俺が告白なんてしたんだから、水原がこの関係を終わらせなくちゃいけないと思って当然だ」と感じそうですね。和也は自分の口から、嘘を告白しようとするかもしれません。
そのとき初めて千鶴は、和也を振ってしまったという事実を突きつけられるのかもしれません。それは、和おばあさんに嘘を告白するよりもずっと辛い現実でしょう。
という感じで麻美ちゃんの過去回、215話を振り返ってみました。私はこの回で彼女の言っていることすべてが本心だとは思いません。酸っぱい葡萄の例のように、本心が見えなくなってしまうことが普通にあるんです。その中で、私なりに彼女に与えらえた状況や出来事を整理し、七海麻美の心の深い部分について話してみました。その結果、過去最高に理屈っぽくテンションの低い文章になりましたね笑。
麻美は家族から愛情を受けられず、太郎君との恋を奪われ、「恋」も「愛」も信じられなくなってしまった。それでも、「恋」と「愛」を求めずにはいられない。誰かが持っていると言うと、そんなもの存在しないんだと言いつけたくなる。麻美にとって「恋」とは、手に入らない「甘い葡」。どうせ酸っぱくて不味いに決まっていると思い込まなければ、辛くて仕方がない。麻美の孤独と絶望、嫉妬心を感じさせるエピソードでした。
では、また次の記事で