勘ぐり | 木端美人のブログ

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退職後、亡者に対する鎮魂が主たるテーマで、老いて木彫りをおこなっています。出かけた旅路で見つけた洞(主に樹木のウロ)に「立土筆」という小物を置き忘れて(意図的ですが)くるというものです。

「ひとかげもなし

      うでをのす

         あのかきへ」(木端美人)

とりあえず言っておきますが、盗んでいませんよ。空想です。

公安であれば、「お前盗もうと思っただろう」ということでしょっ引き、市民の脳内をまさぐり威圧し詰問の嫌がらせで、生活行動だけでなく思想信条に不当な介入を行い、徹底的に抑圧するだろう。何せ、菅総理は学術会議会員推薦に関する任命権をふりかざし、任命拒否理由を明らかにせず国民に対しての説明責任を果たしていない。その「国民への背信行為」という暴挙を、いまだに反省すら出来ない愚鈍の持ち主であるのだから、その思考の線状には忖度うごめく官僚や果ては一市民が他者を根拠なく糾弾するという輩が、次々と出現してくることは間違いない。日本における1930年代の再来は御免被りたい。言論表現の自由はもちろん思想・創造・想像の自由もなべて現コロナ禍における不安以上の脅威となって立ち現れているように思われる。

 

なお、「愚鈍」をウィキペディアで検索すると、「愚鈍の法則」の項目に次のような解説されている。私は納得している。

(下記はウィキペディアから抜粋)

「経済史学者であるカルロ・チポラは人間の愚鈍についての”The Basic Laws of Human Stupidity"のような評論で有名である。彼は愚かな人々を集団として、マフィアや工業団地のような主要な組織よりもはるかに力強い集団として捉え、それは規制や指導者、声明書がないにもかかわらず、なんとかしてきわめて効果的に、驚くべき協力のもとで作用する。

これらはチポラの五つの根本的な愚鈍の法則である。

  1. いつも、そして不可避に、私たち一人ひとりは活動している愚かな個人の数を少なく見積もっている。

  2. 与えられたある人が愚かであるという可能性は、その人に備わっている他のどの特徴からも独立している。

  3. 私益を受け取るか、更に悪いことにその過程において自分自身に損害を引き起こすことなくある人が他の人または人々のグループに損害を引き起こすならば、その人は愚かである。

  4. 愚かでない人々はいつも愚かな人々の有害な可能性を過小評価する。彼らは絶えずいつでも、どこでも、どんな状況でも、愚かな個人に対処したり、交際したりすることが常に損失の大きい間違いを構成しているということを忘れている。

  5. 愚かな人は存在する人間の中で最も危険な種類の人である。