再掲 「いつ夕」解説 61

六日目 Ⅴ

 

 

 

逝ってしまった人の望みを察する。

 

自らが逝ったとして、残された者に何を望むのか考えてみる。

 

死者には執着がないとすると、逝った者が生きている者へ望むことは、

 

悲嘆、崇拝、復讐、怨恨、嫉妬、祟り、怨念、憎悪などではなく、

 

今、生きていることを大切にすること。

 

思い遣りを持つこと。幸せであること。

 

それが、好美さんと一矢が気づいたことでした。

 

導き出され、決めた答でした。

 

その答は、ヨシ君の心にも響いてくれたようです。

 

 

少し重たくなった空気を、吹き飛ばすかのように友子が現れます。

 

何だかんだと、場が和んだ頃、友子は「逃亡者」を註文するのですが、

 

この時のヨシ君の思い、

 

「……逃げて来たのだとしても逃げようとしても自分の心からは逃げられはしない」

 

は、自らが逃げていることに気づき、認めなければ分からないことなのでしょう。

 

自分を見詰め始めたヨシ君は、

 

自分の人生から逃れられないことに気づけたのでしょう。

 

 

一矢の代わり?に、友子が解説する「逃亡者」の舞台、

 

オーストラリアのグレートオーシャンロード、

 

「永吉岬」とは、どんなところなのでしょうか。

 

画像で紹介させて戴きます。

 

     

ちょうど真ん中に「永吉岬」があります。     

 

「12人の使徒」と呼ばれる奇岩群。何だか、「三王岩」を思わせますね。

 

先端部の「目」がチャーミング。

 

     

いよいよ、日が暮れてきました。    

 

画像じゃ、断崖絶壁感がないですねえ。

 

これが「永吉岬」の先端部です。

 

「永吉岬」から見た夕焼け

 

 

 

 

グレートオーシャンロードを駈けた、「松風」の兄弟車。

YAMAHA ビラーゴ 250。

 

 

一矢は、ここに立ち、全てに感謝し、

 

夕焼けに染まる海と空に体と心がとけて広がってゆく…。

 

そんな爽やかな清々しい感覚を味わえました。

 

俺も同感です。(*^_^*)

 

思えば、岬とは、御先、身先、未先、ギリギリの先、自身、自己を突き詰めた先、

 

未だ来ぬ先 (今しか感知できない。♪ 誰も明日を~ Nobody  Knows…)

 

自己を突き詰める、見詰めるには、もってこいの場なのでしょう。

 

自己を突き詰めれば、〝今、ここに生きている〟に辿り着き、

 

今、ここに生きているからこそ、全てが存在しているのだと、

 

全てが存在しているからこそ、今、ここに生きて、生きられ、生かされているのだと、

 

全てに感謝し、全ての存在に一体感を感じられるのでしょう。

 

\(^o^)/

 

 

日日好日

 

そして、

 

暁をまちながら