最期を看取るということ | 子連れホームレスからの再起・・・私の貧乏の戦い方

子連れホームレスからの再起・・・私の貧乏の戦い方

人生何が起きるかわからない、身内に翻弄されて子連れホームレスになった薄給リーマン一家の自力再生と今。

今朝の西日本新聞の『異見医見』というコーナーに

熊本の26歳の看護師さんの投稿がありました。


死を間近にした患者さんの家族に連絡を取ろうとしても、

離婚や親族との絶縁などで連絡が取れなかったり、

連絡がついてもなかなか足を運ぼうとしない人が多くなっている


のだそうです。


親しい方が手を握って死を迎えることが重要だと考えています、

しかしながら、その当たり前だと思っていたことすら

難しい世の中になっているのかも知れません


ともありました。



昔、よく年寄りが言っていた

「最期を看取れるのは親孝行だからこそ」だと。


その当時は私の母たちにお年寄りが言っていたのを聞いていて、

幼い私は、言葉の意味がわからないままでした。

親孝行と人が死ぬ瞬間に繋がりがないような気がしたからです。


今年、私は実の母の最期を看取りました。

まだ60代で、病気との戦いの末の死でした。


母とは子供の頃から折り合いが悪く、

私の早すぎる結婚はそれから逃れたいがためだったのだと思います。


それでも母の度重なる手術の時は、必ず私が付き添いをしてきました。




夫の母も9年ほど前に病気で亡くしています。

その時も義父と私、交代で付き添いました。


長くなるので、夫に出来るだけ仕事を休むことのないようにと、

当時小学校に入ったばかりの娘と息子に食事の用意だけして、

夜を子供たちだけで過ごさせたこともあります。



「今日あたり危ないので家族の方へ連絡してください!」と言われてからも


実際は何度も危ないと言われては、集まり

状態が安定しては帰る・・・の繰り返し。


そんな状態が夫の母の時は二ヶ月ほど続きました。


みんながそれぞれの生活を送りながら、

もう手の施しようがなく、その時を待つだけのために毎日病院に通うのです。


その間に小学校の運動会もあったりで、身体と心の切り替えが難しいんです。


睡眠不足になり、生活にも支障が出始め、

頑張って潜り抜けてもそのトンネルの先に希望はない。


夫の母の時は、なかなか病院に行けなかった夫、

その息子を待つようにして、夫が会社の帰りに病院に寄った僅かな間に義母は息を引き取りました。




今回、私の母の時は、私以外は誰も付き添いは居ませんでした。

遠くから、母の兄弟や甥、姪がお見舞いにたくさん駆けつけてくれたものの。


弟のお嫁さんは、入院中ほんの2回ほど、それも5分程度。

家に居ても暇なので、遊びついでに出てきました~

帰りにランチをしたり、買いものをしたりするのが楽しみなんです~ の言葉に絶句!


そんなお嫁さんに弟も精神的に疲れていたのか、

母親の姿を見たくなかったのか、亡くなるまで殆ど病院に姿を現すことはありませんでした。


私の中で、弟夫婦に対する不満がどんどん膨らみます。


私のほうが家も遠いし、子供も大事なときなのに・・・


病院から帰るときには、自分が非情な人間のような気がします。


他に誰か代わりが居ないので、母を病院にひとり残して帰るのはとても辛いものがあるんです。

毎日罪悪感を確認するために行くようなもの。



そんな日が一ヶ月ちょっと続いたある日、


「もうそろそろ帰るんやろ?」と苦しそうな息の中で母が聞いてきました。


「ううん、今日はゆっくり居れるからね」


そう伝えると深く頷き、

それからほんの1時間後、母は息を引き取りました。


危険な状態だと医師から伝えられて、20分も経っていませんでした。


手を握り、髪を撫でながら母を看取ることが出来ました。


母は私が居る時を待っていたんでしょうね。


折り合いは悪くても、母はいつも何かあると私に頼っていました。


夫も母を看取ることが出来たし、

私も自分の母親の最期を看取ることができました。



親の最期を看取れるのは親孝行



それは病院に足しげく通ってるからではなく、

1番安心できる人間がそばに居てくれるのを待ってくれているからなのかも知れません。



あんたとは色々あったけど、頼りに出来るのもあんたしかいない


そう母が言ってるような気がしました。