再掲 「いつ夕」解説 57

六日目 Ⅰ

 

 

 

生きている限り、目は醒めます。

 

酔い潰れ正体を失って眠ったヨシ君も、生きて、生きられ、生かされている基本である

 

「食欲」、空腹によって目醒めます。

 

ヨシ君の父親は、酔ってクダを巻く性質(たち)だったようで、

 

そのことから、ヨシ君は、酔っぱらいに悪いイメージ (幻想) を抱いていました。

 

固定観念とゆーヤツですね。

 

しかし、自らが酔っぱらうことで、イメージとは、自分の思い込みであること、

 

(「すべては幻想である」と、ゆーことですね)

 

父親も酔わざるを得なかったのではないか、 

 

(ヨシ君は「父の弱さ」と解釈しています)

 

酔っぱらう気持ちは分かるけれども、

 

酔っぱらうだけでは何の解決にもならないことに気がつきます。

 

分かっているけど、止められないことも含めて。

 

 

焼魚定食の味噌汁から、母親の料理を連想したヨシ君は、

 

母への〝いたわり〟が足りていなかったことを後悔します。

 

まさに、「後悔、先に立たず」ですね。

 

失って、過ぎ去ってから気づくことってありますよね。

 

これは、俺の後悔でもあります。

 

〝子供〟だったから、仕方がないのかもしれませんが、

 

できる能力も時間もあったのに、しなかった、やろうとしなかった。

 

母に甘えていたのです。母も甘やかしてくれていたのでしょうが……。

 

成長しないと、〝大人〟にならないと分からないことってありますねえ。

 

この一節は、〝子供〟である人へのメッセージなわけですが、

 

結局、〝子供〟であるうちは分からないものなんでしょう。

 

その意味では、「いつ夕」も同じで、分からない人には分からない。

 

気づかない人は気づかない。

 

それでも、諦めずに記すのは、

 

俺も、諦めずに記してくれた、手本を示してくれた、先人たちがいるから、

 

いてくれたから、分かり、気づけたからです。

 

できるのにしなかった、やろうとしなかった、後悔があるからでもあります。

 

 

現在、先人たちが待ち望んでいた情報化社会となりました。

 

苦労して写本し、印刷し、馬を駈り、飛脚を走らせ伝えていた、

 

意志が、意思の疎通が、難なく、手軽にできるようになりました。

 

情報が溢れ過ぎて困るとの声もあるようですが、何事も経験です。

 

見る目を養い、感性を磨くのです。これも、やはり経験によるものでしょう。

 

これまでの、これからの豊富な経験により、

 

見る目は養われ、感性も研ぎ澄まされてゆくことでしょう。

 

そうなってくれば、固定観念にとらわれ過ぎることなく、

 

固執、絶対化、権威化、正義化、聖化などに気をつけながら、

 

(「すべては幻想である」ことを前提に自己確立をし、

 

カタチは大切ですが、凝り固まり過ぎないようにして、

 

自分と他者、幻想と現実 (自然、他者) との調整、調和をしてゆく)

 

人類の歴史の集大成 (大袈裟) 、先人たちが待望していた、俺も待望している、

 

調和 (平和) の社会、豊かな共存共栄の社会、世界を築いてゆける、

 

と、俺は信じています。(*^_^*) 

 

 

日日好日

 

 

そっかー、この文章って7年前に記したものなんですねー。

 

今、読み返しても、今の俺の考えと変わりありません。

 

7年の経験は得られましたが。

 

まあ、こんなことを記しておきながら、

 

自身の凝り固まり過ぎているトコロは、

 

なかなか緩められない、解せられない、和らげられないもんなんですなあ。

 

 

 

 

暁をまちながら