SNSで拾った新聞の切り抜きに鎌田慧さんの「労組は民主主義の基礎」の記事が目に入った。実は一昨日は「労働組合法制定記念日」の日であった。自分の過去を顧みれば、人生の前半(1981年〜2002年にかけて/黒一点の写真は就職一年目(1977年?)の入学式後の写真)はこの民主主義の基礎を学んでいたのだということを妙に納得した。年齢にして30歳~51歳の21年間である。
大学助手の当時の教育研究環境の課題は山積。教授会のみならず学科会の出席すらできず、研究日や研究費なし、昇格制度からは排除されていた。一念発起し、現実の差別的教育研究環境に対して「自分の権利は自分で守り自分で開拓する」との意気込みで始めた労働組合活動は当初4〜5人で発足(1981年)し、私は万年書記長としての活動であった。
組合活動として保障されている団体交渉権の実質的な権利獲得の闘争は現場闘争に加えて地方労働委員会・中央労働委員会(斡旋・不当労働行為の申し立て等)闘争(1986年〜1991年)は、日夜・休日を問わぬ仕事との二足の草鞋はまさに泥まみれというに相応しい状態であった。支援組織や上部団体傘下の固い結束もあり、足掛け6年の闘いによって学科会・教授会・理事会に対する団体交渉権を実態として獲得し第一次闘争は終結した。
その権利獲得をピークとして更なる権利拡張に邁進していた過程で、私への不当な昇格人事や理事会の金銭不適切使用の問題があり、学科会主任との団交・教授会執行部との団交・理事会団交それぞれの団交拒否や不誠実団交(斡旋申請)が続く中で、理事会団交の途中で逃げ出した理事長を止めようとしてネクタイを掴んで団交からの逃亡を阻止した組合委員長の行動が、「暴力行為」にでっち上げられ、理事長は辞任した。新理事長は元広島高検検事長で、当組合との初めての団交での挨拶では、「横浜地裁検事正は僕の後輩なんですよ、挨拶に行ってきました」とうそぶき、一年近く放置されていた虚構の「暴力行為」は起訴(1997年)に持ち込まれていった。結果、地労委・裁判併せて全面和解となったのが2000年であった。組合結成直後から19年の月日は闘争三昧の後、私は秋田への新天地への赴任となった次第である。振り返ると労働三権(団結権・団体交渉権・団体行動権)こそ市民が歴史的に勝ち取った貴重で民主的な基本的人権であったと実感している。ただし権利行使には相当の覚悟が求められる。闘争を組むには支援を要請することも必要であり、個人の時間は極限まで縮小され金銭的な持ち出しも相応の出費となる。泣き言は許されず走り出したら走り続けるしかない先の見えない状態となる。実質委員長とわたし書記長の二人体制で組合を運営していたその内容は多岐にわたる。ビラの作成・配布(学内・学外)、駅頭ビラまき、立て看板制作(ベニア3枚張りを月一揮毫/4〜500メートル運ぶのが大変)、団交の議題の進行の戦略、地労委・中労委・裁判の弁護士打ち合わせ、反対尋問への対策、支援組合の闘争への支援(ピケ行為闘争では泊まり込みも)、団交参加支援要請等々。結果、家族へのしわ寄せは計り知れない。脳内は仕事である研究教育よりは組合のことを考えている時間が長かったようにも思う。
お陰様で、研究日取得、研究費取得、講師以上の職位に空きが出た場合は学内公募を行うシステムなど、制度改革が実現した。19年間に及ぶ成果である。私はなぜか二度にわたる不当な学内昇格人事によって不合格の名誉を得た。その他の助手の学内昇格人事は全て(5~6人)無事昇格したのに。闘争人生では「万年助手」という向こう傷という名誉の方がよっかったとも思っている。闘争中には上部団体及び組合事務所と当該組合員4人の自宅へのガサ入れ不当捜査(捜査員推計数40~50人)もあり、家族には大いなる迷惑ではあったに違いないと多少の反省はあるが。
若い人に伝えたいのは日本には憲法で労働基本権が保障されており、その権利は自分で行使してこそ自分にとって実体化させられる喜びは苦労あってこそのもので、附与の自由よりは獲得の自由ならではである。消耗もするが面白い人生にもなり得るということ。そういえばベア交渉は一度も行わなかった。それほど権利が抑圧されていたからだ。 ああなんたるとんでもなく充実した二倍の人生?(暇な人間の振り返り)
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