著者は教科書に収録されている『羅生門』『こころ』、特に『舞姫』が教材として適切でないにもかかわらず、長期にわたって定着していることに意見しているのだが、私の興味は別のところにあった。

 小学校の成り立ちから考えても、学校制度そのものが国民の管理のためであり、当然、何の教科であれ教科書に載る内容は国の意向を反映しているものと考えていた。戦後、道徳要項が外された学習指導要領の中で、かつての修身の役割を担うとすれば、教科としては国語か道徳が、その流れを汲みやすいはずである。だから、国語の学習指導要領により、その時々で何を目指していたのかについて興味があった。しかし小学校と違い、高等教育ははるかに自由度の高いものであった。

 

漢文が知識人としての教養であるかのように考えられた明治時代初期

1890年代以降、「国語教育は愛国心を生育するの資料」として和文=古文を経て

「今文」として論説文や随筆が教科書に載るようになり、

その後小説が取り上げられるようになったのは、明治も末のことらしい。

1911年の「中学校教授要目」に明記された国語購読教材の条件は

 ①日本の国体および民族の美風を記し、国民性を発揮させるもの

 ②健全なる思想を述べ、道義的観念を涵養するもの

 ③忠良賢哲の事蹟を叙し、修養に資するもの

 ④文学的趣味に富み、心情を高雅にするもの

 ⑤日常の生活に裨益し、常識を養成するもの   とある。

1931年に「国語及漢文」から「国語漢文」に、1943年には「国民科国語」に教科名が変わっている。

戦後の教科書墨塗りを経て、学制も改革され、47年に新制中学、48年に新制高校、49年から検定教科書が使われるようになったわけだが、この当時の教科書は「言語編」と「文学編」に分かれていた。


1951年の「中学校・高等学校学習指導要領(試案)」の中に、短編小説の教材としての意義についての記述があり、読解力の養成よりも文学作品に慣れ親しむことが強調されているらしい。

「目標」として冒頭から、1.現代の文学に対する関心を深め、すぐれた作品に親しむ態度を養う 2.現代の短編小説にどういうものがあるか、またそれをいかにして読み味わいを楽しむかを知る 3.自分で良い読みものを選び出す能力を高め、良書の選択基準の向上をはかる  ということらしい。


1956年の学習指導要領改定によって、「言語文化を広く深く理解できるように、読解力を豊かにし、特に鑑賞力や批判力を伸長させること」が国語科の目標として掲げられた。


「現代国語」の名称が初めて用いられた1960年の学習指導要領では、「目的に応じて、各種の書物を選んで読み、教養を高める態度を身につけること」が、「読むこと」の冒頭にある指導内容らしい。


1970年の改定では、前回3番目にあった「主題や要旨を的確にとらえ、それについて自分の考えを深めること」が冒頭に据えられる。                        


2013年の高校の学習指導要領では、「国語」全体の目標は

「国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力を伸ばし、心情を豊かにし、言語感覚を磨き、言語文化に対する関心を深め、国語を尊重してその向上を図る態度を育てる」ことであり、必修科目「国語総合」の教材の留意事項は、「生活や人生について考えを深め、人間性を豊かにし、たくましく生きる意志を培うのに役立つこと」。さらに「現代文B]の目標は、「ものの見方、考え方を深め、進んで読書することによって、国語の向上を図り人生を豊かにする態度を育てる」ことだそうだ。


 掲げる理想は悪くない。けれど教科書を作る人間と、授業をする人間が、理想に見合う力量を持ち合わせていなかったのだろうか。教科書教材の定番化も、教員の質の低下と同じ、教育の腐敗の一端といえるだろう。採択数や合格率にこだわるのも、生徒のためである前に自分の仕事、成績のためなのだから。商業ベース、受験ベースで行われる教育は、生徒国民のためのものではない。

 教科書会社が現場の声を聞かないのは、現場よりもまず、国家の気に入られることが前提だからだろう。国がやることに市民の声を聞くことはない。民主主義を標榜する国でありながら、日本ではそれが当然のことになっている。国民のために働くはずの公務員も自らを官僚の末端であると認識しているらしく、上が決めたことに市民を従わせることが任務と心得ているらしい。彼らは国民ではなく国家のために存在し、国民は国家のために存在するのである。


 自らが受けてきた授業は主題追求に特化していたような気がする。70年改定で冒頭に置かれた文言の効力が大きいのだろうか。要するに作者は何を言いたいのか、ということに、果たしてそれに正解があったことが謎である。いつも、「こういうことを言いたいのだろう(または言わせたいのだろう)」と考えながら解答したものだが、それこそ、一定の価値観への誘導にほかならない。最近の作家の中には、自分の作品について解説されたものに対し、「へー、そうなんだー」と思ったことがあるなどといった発言もある。実際には読者がどう読もうと勝手だし、作者もそう思っていると思う。小説とはそういうものだ。だから正答など示さず、ひとりひとりの解釈を否定せず、教師が考えを深める質問を投げかけたり、生徒同士で話し合うに留めたほうが、立場・境遇・感性の違いによる異なった解釈に触れて考えを深め、己の意思を確認し、鑑賞力・批判力や言語能力を鍛えることにつながるのではないだろうか。


 確かに『舞姫』は教科書にはふさわしくないかもしれないし、巷にすぐれた題材は多く存在するだろう。

しかし教員が単元をパスしたり、授業において掲載外の図書を紹介・推薦したり、宿題として課題にすることもできることから、教科書にこだわる必要はない。道徳の授業においては、プリントが配られることも珍しくない。同じように国語教科書の定番小説は、算数セット同様、本来は不要だが営業によって大量受注が見込める商売として続いているものなのだ。

 今やすべてが経済中心に動いていることに吐き気を覚える毎日だ。