昨日、今年初めての蝉の鳴き声を聞いた。
私は蝉の鳴き声を聞くと色んな思い出が一瞬にして思い出してくる。
特に夏の季節を知らせる頃には。
昨日聞いた蝉の声を聞いた瞬間に私が18の頃を思い出した。
まだ、世間のことなんて全く知らない扱いにくい輩だった。
高校は音楽の推薦で入学し学外での門下生になり音楽漬けだった。
たけど、それから周りの説得とプロとアマの差を歴然と感じ音大を渡ってからの音楽の人生は諦めた。
そう、諦めた。このときほど音大の学費を恨んだ事はなかった。いや、自分の才能を恨んだ。
一気にクラシック音楽と専攻楽器が嫌いになり一生封印した。
それからというもの今までの人生とは全く違ったベクトルに向けたライフスタイルになった。
音楽を無くした自分があまりにも空っぽで抜け殻なことにショックを受けた。
自分を強くしたいという気持ちが強くなり、一人で生きていくことに信念を抱いていった。
幸い?男子校で寮生活だったので、運動会系な輩は沢山居た。
鍛えて食べている内に、体重は急激に20キロ増えていった。
でも、走る速さ、飛ぶ高さ、持ち上げる力は落ちるどころか右肩上がりに面白いように上昇していった。
強くなるにはどうすればいいか?これが当時の自分の全てだった。
音楽担任、門下生の師匠とは疎遠になっていった。今思えば感謝の気持ちでお礼くらいいうのが当然だったのに。申し訳ない。
就職先で学生は忙しい時期に私の気持ちは決まっていた。
自衛隊だった。パイロットを目指し、航空学生を受けたが見事に不合格。
一浪しようとしたけど、事業を辞めた家にそんな余力は無いことはよく解っていた。
直ぐにでも仕送りをしないと。
気が付けば、陸上自衛隊前期教育課程の中、教官に怒鳴られながらハイポートで走っている自分がいた。同期には色んな目標を抱いてココに来ている。強さ、金、肩書き、親孝行、色んな奴がいた。
学生生活で泣いたことはなかったが、前期から後期教育に移るとき別れもあった際に泣いた事は忘れられない。別れが悲しいと思ったのはこのときが初めての経験だった。貴重な同期達だったことに気が付いたんだった。前期教育が終わる頃、どんな部隊に職種を決めるか教官に問われた時に、私は特殊なことがしたいと言った。たまたま、こんなのどうだ?と写真を見せられた一枚のもの。
それはヘリボーン作戦をしている写真だった。これやってみたい!と二つ返事で「ハイ!」
ところが、それは陸上自衛隊の中の航空機整備だった。それに気が付いたのは後のことだった。
当時は全く周りが恐ろしく見えていない青年だった。そして後期教育で飛ばされたのが北海道。
帯広駐屯地だった。後悔したのは着任の1日目からだった。全くというと語弊だが、とにかく3ヶ月間は回転翼(ヘリ)、固定翼(連絡偵察機)の整備に関する勉強。勉強、勉強。
後期を陸自の北部方面航空隊長から優秀賞を貰ったが全く何とも思わなかった。
が、これが後に自分の足を引っ張ることに。
後期を終えて部隊配属が丘珠駐屯地に配属され、私の整備機は連絡偵察機LRになった。
ここの部隊でも日々、勉強だった。体を動かすこと、強くなることが目的だったのに。
配属され数ヶ月で転属依頼を上官に申し立てた。当然、何をいってやがる!!と一喝を入れられ。
監禁されようが自分の意思を変えるつもりは無かった。
私の転属希望は陸自で最強といわれる第一空挺団。
空挺には空挺試験があり、これに合格した者が空挺団に配属される。
小さな丘珠駐屯地の中では一気にその噂が広がり、よそ者扱いを翌日からされることになる。
今まで優しかった上官が、お前はよその子だ。早く行ってしまえ。
生意気なこと言ってんじゃねぇ。お前には無理だ。
正直、そんなことを言われて余計に行きたくなった。
ある噂話が耳に入る。
例えばランニング、乳首がシャツとこすれて血が出るまで走らされる。
例えばパラシュート着地で骨折、骨折は怪我にならない。足を骨折しても房総半島の中で戦闘訓練は敢行される。
例えば水、山の中で水が枯渇し水が飲みたければションベン飲みを敢行。
例えば腕立て、死ぬまで。
とにかく私の転属を聞いた周りの隊員が色んな噂を耳に入れてくる。
そんなことを言われるもんだから、本人は必死に鍛えまくった。周りは変な目で見ていたけど形振り構ってられなかった。このころになると体重は80キロ超、胸は1メーター、腹はシックスパックで腹斜筋がくっきり。上官ワック(婦人自衛官)によく胸を動かせて笑ってもらったもんだ。
ともあれ、上官も私の大馬鹿さに折れたのか何とか無事、空挺試験を受けることを許され晴れて千葉習志野駐屯地に着いた。そう、蝉の泣く季節の頃だった。