『ゴジラ-1.0』です。
ちなみに、障害者本人と付き添い2名までハンディキャップ割引という有り難い映画館でした。
1945~47年、「無」と言って差し支えない日本が「負」に陥るという物語。
破壊“神”としてのゴジラは、今回も圧倒的な存在感で。
それに抵抗する人々の、随所に散りばめられたあのセリフそのセリフが唸らせてくれました。
隣で観ていた V3 は、ゴジラの強烈な雄叫びや、あれこれの爆発音等に耳を塞いでいたりもしましたが、最後まで静かに鑑賞。
終了時には、やや放心状態。
「す、すごかったです。疲れました」と掠れた声。色々と分からないことも多かったでしょうけれども、彼女なりに「何か、ちょっと泣けた」とも言っておりました。
うむ、ヨシヨシ。
Mommy は「半ズボンを履いていた神木くんが、お父さん役だよ」なんて呟きつつも「これは映画館で観る価値がある」との御講評。
うむ、ヨシヨシ。
てか、それを言うなら、あの純(「北の国から」吉岡秀隆)くんが、ですよ。
ま、そこら辺はともかく。
Mommy と V3、これで立派なゴジラ・フリーク、とまではならなくても、次があれば、また映画館に付き合ってくれそうです。
でも、その前に、V3 にはプリキュアか何かに連れて行け、と頼まれそうですが。
こちら、お約束のパンフレット。
純くん。
そして、(無理やり書かせた)V3 の感想文。
ということで、まだの方は、是非、どうぞ。
数日前の「ふむふむ、う〜ん」な記事。
(中日新聞1/10-14面)
「一緒に過ごすことが障害児も健常児にも、育ちにプラスになる」⎯⎯は、そのとおりだと思います。
というか、だったら、双方にいろんな子がいるものを、(主に大人の都合で)障害児と健常児に分けておいて、それをまた(社会の思惑で)インクルーシブで一緒にっていうのも、何だろうなあという気分もあったりなかったり。
もともと人同士、まして子供であれば、障害とか健常とかでなく、個々に気が合う合わない、相性が良い悪いがあるだけ。
これまで、見守る大人の側が、そういった、いろんな子供、いろんな組み合わせを考えるのが面倒だっただけではないのか。
という気もします。
ただ、慣れる必要があるだけなのに。
でも、だからと言って、いつでもどこでも「インクルーシブ」が善いとか、そうでなければならない、とか考えているわけではありません。
小学校低学年までならまだしも、授業内容が難しくなってくれば、理解できる子とそうでない子が同じ時間・空間を強制されるのは、どうしたって苦痛になる場合が増えてきます。
そこは別けたって良い。
ニュースが「分かりやすさ」のために、色々と括ってしまうのは仕方ないとしても、現実では、一人一人を見ていくしかないよなあ、と思う次第です。