再掲 「いつ夕」解説 60

六日目 Ⅳ

 

 

 

親子関係のことは、度々、述べさせてもらっていますので、

 

繰り返しになるかと思いますが、

 

やはり、重要なことだと思いますので、記させて戴きます。

 

とは云っても、俺には俺の親子関係しか体験がなく、

 

我が親子関係が普遍的、一般的だとは思っていません。

 

ただ、大まかな道筋は共通点があるかと思います。

 

個人の人格形成に親子関係が重要なのは、

 

それが、個人が無知無能で生まれ、それを親が育てるからでしょう。

 

オギャーと生まれて、既に四〇歳くらいの知識経験を持ち、

 

瞬く間に成人するのなら、「生んでくれてありがとう」くらいなもので、

 

親子〝関係〟などと云う程でもないでしょうが、

 

実際は、そうではないですね。

 

子は、親から、手本を示され、しつけられ、

 

強制強用され、教えられ、伝えられ……、

 

直接、間接的に影響を受けます。

 

ですから、人格形成に親子関係は重要なのですが、

 

しかし、成長してしまえば、自己確立をしてしまえば、

 

さほど重要ではない、とも云えるでしょう。

 

これは、子育てをしている親にとっては、親子関係が子供に影響を与えるので、

 

充分な配慮が必要なのですが、(親自身の自己確立が重要とも云えます)

 

成長した子供にとっては、さほど気にし過ぎることではない、

 

(親によりますが (^_^;))

 

と、ゆーことです。

 

 

自己確立とは、今、現在、ここにある自己を確認することでもあります。

 

今の自己から見れば、親に育てられていた時期は、過去なのです。

 

もう、戻りようも、やり直しようもない過ぎ去って終わったことなのです。

 

「神経症とは回想の病」とも云われるそうですが、

 

記憶の固執 (ダリの絵にもありますね)、執着、わだかまり、

 

更には、その記憶すらも歪められ、自らが歪めていることもあります。

 

神経症に精神分析が有効だというのは、

 

この〝記憶の固執〟を、記憶の歪みを、諦かにするからでしょう。

 

何故、その記憶に固執し、歪んで、歪められているのか、自らが歪めているのか、

 

記憶の解釈、意味づけに何らかの作為、

 

大抵は、屈辱、劣等感、といったモノを、強く否定、否認、抑圧しているから、

 

固まり、歪んでいる、歪めているのでしょう。

 

子供だったんだから、仕方がないのです。

 

その屈辱、劣等感を与えた親も、若く、未熟だったんですから、

 

仕方がなかったのです。

 

過去のことは、過去のこととして諦かにする。 (諦める)

 

過去のことを、現在のことにはしない。割り切るというヤツです。

 

諦かになれば、認められる。諦められる。割り切れられる。

 

屈辱、劣等感を抱いたことをも認められるでしょう。

 

不思議なもので、認めてしまえば気にならなくなるものです。

 

まあ、自分には嘘をつけないからなんでしょうね。

 

〝あった〟ことを〝なかった〟ことにしたくて、改竄、欺瞞、抑圧するのでしょうが、

 

〝あった〟事実は事実です。いくら小細工しようが、その事実は消えません。

 

事実を認めれば、それはもう過去のことなのですから、変えようもなく、仕方がなく、

 

諦められますね。所謂、「どうしようもない」ことですから。

 

確かに、人格形成に成長期の親子関係は重要でしょうが、

 

成長し、ある程度の人格形成、自己確立を果たしてしまえば、

 

それは、過去の親子関係です。今更、どうしようもありません。

 

親に、謝ってもらいたいのか、復讐したいのかは、人それぞれでしょうが、

 

それをしたからといって、過去は変わらないし、消えません。気は済むのかな?

 

過去を諦かにし、認め、嫌だったこと、辛かった、悲しかったことは、

 

今、これからに、活かせばいいのではないでしょうか。

 

自分がされて、嫌だった、辛かった、悲しかったことは人にしない、

 

と、いうようにです。

 

自分がして (しなくて) 後悔、反省したことも同様です。

 

人格形成にしろ、自己確立にしろ、

 

親子関係、過去を認められれば、諦かにすれば、

 

いくらでも更新できるのではないでしょうか。

 

認識、把握していないものは、更新しようがないでしょうから。

 

回りくどく、いささか慎重な物言いですが、要は、

 

「いい大人が、いつまでも親 (過去) の所為にしない」 と、いうことです。

 

過去があって、現在があります。過去の経験、知識は現在に活かされています。

 

しかし、過去にとらわれ過ぎると厄介なことになる。

 

だって、過去はどうしようもないからです。過去と現在は〝違う〟からです。

 

過去に責任転嫁しても、過去は責任を取ってくれませんし、取りようもありません。

 

(これは、自分が他者にしたことを、「もう過去のことだからえーじゃないか」とは、

 

違うことを御了承ください。「キリ」「ケリ」をつけてでのことです。

 

逆に「キリ」「ケリ」がついているのにグダグダいうのも止めましょうね。

 

あと、無理に過去を消すこと、「なかった」ことにすることも止めましょう。

 

無理に忘れなくていーのではないでしょうか。気になるのならトコトン突き詰めて、

 

「キリ」「ケリ」がつくまで分析、究明、解明すればいーかと思います。

 

自然に忘れているのなら、それは気にしていないことなので好いのですが)

 

過去と現在を混同するからヤヤコシイのでしょう。

 

自分の過去の分析、整理整頓をしておけば好いのかもしれませんね。

 

まあ、現在、未来に、目標に向かって〝今〟に、集中し、楽しんでいる人には、

 

過去はあまり気にならないのかもしれませんね。

 

今、好きなこと、好きな人に夢中ならば、

 

過去のこと、人を、気にする間もないのでしょう。

 

今が苦しいから、過去(他者)に理由、原因を求めてしまうのかもしれません。

 

苦しい時こそ、自己分析、究明、解明、認識、把握のチャンスなのでしょう。

 

誤魔化し、欺瞞し、隠蔽改竄捏造、責任転嫁、放棄しても、自分に嘘はつけません。

 

しっかりと自分と向き合い、自己を見つめることをオススメします。

 

 

こんなことが云えるのも、俺は、母も父も逝っていて、

 

現在、親子関係から解放されているからでしょう。

 

現在、親がいないので、過去と現在の混同が少ないからでしょう。

 

(自分は整理できていても、親が混同していてはヤヤコシイですから。

 

と、ゆーことは、親や事件の当事者が生きている間は、

 

過去からの解放は難しいのかなあ)

 

現在、親が生きていて、親子関係が継続中の人にとっては、

 

難しいことかもしれませんが、

 

支配、寄生、依存、責任転嫁、放棄ではなく、

 

自立した個人と個人としての親子関係に、

 

更新してみるのも好いのではないでしょうか。

 

そのためには、やはり、自己確立が必要なんでしょうね。

 

個人個人が自己確立されていれば、自他共に自己確立がなされていれば、

 

話は早いのでしょうから。

 

「いつ夕」の主題の一つが、自己確立なのは、

 

そして、その先の調和なのは、その必要性、重要性を広めたいからでもあります。

 

自立を突き詰めれば、他者との調和になり、

 

他者との調和を突き詰めれば、自立となる。

 

自己と他者。幻想と現実。個人と集団。

 

この一見、矛盾、対立しているように見られるものが繋がっている。

 

その繋がりは、支配、強用強制、否定排除、

 

寄生、依存、責任転嫁、責任放棄ではなく、

 

調和が好ましい、と、俺は思っています。

 

それも提示したかったわけです。

 

面倒な小説で申し訳ありません。

 

(*^_^*)

 

 

日日好日

 

 

 

そーですねー。

 

長々と記してありますが、今回、補足するならば、

 

自己確立、と、云っても、カチンコチンのガチガチなコトではなく、

 

(所謂、「気をつけ」、直立不動ではなく)

 

自然に、楽に立っている感じですかね~♪

 

まあ、確立するまでは、型に嵌めたり嵌ったりもするのでしょうが、

 

それが目的、本意ではなく、

 

自然に、楽に、あるがままにあたりまえに立っている立っていられる。

 

これが、俺の想う、自己確立です。

 

参考にしてみてください。

 

 

 

 

暁をまちながら