受付時間に合わせ、9時に南木曽会館へ行き、招待者受付けを済ませたが、招待されなくても来るつもりだった。

 

オープニングは子供達の太鼓

 

挨拶する町長

 

始まる前の休憩時間。

 

三百人ほど集まったようだ。

 

講師の小川幸司先生。

昨年三月、地元の蘇南高等学校長を早期退職して、今は飯田弥生ヶ丘高校で教師をされている。

 

 「南木曽の地でいのちを育む」

と題して話されたが、資料と連動して話されるので分かり易く、それでいて時間通りにピッタリ終えられたのは、授業で時間の中で話すことが自然にできるのだろう。

 

桃介橋の話から、これを作った電力王と称された福沢桃介へ。

次いで島崎藤村から父親の島崎正樹や妻籠本陣の当主で藤村の次兄広助、フランスに留学させた藤村の子供達と共産主義者との繋がりから、妻籠の勝野金政という人物へ。

 

勝野金政さんは「きんまさ」と名前だけで、みんなから呼び捨てにされていた。

それは軽蔑してではなく、私の親父達の年代は、この辺りでは名前の下に男でも女でも「○○」と」を付けて敬称としていた。

 

金政にサをつけると「キンマサ」と呼び辛くなるため、皆名前だけでを付けた気になっていたのだろう。

 

金政さんの息子と私は同級生なので、同級生の父親が本に書かれるほどの人物で、少しは知っていたものの、これほどまでに波乱万丈の人生を送ってきたことに驚く。

 

そして、金政さんの縁で文化人や経済人、学者達が疎開してきて、戦後いち早く民主化と最先端の文化を村人たちに伝え、日本で一番最初の「妻籠公民館」設立に繋がっていることを改めて知ることとなった。

 

妻籠公民館は昭和二十一年九月には、公民館活動で国から表彰されている。

 

公民館活動の中で演劇研究会が大きな比重を成し、活動した若者が年齢とともに妻籠の中核となり、妻籠宿の保存に繋がって行ったことを考えると、妻籠宿があるのは明治からの先人たちのおかげだということになる。

 

もし、金政さんがロシアで亡くなっていたら、今の妻籠宿は無かった。

 

藤村の姪、こま子さんとの関係についても触れられていて、二人の間に子供が出来て藤村がパリに逃げたことまでは知っていても、帰って来てからもいろいろとあったことは知らなかった。

 

地域や高校生のために、学校経営にも力を注いできた先生の思いを話されて締めくくられた。

 

閉会行事が11時半頃になされ、12時前に帰ってきた。

 

 

 午後1時過ぎに畳屋さんが来てくれて、軽トラで二回に分けて畳を積んで持って行き、久し振りに床板が見えた。

 

四畳にある昔の堀炬燵跡

 

お蚕様を飼っていた頃に使っていた暖炉

 

この中に生木を切って縦に並べ、その小口部分に熾した炭を置き、灰を被せて暖房にしていた覚えがある

 

生木なので一気に燃えず、じわじわと燃える熱で春の寒い時期にお蚕様を飼っていた。

 

中の間

 

畳をあげてお蚕様を飼った後、畳を戻す時元の位置に戻せるよう、掘り炬燵迹の板に番号を振ってある。

 

 

奥の間の床板

ゴザはデコボコしている床板の調整の為に敷いてある

 

やはり掘り炬燵迹があり‥

 

暖炉の後もある

 

中にビニール紐を持ち込んだのはネズミかな?

 

 

畳屋さんが畳を入れに来る前に、高さを揃えて直しておくつもりでいる。

 

 

 昼間のうちに採ってきたフキノトウ。

 

 今日は長女の旦那と次女の長女の誕生会。

長女夫婦に長男家族四人も来て、私の三女と併せて十一人が集まった。

 

半熟卵入りの肉巻きやら、ポテトサラダと天ぷら。

 

フキノトウ、カボチャ、レンコン、サツマイモ、チクワ、大葉の天ぷら

 

これらの料理は、妻と三女、孫の三人で作り、イモ汁は私の担当。

 

常連のTが、自分で作った貴重なヤマイモを二本持って来てくれて、二日の日と先だって一本ずつ使って芋汁を作ったら大好評だった。

 

また食べたいと言うので、買った長芋がまだあったので作った。

 

今回のはあまり減らなかったのは、ケーキを食べなければならないため。

 

 

普通のケーキと、チーズケーキを食べて、腹いっぱいでヤバイ。