再掲 「いつ夕」解説 56

五日目 Ⅴ

 

 

 

雨の帰り途。

 

何となく、気まずくなり、沈黙の車内に「雨のハイウェイ」が切なく響きます。

 

五日目なのに、〝いつか〟見た夕焼けは見られません。

 

しかし、厚い雲に遮られていても、その向こうに、夕焼けは輝き広がっているのです。

 

 

ホテルの部屋のベッドに倒れ込んだヨシ君は、友子のお守りを見詰めます。

 

とうとう、現実の自分、自我に直面してしまった。

 

自分を見詰める時機が来たのです。

 

しかし、ずうーーっと、避けてきたことですから、戸惑いますね。

 

どう見詰めればいいのかも分かりませんね。

 

日曜日なので、Kool は定休日です。

 

取り敢えず、今夜は、アンヘルから貰ったブランデーを呷り、

 

現実の自分、本当の自分 (理想的な、自分が自分と思っている自分、セルフイメージ)、

 

どちらも自分なので、どちらも「正体」を失って眠るのが好いでしょう。

 

気づいたからには逃げられないのですから。   

 

一休みも大切です。

 

気づいてしまえば、こっちのもので、後は、考え、工夫し、調整してゆくだけなのですから。

 

 

 

「ボーイフレンド」の記事で、

 

「絶望とは、希望のはじまり」

 

と、記しました。

 

鴨川さんが言ったように、俺が絶望をしたことがないので、

 

こんなお気楽なことが云えるのかもしれませんし、

 

詭弁、逆説的解釈なのかもしれませんが、

 

絶望するのも、希望できるのも、生きているからこそ、と、思うのです。

 

生きているから、絶望できる。

 

死んでいたら、絶望できないでしょう。

 

生きていれば、希望も持てるのではないでしょうか。

 

何かに絶望したのなら、

 

今、生きて、生きられて、生かされていることに立ち還ってみる。

 

そこから、新たな希望が見出されるのではないかと、俺は思うのです。

 

現実が、自分の思い通りにならないから、絶望するのでしょう。

 

現実は〝他者〟と云えるかと思います。

 

他者は自分とは違うから他者であり、思い通りにならないから他者なのです。

 

(自分のこと、身体ですら、思い通りにはなりませんよね)

 

自分のことですらままならないのに、

 

他者が思い通りにならないから絶望するってのも虫がよすぎる話ではないでしょうか。

 

現実、他者が、思い通りにならないことが当然だとすると、

 

自分の思い通りになった、意に沿ったことというのは、

 

有難いこと、感謝することなのでしょうね。

 

自分のこと、命ですら、ままならないのに、今、生きて、生きられ、生かされている。

 

これって、有り難いことなんですね。奇跡とも云えるのではないでしょうか。

 

生きたいって思い、今、生きられている。既に、一つの望みが叶っているわけです。

 

生きている限り、その望みは叶え続けられているのです。

 

 

 

絶望した望みも、僅かな可能性に賭ける希望も、どちらも欲望でしょう。

 

その欲望が、理にかなっているのか、利己的なものなのか、

 

他者を不幸にする、ハタ迷惑なものなのか、自他共を幸せにすることなのか、

 

点検してみることも大切でしょうね。

 

生きている限り、望み (欲望) は絶えないでしょう。

 

無理に絶とうとしなくても好いと思います。(死んでしまうかも?)

 

わざわざ、自ら絶望しなくともいーでしょう。

 

ただ、欲望の方向性というのか、加減、調整、他者への関連などを考えてみる。

 

欲望を抱えているだけならいいのですが、行動する時、

 

特に、ハタ迷惑には充分注意して欲望を行動に移して戴きたいです。

 

何かに絶望したとしても、生きている限り、望みはあるのです。

 

早まらないでくださいね。

 

そして、どーせ、望みを持つならば、自分と、他者 (現実) を幸せにする

 

(幸せ→「し、あわせる」 自分と他者 (現実) とを調整してゆく、調和させてゆく)

 

望みを持とうじゃ、描こうじゃあないですか!

 

希望が見えたら、後は、目標に向かって、考え、工夫し、調整してゆくのです。

 

これって、結構、楽しいんじゃあないですかね~♪

 

\(^o^)/

 

 

日日好日

 

 

 

そうですねー。

 

今も、俺はお気楽者です。

 

そして、望みが絶えることもありませんねー。

 

これからも、望みを叶え続けてゆきます。

 

 

 

 

暁をまちながら