再掲 「いつ夕」解説 59

六日目 Ⅲ

 

 

 

元気になったヨシ君はカツ丼を掻っ込み、

 

激しい雨に打たれながらも、Kool へ向かいます。

 

自分がやってしまったこと、友子が好きな感情を、淋しさも切なさも、

 

否定、消去、抑圧するのではなく、認め、抱えながら前へ向いて進むことを

 

ヨシ君は決意しました。

 

 

Kool には先客が一人。

 

好美さんです。俺の母に登場してもらいました。

 

(母は「好」の一文字で「よしみ」ですが)

 

この「いつか見た夕焼け」は、俺の処女作です。代表作とも謂えるでしょう。

 

なので、母をこの作品に刻み込みたかったのです。

 

ヨシ君に「カンパリソーダ」を御馳走したことからの流れで、お遍路の話になります。

 

舞台が松山→愛媛→四国なこともありますが、

 

あの時代、唐まで行って帰ってきた空海さんは旅の大先輩でもあり、

 

尊敬していますので、少しですが触れさせて戴きました。

 

葬式や法事、戒名代、謝礼金など、ビジネスとしての仏教には興味がありませんが、

 

般若心経や禅などの哲学としての仏教は響感することも多く好きです。

 

俺が、繰り返し繰り返し、同じことを述べているのも、お経を唱えているようなもので、

 

「一切は空」「色即是空 空即是色」は「すべては幻想である」に通ずるかと思います。

 

 

好美さんは、息子を亡くし供養のために遍路をしたのですが、

 

これは、俺は母を亡くして途方に暮れましたが、

 

その逆だったら、つまり、俺が先に逝っていたら、母はどう思っただろうか、

 

どう生きるのだろうか、

 

そして、俺は残された母に何を望む (死んでいるので望めないのですが) のだろうか、

 

と、ゆー観点から想起したことです。

 

まあ、母は供養も幻想だと分かっていましたから、

 

遍路したり、墓を立てたりはしなかったでしょう。

 

この、「死者の視点、観点」から物事を考えてみる、とゆーのも面白いことで、

 

肉体もなく、生きていないので執着もなく、現実に対して何の作用もできず、

 

一種の諦観で、物事のありのままをあるがままに観られるわけです。

 

そうなってくると、ただただ、生きている者の幸せを望むくらいが関の山でしょう。

 

物理的には何にもできないのですから、望み、願い、祈ることくらいしかできません。

 

墓、法事、お供えの饅頭に金を遣うのなら、あんたの、家族の、友人の為に、

 

今、生きている者の為に遣ってくれ、皆の幸せの為に遣ってくれ、

 

それは、金に限らず、時間、労力、気持ちも、生きている者の為に遣ってもらいたい、

 

それで、花を愛でる時や美味しいものを食べる時など、日常のふとした瞬間に、

 

思い出してくれたら、それで充分。そんな感じじゃあないですかね。(*^_^*)

 

我が母子の場合は、それが共通意識 (共同幻想) でしたから、

 

母が逝った時も、途方には暮れましたが、

 

それ程、戸惑うこともなく、母の死を受け止めることができました。

 

好美さんの場合は、母子で、そんな共通意識を持たぬまま、

 

唐突に、息子に先立たれたので、戸惑い、悩み、苦しみ、

 

既存の形式である、遍路という行動によって、気を落ち着かせようとしたのでしょう。

 

自己が不安定になった時、縋りつくものは、人それぞれでしょう。

 

友子が海を見にゆくよーなもんです。

 

一種の現実逃避ですが、気分転換の機会でもあるかと思います。

 

その機会に、自己を見詰め、答を出せれば、決意できればいいのでしょうが、

 

好美さんは巡り終えれば、元の木阿弥だったようですね。

 

しかし、「供養なんて、残された者の自己満足」 と、気づけ、

 

「自己憐憫」にも気がつくことができました。

 

(夫にも先立たれているのですから、ある程度は気づいていたでしょうが、

 

夫婦関係にもよりますが、やはり、息子は特別な存在でしょう)

 

「すべては幻想」ですから、それに気づいてしまえば、虚しいもんです。

 

虚しいままに、自らの命までも、むなしくしてしまう人もいるのでしょうが、

 

好美さんには、御縁がありました。心配してくれる友がいてくれました。

 

一矢という支えと出逢えたのです。

 

逝ってしまった息子への想いを一矢へ重ねている面もあるでしょうが、

 

自分とは逆の立場、母を亡くした息子という一矢の母への想いと、

 

息子を亡くした母という好美さんの息子への想いが、ピタリと合ったのでしょうね。

 

こんなことは稀でしょうが、(小説ならではです)

 

俺も、母や逝った友人、大切な人達への想いを、今、生きている人達へ、

 

重ねている面もありますので、ふたりの疑似母子関係はあり得ることだと思います。

 

 

俺の感覚では、

 

後悔、贖罪でもなく、遺言、遺訓でもないでしょうが、

 

母の遺志を尊重する感じですかね、

 

〝あたしのことを想うとるんなら、今、生きている人達を大切におしよ〟

 

と、いう、母の声が響いているのです。

 

それは、先祖たち、先人たちの声にも思えるのです。

 

 

日日好日

 

 

 

時折、友たちや親しくなったお客さんたちに、

 

母のことを話させて戴いているのですが、

 

話しながら脳裏には母の姿が浮かびます。

 

実体として肉体としては居ないのですが、

 

俺の心には存在しているんですねー。

 

 

この場面、一矢の回想だけでなく、

 

好美さんに登場してもらったのは、

 

こんな風に、Kool のカウンターで、

 

また母とカンパリソーダを飲みながら話がしたいなあ、

 

と、いう俺の願望なのです。

 

 

 

暁をまちながら