再掲 「いつ夕」解説 62

六日目 Ⅵ

 

 

 

好美さんと友子は連れ立って去りゆき、

 

Kool には、ヨシ君と一矢、ふたりだけとなりました。

 

ヨシ君の問いかけに一矢が答えるわけですが、

 

一矢の言っていることは、そのまま俺のことでもあります。

 

思えば、10代~30代は、この葛藤の時期でしたね。

 

一矢が言うように、

 

「結婚しないのなら、女性とつき合わなければよかった」のでしょうが、

 

それができなかった。

 

ですから、この時期お世話になった女性たちには、申し訳ない気持ちと、

 

その気持ちも含めて、感謝しています。

 

様々な分析を試みて、この葛藤を解決しようとしましたが果たせませんでした。

 

現在、葛藤から解放されて振り返れば、その原因は、

 

「性欲」であり、その元は、「男であること」という価値観、固定観念である、

 

と、解るのですが、

 

当時は、「性欲」も「男であること」も「幻想である」 と知ってはいても、

 

腑に落ちてはいなかったのです。

 

 

生まれた時から、男は、男性として育てられます。

 

こう述べると、普遍的な感じになってしまうので、

 

〝俺は〟「男性として」育てられました。生物学的に「オス」だったし、

 

両親も、俺を「オス」なのに女性として育てる趣向はなかったですから。

 

両親だけでなく、親族、近所の人や世間から男性、男の子として接せられます。

 

一番近しい「男として」のモデルは父親でしょう。

 

(父親よりも、母親が描く男性像の方が影響力があるかも)

 

その後、同性の友たち、先輩、

 

スターや漫画、小説の男性の登場人物などをモデルとし、

 

母親や近しい女性たちが描き、求める男性像なども参考にして、

 

「男として」の人格形成をしてゆきます。「男として」の自己同一性ですね。

 

「自分として」の人格形成もしてはゆくのですが、

 

まだまだモデルや他者の影響が強いでしょう。

 

女性もそうでしょうが、男性も、モノゴココロついた時には、

 

異性を求めること、恋愛、結婚、夫婦、家庭生活、子育て、といったことが、

 

当然である、常識的で一般的である、

 

と、思い込んでいる(思い込まされている)わけです。

 

大抵の物語、漫画、アニメ、テレビドラマ、映画、小説の主人公には、

 

美しく素敵な恋人がいて、多少の困難があっても、それを乗り越えて、

 

幸せに暮らしましたとさ、という筋書きでしょう。

 

そして、男性は、女性を求め、女性にモテることが素晴らしいことで、

 

美女と、沢山の女性と性交することが素晴らしく、

 

その質、その数が誇らしいことであり、

 

生殖本能とも結びつけて、それを正当化しているようにも思えます。

 

確かに、周りの生物たちの多くは性交しています。

 

彼らは、本能に従い生殖しているだけですが、

 

人間は生殖に関係ない性交もしますね。

 

(俺も一時期、「本能なのかなあ」と思っていました。本能は壊れていても、

 

その名残りのような衝動はあるのではないか、と) (^_^;)

 

「すべては幻想である」と知ってはいても、「本能なのか?」と思わせてしまうくらい、

 

この「男として」の価値観、固定観念は根深く、根強いのでしょう。

 

単純に云えば、「男として」の証明、確認するのには、女性との性交が手っ取り早く、

 

実感があり、確実性があるからでしょう。

 

「女性と性交できる(できた)」=「自分は男である」とゆーわけです。

 

他の「男として」「男らしさ」という観念は、筋肉隆々、正々堂々、勇気度胸があり、

 

一本筋が通っていて、強く、逞しく、サッパリしている、などなど漠然としていて、

 

また女性にも、それらの性質を持った人はいるのですから、

 

結局は「オス」としての性器、

 

それを元にした性行為に「男として」の支えを求めることが安直なのでしょう。

 

何せ、性交しなければ子孫繁栄は無く、人類が絶滅してしまうのですから、

 

男性は女性との性交を求めるように仕向けなければなりません。

 

人類が誕生してから、現在まで人類は存続していますから、

 

その志向は成功してきたのでしょうね。

 

(時代によって、その形態、強弱は様々でしょうが)

 

人類の存亡をかけた志向、観念なので、その拘束力は強大ですし、

 

生まれた時から、親や世間から様々なカタチで刷り込まれるのですから、

 

(親や世間も、刷り込むつもりはなく、その観念を信じているのですから)

 

なかなか解けないのも仕方がないことなのかもしれません。

 

 

現在、俺が楽なのは、「男として」「男らしさ」という観念から解放され、

 

「俺らしさ」、「三王一好として」という観念で自己を支えられている、

 

(その観念の背後、支えには、『 存在 』があるわけですが)

 

まあ、自己確立がなされているからなのかもしれません。

 

(勿論、これも「幻想」です)

 

年齢も関係があるのかもしれませんが、

 

女性を対象として、性交によって、

 

自らが「男として」の確認、証明をしなくても好くなったのでしょう。

 

いつものことですが、解けてしまえば、「なーんだ」ってなもんですね。

 

五十歳を前にして、やっと一つの課題が解けたようです。

 

スッキリしました。(*^_^*)

 

これは、性欲だけの問題ではなく、地位名誉権力出世欲、金銭欲、物欲などの

 

様々な欲望 (幻想) の背景、根本には、

 

どんな価値観、観念 (幻想) があるのか解明してゆくことにも繋がることでしょう。

 

原因が解るだけでも、楽になれるような気がします。

 

「なーんだ」ってなもんです。(^_^)

 

 

「いつ夕」での一矢には、俺がしないことをしてもらうので、

 

〝する〟という意志を持って、友子とつき合ってゆくように描きました。

 

一矢が、やや力んでいるのは、俺がするつもりがないことを、

 

一矢が〝する〟からでしょうね。

 

(ご苦労さんです。でも、相手が友子なので御寛恕ください)

 

ヨシ君に、〝する〟という意志の大切さを知ってもらいたい、

 

と、ゆーこともありますが、

 

「すべては幻想である」と気づいたのなら、

 

後は、自らの意志 (幻想) 次第、と、ゆーことでもあります。

 

\(^o^)/

 

 

日日好日

 

 

つくづく、人生とは不思議なものですね~。

 

上掲の記事を記したのは2017年なのですが、

 

その二年後に〝奇跡〟が起こるのです。

 

まあ、俺的には、解放されたからこそ、とも思えるのですが、

 

それは、後づけの解釈であり、

 

ありがたいことに変わりはありません。

 

(「いつ夕」で予行演習をしていたのも好かったのかな)

 

 

〝奇跡〟を素直に享受できたのも、

 

「俺らしく」「俺だからこそ」という観念(幻想)があったからでしょうし、

 

相手も、それを分かってくれたからでしょう。

 

ありがとう。

 

☆☆☆☆☆

 

 

 

暁をまちながら