畳替えを予定している。
明日畳屋さんが持ちに来るので、畳の上の物を全部片づけた。
奥の間
中の間と下の間
横の間
囲炉裏の間を掃除する妻
荷物類は廊下に出した
テレビ類も外して板の間の上に置き、畳が入ってから片付けて掃除し、戻すつもり。
テレビの横にあったテンの剥製。
テンは金色の毛皮の奇麗な動物だが、五十年位のススで真っ黒。
先だっての文化財防火デーの折、接続コードは三年から五年で換えた方が好いと聞いたので、十年以上前のテレビとDVDのコードも外して捨てる。
午後一時から「第四六回 妻籠冬季大学講座」が、町並交流センターで行われた。
講師は軽井沢の追分にある「中山道69次資料館」館長の岸本豊先生。
四国徳島県生まれの先生が、息子さんを信州大学に送り出し、その息子さんは長野県の先生になり、自分は中山道好きが高じて住まわれているのだとか。
ご自分の出されている本や浮世絵を使い、中山道の絵の構図と現在の写真を対比させたりして説明してくれた。
安藤広重や渓斎英泉の、浮世絵の絵解きや隠し絵の説明が面白かった。
以前は中仙道と書かれていたが、新井白石が「東海道に対して、山の中の道だから中山道と書くべき。」と言って統一したのだとか。
伊能忠敬の深川の自宅と野尻宿本陣の緯度が、ほぼ同じと書かれていて、現在の数字で2秒(距離にして62㍍}の誤差しかないのだそうだ。
妻籠宿の本陣で休憩をしたそうだが、幕府の御用(仕事)なので利用できたのだろう。
こうした旗を立てて測量して行ったそうだ
それから橋場に七軒あり、伊那へ行く道標の分かれ道があったことが書かれ、大妻籠が十七軒とあり、明治時代中頃の軒数からすると半減して今は十六軒しかない。
それでも、昔の軒数と同じまでに減っただけと考えれば気が楽だが、江戸時代と同じ地域力しかないということか。
下り谷立場茶屋まで測量して昼食を食べた‥とあるから、今は大崖の崩落で埋まって、現在の車道の下に昔あったという、旅籠の「滝本屋」で食べたのだろう。
雄滝雌滝は左側にあった‥というのも頷ける。
雌滝の上流の沢を左に渡ったり右に渡り、二つ三つの小さな橋を渡って行くと、一石立場茶屋が五軒あり、白木改め番所もあったと書かれているのはいたって正確。
余談だが、「馬籠峠あり。妻籠、馬籠界なり。」とあると、峠は馬籠の物という感じがするが、峠は向こう側の地名を言い慣わすので、馬籠峠は妻籠の人の呼び方で、馬籠の人は妻籠峠と呼んでいたとのこと。
我々は大平峠と呼ぶが、飯田側の人達は木曽峠と呼ぶのがその例。
3時半近くまで、好い勉強ができた。