昨日の反省を・・
舞台に立つ時、どこから吟詠に入っているのか・・。
ある先生は「舞台に出て行くときから詩吟は始まっている」と言う。
それは詩中の人となるべく、作者になりきるような心構えを言うのであろうと解釈している。
作者の気持ちになった時、詩の情景が見えていなければならない。
今回、敢て視線での演技から始めたのは、目前に空洞の広がって衰えつつある桜の古木をイメージしたのだが、会場の人にその桜が見えなかったのは、まだ不完全な出来なこともあり、力不足。
木曽の大会では「一人芝居吟」として、衣装のみ一茶風にしようと思っているが、大きな舞台でやる機会があれば、山寺と桜の蕾を投影して視覚からも訴えれば、感動がより深まるような気がしている。
いずれにしても、まだ沢山の方の理解や支持を得られていない中で冒険をしたが、詩吟による表現の可能性を、少しでも広げたいという思いでいる。
私の吟詠は、最後の最後で呼吸が浅かったために、引きが短く切れてしまった。
それがために吟詠の最後が締まらなくなってしまった。
舞台の上まで、会場内の「ああ!」という悲鳴や落胆の声が聞こえてきたので、「これは駄目だ」と思った。
私は符付けの息継ぎ位置に出来るだけ忠実に吟詠したいと思っているので、補息(息継ぎ=隠し息・盗み息)を出来るだけしないように心掛けている。
もっと補息を多くすれば、今回のような尻切れトンボな吟はしなかったかもしれないが、詩吟らしい詩吟をするためには、大事なことだと思っている。
それがいつもより呼吸が浅くなったのと、息も沢山出てしまっていたのが原因で、要するに練習不足である。
時々マイクに近づきすぎる人が居て、「鼓膜が痛いような音量で吟詠したため、入賞を逃した人が居たのではないか・・」と言う会員もいたが、感度の良いマイクなので白線を踏むくらいで丁度よかった。
詠じないで、吟ずる人が見受けられた。
俳句や俳諧歌は、吟ずると強すぎるし重い。
詠ずるほうが妙味が出せると私は思っている。
大会運営は第一回なので大変だったと思う。
時間の管理も読めないのは最初の事で仕方ないが、プログラムの変更には、時間で区切るのか、番号で区切るのか、詳しい説明が欲しかった。
午後にやる予定の合吟13チームを午前中にしたので、私たち木曽の女性もトイレで着替えたり、食事後になおそうとしていた化粧を、大慌てでして間に合わせた。
(そんなに変わらないと思うが・・)
他のチームも同様だったと思われる。
地元、諏訪岳風会の担当で、毎年七月二日にこの大会が開かれるそうだが、担当会は大変だ。