飯田橋勉強会
Amebaでブログを始めよう!

【渡部】三酔人経綸問答

中江兆民(桑原武夫、島田虔次訳・校注)

三酔人(さんすいじん)経綸(けいりん)問答(もんどう)』(岩波書店、1965年初版)


酒を飲んでは、政治や天下国家を論じてやまない南海先生。そんな先生のもとに、西洋のブランデーを持ってふらりと現れた、洋学紳士と豪傑君という二人の客。自由と平等を尊び、「進化の理法」を信じてやまない洋学紳士と、「いく万とも知れぬ虎、狼の視線のもとで国をおさめてゆくものは、軍備いがいの、なにを頼みにして国を保ってゆけましょうか」と言って憚らない豪傑君の立場は、国際政治学におけるリベラリズムとリアリズムの立場にそれぞれ符合する。時局を絡めた政治問答の本書は、明治20(1887)年に出版されたが、今日にも通ずる示唆的な一冊といえる。

洋学紳士 民主平等の制度はあらゆる制度のうちで、もっとも完全、純粋なものであって、世界中のすべての国が、おそかれはやかれ、きっとこの制度を採るに違いない。ところで弱小国は、富国強兵の策はもともと望み得ないのだから、すみやかにこの完全、純粋な制度を採り、そのうえで陸海の軍備を撤廃して、諸強国の万分の一にも足りぬ腕力をすて、無形の道義に立脚し、大いに学術を振興して、自分の国を、いわばきわめて精密に彫刻された芸術作品のようなものとし、諸強国も敬愛して侵略するにしのびないようなものにしよう

豪傑君 ヨーロッパの国々は軍事競争に専心しており、ひとたび破裂すると、その禍いはアジアにまで及びそうだ。だから弱小国たる者は、このさい大英断をくだし、国中の壮丁のこらず軽装備で、武器をかつぎ、かの大国を征伐に出かけ、広大な領土を新しくひらくべきである。この大英断をくださない以上、たとえひたすら国内政治をととのえようとしてみても、改革事業を妨害する昔なつかしの元素というものはどうしても取り除かねばならないのだから、外国征服という方法はけっきょく避けるわけにゆかない

こうして基本的な立場を大きく異にする2人は、南海先生に意見を請う。

南海先生「要するに外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係をふかめ、万やむを得ないばあいになっても、あくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用を避けて、人民の肩の重荷を軽くしてやるよう尽力すること、これです」

考えたこと(一挙に世俗的になって牽強付会の感、なきにしもあらずですが)

政府・与党の首脳による「核保有論議」発言や防衛庁の「省」昇格法案、自衛隊の海外活動を「本来任務」に格上げする自衛隊法改正など、一昔前なら世論の反発を買いそうな政治課題が次々に俎上にのぼっている。憲法改正も、その例外とはいえない。しかし、日本を取り巻く東アジア情勢は、北朝鮮がミサイル連射と核実験を強行したり、中国という「潜在的脅威」が存在したりするのもまた事実である。そんななかで、日本の安全保障政策をどう考えるべきなのか(ちなみに、北朝鮮に対する姿勢を例えるなら、洋学紳士は「対話派」、豪傑君は「圧力派」、ということになる)。

【衣田】ドラッグ全面解禁論

ドラッグ全面解禁論

【今回取り上げた本】

「ドラッグ全面解禁論」ディヴィッド・ボアズ編 第三書館 1994

【内容を簡潔に言うと】

ドラッグ禁止はアメリカにおける様々な問題の原因になっている。取締りの強化ではなく、ドラッグの合法化こそが問題を解決する道である。

【もう少し詳しく内容を紹介】

≪医学面から≫

・違法ドラッグは一般に考えられているほど危険ではない。酒・タバコと比較しても安全。

・使用者を刑務所に入れるのと病院で治療するのとどちらが望ましいか自明。

・エイズの蔓延はドラッグ阻止のために注射針を入手困難にしたことから起きた。合法化でエイズ感染者の増大に歯止めをかけられる。

・非合法であるがゆえに品質が安定せず危険性が増している。合法化により競争過程や公的な品質規制による品質の向上が期待でき、人体への悪影響が減少。

≪社会・経済面から≫

・合法化でギャングの収入が減少する。

・合法化で膨大な取り締まりコストが不必要になり、他の重大犯罪に人員を割ける。

・合法化すれば価格が下がり、常習者がドラッグを求めて犯罪に走る必要性がなくなる。

・合法化すれば売人による縄張り争いのための暴力抗争がなくなる。

・合法化すれば汚職が減少。

・「金持ちになるにはドラッグの売人になることだ」という現実を突きつけられた貧困地域で、はたして健全な青少年育成が可能であろうか?

・ドラッグ売買禁止は「被害者のいない」罪である。従って証拠を見つけることが難しく、勢い捜査手法が人権侵害的(おとり捜査・盗聴・過大な没収差し押さえ)になる。

・そもそもドラッグ禁止法は生命・自由・幸福追求の自由という憲法理念に反している悪しきパターナリズムである。

≪その他≫

・麻薬撲滅を名目とした中南米諸国などへの内政干渉・軍事侵攻は許されるのか?

・禁酒法時代に何が起こったか思い出す時。

・ヨーロッパ諸国は合法化へ向けて動き始めている。

・ドラッグ禁止法の制定には南米系や中国系移民への偏見があった。酒やタバコが良くてコカインやアヘンが禁止であることに合理的な理由はなく、あくまで歴史の産物である。

【太川】フーコー入門

「フーコー入門」 1996 中山元著 (ちくま新書)

フーコー略歴

1926年、フランス西部ポワティエ市にて出生。哲学者。「主権権力」と対比される「規律訓練型権力」の徹底的な分析である『監獄の誕生』を著した後、『知への意志』において精神分析を批判する。その後、「統治性」「生政治」などの試行的な概念を次々と繰り出す。1984年、エイズにて逝去。

 眼の構造には、眼自体を見ることができないという盲点がある。それと同様に、世界を論じる上で、自己をどう捉えるかが重要である。

フーコーは20代の時期に、ホモセクシャルという自己の性的な欲望と、それを忌まわしく思う意識の葛藤に悩み、何度も自殺未遂を行っている。その差別、葛藤の中で、フーコーは「集団」と「自己」、「権力」と「知」について深く思考することになる。

 『言葉と物』(1966)では、あらゆるものを分類するという知の価値を訴える。存在する「もの」の秩序を認識するためには、「もの」の認識に先立ってひとつの知の枠組みが必要である。この知の枠組みは哲学的な理論よりもはるかに強固であり、さまざまな学問の基盤にあって、学問そのものを可能にする条件であり、しかも学問自体には不透明な前提である。そして、そのまなざしは文化的、歴史的に規定されたものである、としている。これはすなわち、あらゆる言葉それ自体が、分類される対象であり、その過程において哲学なり、文化なりが生まれてきたのである。

 『監視と処罰-監獄の誕生』(1975)では、権力について深い考察が成されている。昔からなぜ試験というものが行われ続けるか?それは、特権的な「真理の保証」のためである。試験と評価に合格した者は、〈真理〉に近づくと自ら感じるようになり、他の人々に対して自分の〈真理〉への近さを誇り、他者に対する力の威力を味わうことができる。真理と権力が収斂するこの構造は、近代の知と試験という制度の免れがたい副産物なのである。

この試験の原理を体現したのがパノプティコン(一望監視装置)。円環状に配置した建物の中心に監視塔を建て、この監視塔から周囲の建物のすべての部屋が監視できるようにした装置である。重要なのは、この装置では、中央の監視塔に監視者が常駐する必要がないこと。監視される可能性があることで、監視されるものの心の内側に、第二の監視者が生まれる。これは「権力を自動的なものとし、没個人化する」装置である。

議論したいこと

試験・名前・言葉など、既定のものの原理・歴史・隠された意図に着目することの重要性

前提を問うチカラ (これが知?)

メディア=権力であり、その匿名性は必要である・・・?

【渡部】密約-外務省機密漏洩事件

澤地久枝『密約――外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫、2006年)

本書は78年、中央公論社から出版された。以後しばらく絶版状態が続いていたが、今年8月に復刊。日米両政府の密約と、その後の外務省機密漏洩事件の背景をこと細やかに描写し、足しげく通って傍聴した裁判の足どりを正確に記した本書は、「国家機密」の厚いベールに閉ざされた欺瞞を抉り出す。

密約の不当性を裁くはずの法廷が、「情を通じた」男女のスキャンダラスな問題へと巧みにすり替えられていった過程と、情事を結んだ負い目から、“記者に怯えながら秘密書類を持ち出さざるを得なかった、哀れな被害者像”を演じきった被告人女性に対する、著者の同性としての違和感。そして、「国家機密」と「報道の自由」を真正面から鋭く問う。

事件の概要

沖縄返還協定の第4条3項によると、米国は復元補償費(未決済の返還軍用基地の原状回復費用)として400万ドル(当時のレートで約14億4000万円)を「自発的に支払う」こととされた。しかし、米国政府は議会に対し、沖縄返還にあたり対日支出しないことを確約。こうした矛盾が、沖縄返還協定交渉の懸案事項として交渉担当者を最後まで悩ませることになるものの、米国が同額を支払うように“見せかけ”、日本が肩代わりをする密約が交わされていた――。

こうした機密公電の存在がはじめて公のものとなり、政府に衝撃を与えたのは、72年3月の衆院予算委員会においてであった。横路孝弘衆院議員(当時・日本社会党)が、愛知揆一外相とロジャーズ米国務長官の会談(71年6月)の交渉経過を伝える外務省極秘公電の写しを振りかざし、会談のやりとりから密約の存在を追及。福田赳夫外相は、「米側から要望があったが、はっきり断った」と否定した。

それより前に、毎日新聞外務省記者クラブキャップの西山太吉記者は、外務審議官付けの蓮見喜久子事務官から入手した機密公電に基づき、記事を執筆していた。それでも、長年の外交記者として経験から沖縄返還の重みを意識していた西山記者は、機密公電の全文掲載に踏み切れない。そのまま掲載してしまえば、情報源が明らかになってしまう恐れもあった。そこで、第三者を通じて横路サイドに機密公電を託すことにし、受け取った同氏はそれをかざしながら委員会質疑に立つことに。が、この取り扱いが致命傷になった。外務省が電信番号を突き合わせて犯人探しが始まり、蓮見事務官が自首したためだ。そうして、公電の写しを持ち出した蓮見事務官と西山記者が翌年4月、国家公務員法違反(蓮見被告は機密漏洩容疑、西山被告は機密漏洩をそそのかした容疑)で起訴された。

「国家機密」の不当性と「報道の自由」を問う裁判は、しかし、検察側が起訴状のなかに盛り込んだ「ひそかに情を通じ」という刺激的な文言で、一挙に暗転してしまう。世間の関心が、日米両政府の密約から下世話な男女問題へと移ってしまったからだ。結局、政府の欺瞞は問われずじまいだった。

事件から30年以上も経過した現在、日本政府はこの密約の存在を否定し続けている。それでも当時、交渉実務の最高責任者だった吉野文六アメリカ局長は、その存在を認める証言をし、大きな波紋を広げている。政府の主張は、もはや足元から崩れている。

考えさせられたこと

・複雑な外交交渉の過程では、国民にただちには明かすことのできない国家機密もあってしかるべきだ。しかし、それが政府の欺瞞を示す機密であっても、守られるべき「国家機密」といえるのか。

・交渉当事者が密約の存在を認めているのに、かたくなに否定する政府。国民を30年以上も欺き続ける政府って、いったい何なのだろう。

・米国では、一定期間が経過すると外交文書は機密指定が解かれる。近年は韓国でも、歴史文書の公開に積極的だ。そうした公開制度が整っていない日本の外交史研究者は、自国の外交交渉を研究するときでさえ、外国の公文書館へ通わなければならないという。現状では「外務省のサービス」の域を出ない外交文書の公開制度を、改善する必要があるのではないか。また、政策決定者たちの間に根強く残る「秘密は死ぬまで墓場まで持っていく」という風潮は、改められるべきだ。正しい歴史を後世に残すことが美徳とされる社会であってほしいと思う(→「オーラル・ヒストリー」の試み)。

【大川】チェチェン やめられない戦争

『チェチェン やめられない戦争』 アンナ・ポリトコフスカヤ著 (NHK出版)

                                    

 

 2年前に起きた、北オセチアでの小学校占拠事件を覚えていますか。4年前のボリショイ劇場占拠事件を。それでは、知っていますか。チェチェンで今何が起こっているのか。

チェチェンで今起こっていること、それは世界中のどこでも報道されていない。(ここ数ヶ月、日本の新聞上※1でのチェチェンに関する記事は、武装グループ指導者死亡を報せるもののみ)その理由は、現地取材があまりに危険すぎるからだ。著者ポリトコフスカヤは、チェチェンで取材活動を行った数少ない記者の一人である。本書は、ロシア軍進攻下のチェチェンの状況が書かれた貴重な記録だ。

 第一章では、チェチェンの様々な地区で著者自ら体験した出来事、出会った人間の証言を中心に、戦時下の日常生活が書かれている。チェチェンでは、連邦軍による略奪と理由なき逮捕が繰り返されている。釈放、遺体と引き換えに法外な賄賂が要求される。

モスクワから連邦軍の犯罪行為調査のため捜査官が派遣された。報告資料を持った彼らの乗ったヘリは、チェチェンのグローズヌィ市上空で爆破された。爆破は「武装勢力による攻撃」と報道される。しかし、当時市内は封鎖中で連邦軍の監視下にあり、武装勢力のヘリ射撃は事実上不可能であった。翌日から、市内では見せしめのための「掃討作戦」が始まる。※2

 第二章は隣接国イングーシの前大統領へのインタビューにはじまり、チェチェン戦争をとりまくロシア人たちが登場する。ここでは、戦争がロシア社会と隣接国に与えた影響について述べられている。ロシアで英雄の勲章を与えられるのは、命を救った人間ではなく、人を殺した人間だ。また、法と検察が不当な弾圧を止めることはないし、文化人は大人しいと著者は主張する。

2001年、モスクワのチェチェン人学生たちが寮にて内務省の下部組織の部隊によって、襲撃、拷問をうける。その行為の言い訳は匿名の密告電話だが、目的は憂さ晴らし、本当の原因は学生たちの民族性にあった。※3

 第三章では、戦争が終わらない理由が、ロシア連邦・武装勢力の双方から説明されている。チェチェンの石油や、戦争で受注された商品の転売で利益を得る人々から、前国連事務総長まで話は及ぶ。遂行者全てにとって、チェチェン戦争は好都合なのだ。

   安全保障理事会では、ロシアが望まないことを採択できない。チェチェンでの国連による平和維持活動は有り得ない。この行き詰まりを打開できる国連事務総長は? 二期目の椅子に座るためのロシアの後押しを失わないことが、チェチェンの苦しみ打開よりも大切だった。※4

 全編を通して、著者の視点の多くは個人証言を通したものである。その語り口は、公然と進行中の不条理への問いを真っ向からぶつける。それは、時に感情的で挑発的にさえ響く。しかし、本書で示されているのはプーチン政権の政策批判というよりも、チェチェンの現実の目撃者である人間としての率直な怒りと哀しみである。

 著者は、今月7日モスクワの自宅アパートエレベーター内にて射殺体で見つかった。この事件は、日本でもロシアでの言論の自由危機を象徴する事件として取り上げられた。けれども、ポリトコフスカヤの死は花で飾って終わりにしてはならない。必要なのは、彼女が命の危険と引き換えにでも、伝えたかったことは何かを知ることではないか。

 また、読者に絶えず突き付けられる問いがある。チェチェンで何が起きているか、分かったところで、自分になにができるのかということ。本書内では、決してその場限りの希望も、短絡的な結論付けも行われていない。どのようにしたらこの惨状を終わらせることができるのか、という方法も用意されていない。あとがきに至るまで、希望の見えない閉塞感に覆われている。けれども、自らの無力さの認識は、チェチェンの状況に無知なままでよい理由にはならない。

この本の証言の語り手たちの多くは生きていないであろうし、自ら語る日が訪れる可能性も少ない。それでも、チェチェンの現状を伝え続けていくだけが、著者にできることだったのだ。それはなんと先の見えない、けれども大きな仕事だろうか。

『チェチェン やめられない戦争』 アンナ・ポリトコフスカヤ著 

NHK出版 (2004年第1刷発行)

第一章 戦時下のチェチェン 一般市民の生活

第二章 ロシアの現実 この戦争の背後にあるもの

第三章 この戦争は誰にとって必要なのか?

著者:モスクワの新聞ノーヴァヤ・ガゼータ評論員。2002年、モスクワ劇場占拠事件では仲介役の指名を武装グループからうける。20049月の北オセチア小学校占拠事件で、現地に向かう途中機内で毒を盛られ、一時重体に。今月7日、モスクワにて射殺体で発見された。

※1 朝日新聞、日経新聞より

※2 本書 82頁‐87頁のエピソードから

※3 本書 196頁‐204

※4 本書 299頁‐301

【太川】歴史とは何か

「歴史とは何か」 [1962.03]

Edward H. Carr 著  清水幾太郎 訳 (岩波新書)

 「歴史は現在と過去の対話である」。

 このコトバは、歴史を語る論文への引用頻度が非常に高い。このコトバに代表されるように、この現代歴史学の「古典」は、歴史を事実と見るのではなく、「解釈」の集合という新たな言説を打ち出した。そこには、事実のみが存在するのではなく「判断」が多分に含まれており、その「主観性」が入り込んでいることを歴史家は慎重に受け止め、それとともにその「主観性」がどこに含まれているのか(つまり著者がどのような歴史観や考え方をしているのか)を見極めなければならないとする、現代歴史学の立場を表明した。

Geoffrey Barracloughも、「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるけれども、厳密に言うと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められている幾つかの判断である。」と語っている。

 歴史家はその個人の属する集団、国家などの影響を受けざるをえず、歴史家自身が歴史の産物である以上、個人のフィルターを通すことでしか、社会を判断できないのである。ではそこで、科学とは何か、歴史学は科学たり得るかという疑問が湧く。自然科学は一般的なものを取り扱うのに対して、社会科学は特殊的なものを取り扱うところに大きな違いがあると言われる。確かに、歴史は全く同じ背景で同じ出来事が起こることはない。自然科学のように、同じ条件での再現性など検証しようがない。これに対して、カーは歴史学の使命を以下のように謳う。「驚くほど似た事件が異なった歴史的環境のうちに起こる場合、そこから全く似ても似つかぬ結果が生まれてくる。ひとつひとつの事件の発展を別々に研究し、その上でこれらを比較すれば、この現象を理解する鍵が容易に見出される。このような歴史的社会を研究するものであり、歴史家は決して裁判官になってはならないのである」。

 歴史が客観性を持つためには、ふたつの要件を満たす必要がある。第一に、その歴史家が、社会と歴史とのうちに置かれた自分自身の状況から来る狭い見方を乗り越える能力(完全な客観性が不可能であることを認識する能力)を持っていること。第二に、その歴史家が、自分の見方を未来に投げ入れてみて、そこから、過去に対して深さも永続性も優っている洞察を獲得するという能力を持っていることである。

感想・議論したいこと

■富田メモや、読売の戦争総括特集など、後世の人間(とりわけジャーナリスト)が「過去」に対してできることとは・・・。 現代的な解釈? 新たな議題(判断軸)の提示?

■歴史問題が大きな政治問題となっている現代で、その歴史認識の違いを克服する活動がドイツフランス間で活発である。日本では・・・?

【小森】日本経済新聞は信用できるか

東谷暁『日本経済新聞は信用できるか』PHP研究所、2004。 ¥1470

エコノミストたちの言説を検証した『エコノミストは信用できるか』の著者。前著では「巨大な経済マスコミがエコノミストの発言を大きく左右する」ことを明らかにしたが、その経済マスコミがどのような「世論」を形成してきたかについては十分に検証できなかった。「エコノミストは経済マスコミに頼まれて書いているだけ」との反論もあったという。そこで巨大経済メディアである日本経済新聞が展開してきた論調を検証。

======================

「バブル」「日本的経営」「グローバル・スタンダード」「成果主義」「IT革命」「構造改革」「中国経済」など、これまで日経が積極的に「煽ってきた」テーマの記事・キャンペーン・社説を検証。主張の首尾一貫性や傾向や妥当性について検証。

<検証の結果浮かび上がった姿>

●手のひらを返す、主張の一貫性のなさ。“節操なき情報商社”。

→政府の金融政策や構造改革、経済外交などについて、始める際には賞賛しておきながら、

 政策が失敗に終わると掌を返したように批判。「前政権の政策は間違いではなかったが失敗だった」。

 かつて自社の社説が逆の意見を主張していたことにはもちろん触れない。

→驚異的な経済成長を実現させた日本的経営を当初は過大評価し称賛。しかし、バブル崩壊を経てからは、煽ったことへの反省なく日本型の否定・バッシング。

Cf)「もし、日経人気質というものがあるとすれば、それは、時世時節のそのときどきに一斉を風靡しているファッションやオピニオンにながされないこと、いや流されまいとする気概だと思っていただきたい」(『日経新聞社のすごさ』より)

●世界(アメリカ)は進んでいて日本は遅れている。だから見習うべしとの姿勢。

→背景は、バブル崩壊後の自信喪失からくる「日本は遅れている」意識と、米国や中国への過信。

→アメリカンスタンダード=世界標準を煽り、日本的経営からアメリカ型コーポレートガバナンスへと喧伝。金融ビッグバン、時価主義、成果主義など米の受け売り。

→しかし、エンロン事件やワールドコムの事件により、これまで報道してきたアメリカ型コーポレートガバナンスの実態は全く違った問題も含むものと判明。

 「取締役会とエグゼクティブを分けるやり方は,CEOが取締役会の議長を務めるという,いわば経営者と監視者との併任が許されていたのでほとんどチェックの

 機能など果たさなかった。驚くべきことにアメリカの上場企業の八割が併任だったのである」

→消費者にとってよいことは日本にとってもよい、アメリカが望むことは日本の消費者も望む、だからアメリカが望むことは日本にとってもよいとの論理でブームを煽る。

●マッチポンプ式の無節操な煽りが多い。

→IT革命への過度の煽り。それを忘れた社説。(アメリカ調査会社情報を鵜呑みに垂れ流し。ITが即座に生産性をあげるとの思いこみ。「日本の飛躍はIT革命次第」)

→中国ヘの熱狂(見切り発車の中国進出キャンペーン。「やがて中国経済が日本を飲み込む」式の過剰報道。)

<指摘のまとめと課題>

・独自見解を持っていない

→「日本経済新聞はほとんど独自の見解をもっていないだけでなく、そのとき流行のテーマを煽っているだけに過ぎないのではないか」

グローバルスタンダードだと言ってはアメリカ的経営を検証もなしにベタ褒めし、IT革命だ、時代は中国だと言っては多くのビジネスマンを煽って世論形成。時代を読み間違えた点よりも、プロの自覚の欠如が問題か。

・ブームのもつ脆弱製や矛盾に関して冷静で十分な分析や報道がない

→「さまざまな「ブーム」について日本経済新聞は新しい意味を見出そうとし、これでもかと思えるほどの分量のリポートを掲載して読者の関心を引き付け、 その反面、「ブーム」が孕む脆弱性や矛盾にかんしては、十分にリポートし分析してきたとはいえない」

・アメリカないし世界標準への盲従姿勢

→「日本経済新聞社の各紙が「アメリカ」あるいは「世界」を模範として何かを論じ始めたら、いちおう疑ってみるべき」

・自省が甘い。言いっぱなし体質。

→「この『犯意なき過ち』は、<犯意がなかったから過ちが許されるというのでは、バブルの教訓は生かされない>などと健気なことをいっているが、実は「朝日新聞や読売新聞や毎日新聞も日本経済新聞と同じだった」「あなたたちだって、私たちと同じだった」と繰り返し述べることで、読者を日本経済新聞と同じレベルに置き、「だから、仕方がなかったのですよ」と癒してくれる。本書は実は「経済癒し本」なのだ。と同時に、日本経済新聞を<だれもが>や<だれにも>の「だれ」と同じレベルに立たせることで、かつての誤った報道の責任を問う姿勢は曖昧になり、いつのまにか拡散してしまう。ほかでもない日本経済新聞が奇妙なのが、こうした最も重大な経済マスコミとしての責任問題に触れることなく「みんなが」とか「ほとんどの人が」と述べて一般大衆と自らを同じ平面に置き、経済報道を専門としていたはずの自社の責任を何食わぬ顔をして回避してしまっていることなのである」。

→検証バブルと言いながら他人の検証ばかり。他人を検証する前に、他人に検証される前に、自己を検証する必要性。

・これらを背景にした、不正確な観測記事と誘導的な記事に注意。

※日経はおかしくなっていったのは、社説と編集委員との葛藤と協調の結果。

<これからに向けて>

・日経分割案。

・競わせる。ライバル社育成。(日経に代わる経済情報媒体がない独占状態。読まざるを得ない。)反省しない?

・現実的には厳しい。複数の情報源の読み比べ。

・良識を持った報道を。

<付記>

・経済予想・社会分析の難解さ。(ギャンブル的?)正確さに関しては当たりはずれがあること自体は当然。100%の正しさなど存在しない(本書は事後分析であり後知恵)。

・その前提の上で、絶え間ない自己検証と冷静な分析を行いつつ、独自のカラーと軸失わずに弱気になりすぎず報道。(景気よく書いてもいい?) 

・臨機応変さ、柔軟さと軸とのバランス。

cf)「日本の新聞には、昔からオピニオンが多すぎる。新聞のオピニオンは歴史的に見ても、社会を善導してきたとは言えない・・・特ダネよりは切り抜き記事、オピニオンよりはデータ」(『日経新聞社のすごさ』より)

・日経だけの問題にあらず。多かれ少なかれ、どのマスメディアにも共通する問題。しかし、経済オピニオンリーダーとして責任は大きい。

・読者の問題。リテラシー向上。自分の価値基準で冷静に批判的に読み解き、判断できる知識、判断力。

【幹本】文藝春秋 八月号

文藝春秋 八月号

◆「8・15小泉靖国参拝」上坂冬子連続対談

上坂冬子:日本のノンフィクション作家。初期には婦人問題に関する評論を手がけたが、昨今は昭和史・戦後史にまつわるノンフィクションが多い。靖国問題など保守系論壇誌における発言も活発。保守的な論陣を張ることが多い。福田官房長官時代に私的諮問機関「追悼・平和記念のための記念碑等施設のあり方を考える懇親会」委員を務めた。

VS加藤紘一(衆議院委員)「中国と靖国、どっちがおかしい」

「次の首相は靖国に行かない人を」。平成13年小泉首相初参拝8月13日を提言した。

「被害者・加害者としての戦争責任を分けて考えるべき」戦死者と戦犯の区別の必要性。

VS古賀誠(衆議院委員・日本遺族会会長)「遺族会会長、なぜA級戦犯分祀を」

遺族会の従来姿勢は「分祀に触れない」「靖国神社が判断すべき」だった。しかし5月、A級戦犯の分祀を求めるよう提言。

「心の中で分祀ができていれば問題ない」。追悼施設建設については大反対。

「靖国を国家護持せよ」。神社の形式を変え、特定の宗教枠をはずし、国家による管理を。

VS湯澤貞(靖国神社前宮司)「前宮司に問う、靖国神社の謎」

神道に分祀の概念なし。宮司が代わろうと神社である限り分祀はありえない

◆「次の総理はどうすべきか」

福田和也:文芸評論家、慶応大学教授

靖国神社の近代史における「意味と機能」についての言及が面白い。「戦死者を祭神として合祀し、郷土、親族から切り離す靖国神社の論理は、日本人の「死の親しさ」を解体してきまう危険性がある。その緊張と矛盾のもとに靖国神社は、そして靖国を必要とする近代日本国家はたてられていることになる」

遊就館の展示などには違和感を示しつつも、靖国は戦争のための神社と断定。国軍の統帥である総理大臣の靖国参拝は「第一の義務」と結論づけている。日本は既に一種の臨戦態勢にあるとの認識か。

【議論】

・小泉首相が8月15日に靖国参拝はガチ。それについて賛成?反対?

・次期首相は参拝すべき?しないべき?

【石崎】知識人とは何か

知識人とは何か(1994 1995, 1998E.W.サイード

Representations of the Intellectual, The 1993 Reith Lectures by Edward W. Said

E.W.サイード(1935-2003) パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著、『オリエンタリズム』『文化と帝国主義』など

目次:第1章 知識人の表象  第2章 国家と伝統から離れて

3章 知的亡命-故国喪失者と周辺的存在  4章 専門家とアマチュア

5章 権力に対して真実を語る  第6章 いつも失敗する神々

米英仏の知識人のあり方(『オリエンタリズム』でも言及)

知識人はつねに政治とともにあった。

例.仏 ソルボンヌで学ばれたことが政治の実践に運用される。

英 ロンドン大東洋アフリカ研究所(SOAS) 

帝国主義・植民地主義時代に設立される。アジアやアフリカの調査や研究の成果は、帝国主義や植民地主義の正当化に利用された。さらに、SOASは大英博物館のすぐ裏にあり、大衆は植民地の成果を展示を通して知ることになった。

知識人とは誰か

 サイードははっきり知識人を定義していない。しかし、かなり広義にとらえていることは確か。この本を読んだあなたも知識人!(らしい)。

知識人の公的役割は、アウトサイダー(しかし、どこかの組織に所属しつつアウトサイダーであることは容易ではないだろう)であり、「アマチュア」であり、現状の攪乱者である。ステレオタイプや図式的な範疇を打ち破るよう努力することが、知識人のつとめとなる。知識人とは、可能なかぎり幅広い大衆にうったえかける者である。

知識人はすでに消滅した?知識人不要論?いま知識人は多すぎる?

(訳者(大橋洋一)あとがきより)

専門家、資格保持者、エキスパートがふえるという専門分化現象によって、知識人たちは全体像を見失い、仕事の円滑な推進と効率のみを重視して、現状維持を至上命令とするかにみえる。Japan as number oneのヴォーゲルも全体を見られる政治家が現代はいなくなったと苦言を呈していた。)

著者が考える望ましい知識人とは、専門的知識で重武装したエキスパートではなく、アマチュア(プロフェッショナルなジェネラリスト?)である。アマチュアはひとつの分野に呪縛されて、ひたすら何かに奉仕する専門家ではなく、各分野を自在に横断できる。

知識人にかかる圧力

日経のスクープと火炎瓶 コトバの力、こわさ、影響力、リスク・・・

知識人としての記者の役割とは?

哲学、信念、思いを持って働きたい、人生を営みたいものである。

【太川】メディア・コントロール ?正義なき民主主義と国際社会-

「メディア・コントロール –正義なき民主主義と国際社会-」 [2003.04]

Noam Chomsky著 鈴木主税 訳 (集英社新書)

内容

 民主主義社会にはふたつの「機能」がある。責任を持つ特別階級は、実行者としての昨日を果たす。公益ということを理解し、じっくり考えて計画するのだ。その一方に、とまどえる群れがいるわけだが、彼らも民主主義社会の一機能を担っている。民主主義社会における彼らの役割は、「観客」になることであって、行動に参加することではない。しかし、彼らの役割をそれだけに限るわけにもいかない。何しろ、ここは民主主義社会なのだ。そこでときどき、彼らは特別階級の誰かに指示を表明することを許される。これを選挙という。

 ケネディ政権の政策に大きな影響を及ぼしたニーバーによれば、理性は極めて限定された技能だという。これをもっている人間はごく少数であり、大半の人間は感情と衝動に突き動かされて行動している。理性をもった人間は「必要な幻想」をつくりだし、人の感情に訴える「過度の単純化」を提供して、純真な愚か者達を逸脱させないようにしなければならない。これが現代政治学の主流となった。

 全員が共生できるように、私たちはスト参加者のような破壊分子の活動を止める必要がある。企業の幹部も清掃人も、みな同じ利益を共有している。私たちは調和を保ち、ともに愛しながら、ともにアメリカニズムのために働けるはずだ。これはのちに「モホークヴァレーの公式」と呼ばれ、ストライキを鎮圧の科学的手法として、繰り返し適用され、世論を動かしてアメリカニズムのような実体の定かではない空疎な概念を指示させ、大いに効力を発揮した。誰がアメリカニズムに反対できるだろ?誰が調和に反対できるだろう?実体のないものには反対しようがないのである。必要なのは、誰も反対しようとしないスローガン、誰もが賛成するスローガンなのだ。それが何を意味しているのか、誰も知らない。

 国民を鼓舞して海外への進出を支持させることも必要、場合によっては歴史を完全に捏造することも必要になる。さまざまな社会問題の中では、とまどえる群れの注意を、何とかして別のところへそらす必要がある。ここはひとつ、敵に対する恐怖心をかきたてる必要がある。アメリカは次々に敵をつくりあげ、国内不満を外に向けてきた。ベトナム戦争、中米問題、南ア、アフガン、湾岸戦争、そして、対テロ戦争・・・。サダム・フセインは世界征服をもくろむ怪物だと、多くのアメリカ人が本気でそう信じている。この考えは、繰り返し人々の頭に刷り込まれてきた。産業基盤も持たない第三世界の小国を、世界征服を目論む悪の国家にしたてあげたのだった。

 問題は単に偽情報や湾岸危機にあるのではない。問題はそれよりもずっと奥が深い。私たちは自由な社会に住みたいのだろうか、それとも自ら好んで背負ったも同然の全体主義社会に住みたいのだろうか。とまどえる群れが社会のうごきから取り残され、望まぬ方向に導かれ、恐怖をかきたてられ、愛国的なスローガンを叫び、生命を脅かされ、自分たちを破滅から救ってくれる指導者を畏怖する一方で、知識階級がおとなしく命令に従い、求められるままスローガンを繰り返すだけの、内側から腐っていくような社会に住みたいのだろうか。

感想・議論したいこと

●「知の巨人」チョムスキーを読んだ後に残る、この感覚は??(まだ捉えきれていない・・・)

●蔓延している、実体のないものへの崇拝(ナショナリズム・ボランティア精神)からは、抜け出せ

 ない??