再掲 「いつ夕」解説 63
六日目 Ⅶ
前回の記事にも通ずることですが、
一矢は、自分の甘えや弱さを消そうとしてきました。
自分の快楽、欲求を優先してしまうことを、甘え、弱さ、と、云うならば、
その根本である、欲求、欲望を消そうともしてきました。
しかし、欲望の根源が自己愛である、と、気づき、
生きている限り、自己愛はあり、自己愛があるなら、欲望もある。
欲望は無理に消さなくても好い。(無理しても消せない)
その表現方法を工夫、調整すれば好いんだ。
と、ゆーことに辿り着きました。
一矢は、『導く』 『流す』 と、表現しています。
欲望の方向づけですかね。
以前は、『制御する』と思っていたそうですから、
意識して、時には強引に方向づけ、操作していたのでしょうが、
徐々に慣れてきて、軽く、弱い意識で欲望を導けるようになれた、
稽古、訓練、習慣、といったことにも通ずるのでしょう。
(俺は、まだまだですが) (^_^;)
若しくは、欲望そのものが、小さく、軽く、浅く、弱くなっているのかもしれません。
抑圧が弱くなっているのかもしれませんね。
作用反作用みたいなもので、
強い欲望は、現実や他者に承認されにくいでしょうから、
(虫のいい欲望は、思い通りにはゆきにくいでしょうから)
強い抑圧を生み、強い抑圧は、強く、激しい欲望を生み、
その欲望は、さらに強い抑圧を生み……、
と、悪循環、負の連鎖、といったことになるのでしょう。
これを記していて、超新星の爆発を連想しました。
あまりに大きな欲望と強い抑圧は、ブラックホールを生みかねない。
残虐な殺人、虐殺、迫害を行う者の精神は、
ブラックホール化しているのではないのか、と。
ゾッとします。(^_^;)
ブラックホールとまではいかなくとも、
強い欲望と抑圧の連鎖は身を滅ぼしかねない。
身体を壊したり、病気になったり、心を病んだり……。
我が身を滅ぼすだけならまだしも、他者まで巻き込むとハタ迷惑ですなあ。
欲望が先か、抑圧が先か、と、云えば、
まあ、自己愛が欲望の元なので、欲望が先ではあるのでしょうが、
幼児期、まだ自己愛も欲望も認識、把握できていない時に抑圧があるのですから、
抑圧が先とも云えるのでしょう。
大袈裟に云えば、生まれ出た赤ちゃんがオギャーと泣き叫ぶのは、
外界からの抑圧に堪えかねての悲痛な叫びなのかもしれません。
だからといって、俺は抑圧を否定、消去しようと云っているのではありません。
抑圧があるからこそ、成長 (変化) できると思いますし、
変化は、『存在』の本質である、「表現と他者の必要性」の表現ですから、
抑圧=圧力=重力は存在に必要不可欠だと思っています。
心理的にも物理的にも。
抑圧を楽しめれば好いのでしょうね。
ただ、まだ自我が未発達な時期、幼少期に過度の抑圧を受けると、
障害が出かねないので、親御さんには気をつけて戴きたいのと、
もう既に過度の抑圧を受けて育った人は、そのことを認識、把握して、
それを親の、過去の所為にするのではなく、自らが解決する課題である、と、
研究と云えばいいのか、つき合ってゆくと云うのか、
解して、解いていって戴きたいものです。(解くことを楽しめれば好いのですが)
欲望と抑圧の課題、研究は、個人の問題というだけではなく、
人類の問題、課題だとも思えるのです。
これは、自己と他者、幻想と現実、という問題にも通じています。
ひとりひとりが、この問題、課題を解いてゆく、
簡単には解けないかもしれませんが、
〝解いてゆく〟ということが大切なのではないでしょうか。
それこそ、〝する〟という意志を持って、解いてゆく。
本能が壊れている人類ですが、辛いことばかりではありません。
本能が壊れていなければ、本能のまま、本能に従い、
自然、現実と調和して生きていた (生きるなんて観念も持っていない) でしょうが、
本能が壊れたがゆえに、
自然、現実との調和を自らが考えてゆかなければならない。
何やら面倒くさいようですが、
自らが考える、自らの意志が持てる、という、楽しさがあるのではないでしょうか。
折角ある、この能力を十全に活かし、
様々な課題、問題を楽しみながら解いてゆき、
素晴らしい、調和の社会、世界を築いても好いんじゃあないでしょうか。
「いつ夕」の主題の一つですね。(*^_^*)
日日好日
そして、
暁をまちながら