神理法は神仏同様、唯一無二です。しかし、この三次元世界に肉体をもって天上界から舞い降りてきた高級霊救世主たちが、その神理法を、当時の環境と状況に伴い、個性的に説かれたことを、それを受け継いだ者たちが、又自分たちの個性をもって伝えたが為、徐々に異なっていったのです。そして、本来、唯一無二の法だけでなく、神仏自体が分裂され、余りにも数が増加されたことで、現代の人類は、ホームページで自分の好みの商品を選ぶように、その分裂された法を、自分のご都合に合わせて選ぶようになったのです。又、自分自身の意識に合わなかったら、それを捨てて、新しい”法”を探し求めるようになっているのです。結局、自分を本当の神理法に合わせるのではなく、分裂され、異なった複数の”法”の中から、自分自身の意識を、自分自身が正当化できるものを選ぶようになっているのです。これでは、本来、この世に生まれてきた目的である魂の修行を果たすことは絶対できません。それどころか、失敗したことで、生まれてくる前の段階以下の霊界に自ら落とすことになるのです。何れにしても、選択する自由も神理法が定めているので、仕方ないことです。

 

では、この迷いの根本原因は何処にあるのでしょう。それは、「人につかず、組織につかず、法につけ」が実践されていないがためだと思っているのです。「人」とは、自分、社会、又はこの肉体をもって天上界から舞い降りた高級霊救世主たちも含めてのことです。多くの高級霊救世主たち自身も「私に帰依するでなく、法に帰依しなさい」と教えておられるのです。しかしながら、多くの宗教信者たちは各高級霊救世主を神として崇め、それを意識することで救われると信じ込んでしまっているのです。だから、高級霊仏像、又は教殿施設参りすることで、自分自身を誤魔化し続けているのです。そこから離れた瞬間、もう神仏の存在、又は神理法の実践を忘れてしまい、日常の苦難生活に戻り、その繰り返しをしているに過ぎないのです。

 

又、特に理教組織(宗教等)も、それらを結成した者たち、そして、構成する信者たちも、本来、神理法の実践を教える立場でありながら、自己保存、自我我欲に洗脳され、又、地位や名誉を意識して運営され、本来の目的から遠ざかっているのです。如何なる教殿施設(教会、お寺等)は神理法を改め、清める役割を務める場所であり、決してそこだけが神殿ではないのです。 又、如何なる理教組織も元々人間が結成したものであり、そこは主役たちの人間的個性で運営され、本来の神理法の実践から離れ、正しい人間として手本さえ示さないようになっているのです。そんな組織につき、それらの教えに従っていたら、余計に本来の神理法から迷うことになるのは当然だと思っています。

 

一方、神理法全てを完全に認識するのは不可能に近いものですが、攻めて、自分自身の元々意識(潜在意識の10%)心を精一杯発揮することです。私たち全て(悪魔も含む)は元々神の子であり、神から受け継いだDNA(心)の持ち主です。 その内なる心を精一杯発揮することで、各自の使命を果たすことが出来るのです。要するに、先ず、内なる心でもう既に意識している神理法につくことです。