三月十九日は、中村久子女史が亡くなられた日。
昭和四十三年(1968年)なので、丁度没後四十年。
「中村久子」といっても、知っている人はほとんどいないだろう。
明治三十年十一月二十五日、高山市の生まれで、三才の頃、病気で両手両足を失い、父親も早く亡くし、母親の厳しい躾の中、それこそ血の出るような努力で字を書くことや、裁縫編み物を覚え、十九歳で自立するため「だるま娘」という名で見世物小屋でその芸を売り、一座を率いて二十五年ほど、全国から朝鮮半島まで、興行して歩いたとか。
口にくわえたり、頬と短い手や肩に挟んだりして書いたそうだ。
書いた色紙や書を買ってもらうのも収入の一つだが、金を投げるような人には売らず、本当に欲しい人にはタダで差し上げていたのだとか。
当時も国からの支援金が障害者にはあったようだが、一切受け取らず、却って困っている人を助けたり寄付をしていたのだとか。
口で縫い物をするのだが、子供の頃は唾でベトベトになるので、あげた友達の親に捨てられたりしたが、それをバネに、工夫で唾のつかないように縫い上げるようになった。
日本にヘレン・ケラー女史が来たとき、自分で縫った着物を着せた人形を贈り、「私より不幸な人、そして私より偉大な人。」とヘレン・ケラーは語ったとか。
後年は旦那さんや娘さんに背負われ、講演活動をしていた。
高山市、国分寺境内に悲母観音像を建立。
私の祖父は人寄りが好き。
人が集まってくれるのが大好きなので、いろんな人が来ていた。
どんな縁があったかお袋も知らないので、今となっては全く分らないが、私が五歳から七歳頃、中村久子女史が二度ほど、我が家に泊まっていったことがある。
当時は我が家は百姓家で、民宿ではないから、農協の組合長をしていた祖父が、講演を聞いて招いたのかもしれない。
両足は多分10cmくらいで、両手は10cmから15cmくらいの長さしか、残っていなかったのではないか・・。
その体で奥の座敷から囲炉裏の間まで、トコトコトコと、素早く歩いてきた女史の姿を見た五歳くらいの私は、目を真ん丸くして、びっくりして固まっていた。
驚愕したのと同時に、化け物でも見るような恐怖心が出ていたのかもしれない。
そんな私の顔を見る女史の目が、悲しげだったことは今でも忘れられない。
パラリンピックが終わった。
障害者に対する認識や理解が進んだ現代でさえ、障害者が自立して生きていくことは難しい。
ましてや、無理解な時代に、手の無い手で自立の道を手探りし、脚の無い足で神仏の道をたどりながら、偏見という壁を必死で乗り越えてきた女史の生き方は、私には眩しいばかり。
もっと世の人に知って欲しい人である。