再掲 いつカク 11

「ボーイフレンド(改)」

 

 

 

前回の「幸福論」に続き、このカクテルも「いつ夕」には登場しませんが、

 

「あいこ」の場面に因んで紹介させて戴きます。(五日目はカクテルが出てこないので)

 

この場面、初稿からあったのですが、

 

その後、aiko さんの「ボーイフレンド」が気に入ったので、テトラポットを描き加えました。

 

♪ あ~  テトラポットのぼおってえ~……、ですね。(*^_^*)

 

 

 

ヨシ君を利用し、ヨシ君の気持ちに応えられない自分を責めている友子を

 

泣かせたくない、ヨシ君は、言葉を探すように海へ目を向けます。

 

テトラポットに打ち寄せ砕けた波が裂けて散ってゆく。

 

(これは、実朝の和歌へのオマージュです。

 

「大海の 磯もとどろに 寄する波  割れて砕けて裂けて散るかも」)

 

何とも絶望的な情景ですが、

 

絶望するからこそ、新たに希望を見出せるのではないでしょうか。

 

絶望とは、希望のはじまり、とも云えるのでしょう。

 

友子と恋人にはなれないが(絶望)、

 

友人(ボーイフレンド)にはなれるのではないか(希望)。

 

これは、ヨシ君にとって、友子が単に性欲の対象だけではなく、

 

人間的に尊敬し、好きだからでしょう。(性欲処理のナンパとは違うのです)

 

別に、恋人と友人の境界線が性行為だけということもないのでしょうが、

 

少なくとも友子は、その境界線を、一つの規範を守っているわけです。

 

(これも、俺の勝手な願望ですね。強制はしないが、自発的に守ってほしい。

 

女性はモノではないし、つき合っているからといって所有物、専用物でもないので、

 

自らの意志で、誰と寝ようが構わないのでしょうが、

 

束縛しない自由な関係には、それも含まれるのでしょうが、

 

それをされると、やっぱり寂しいものです) (^_^;)

 

そうゆーところも含めて、ヨシ君は友子が好きなのですから、

 

友子の意志を尊重せざるを得ない。

 

恋人になれない、性行為ができないのなら、関係を絶つのではなく、

 

お互いの過ちを認め許し「あいこ」にして、新たな関係を築いてゆくことを

 

ヨシ君は望みました。

 

 

友子は、ヨシ君の気持ちを受け入れてはくれませんでした。

 

(と、云っても、ヨシ君を全否定、全拒絶したのではありません。

 

友子の規範、ルール、美学を、優先順位を示したのです。

 

それは、自分がされて嫌なこと(浮気されること)は、

 

人(一矢)にしたくないからでもあります)

 

それはヨシ君にも分かっていたことですが、

 

激情に駈られ衝動的な行為をしてしまい、

 

その行為の説明をせざるを得なくなってしまう。

 

感情分析、精神分析ですね。感情、精神の言語化です。

 

言語化するということは、感情、思想といった、捉えどころのないモノを整理し、

 

一つのカタチとして表現することですから、表現したモノ→他者で、

 

ある程度は客観的に見られるようになるわけです。

 

わけの分からないモノの〝わけ〟〝モノ〟が解ってくると、

 

少しは落ち着けますよね。

 

 

友子という存在、自分の行為、という〝現実〟〝自我〟と直面しなければならない。

 

自分の行為に対して、自我が責任を果たさなければならなくなるのです。

 

これが、どうでもいい他者になら、無視することもできるのでしょうが、

 

愛する他者には、そうはいきません。

 

他者を愛することとは、他者に自己愛、自我を投影することとも云えるでしょうから、

 

自己愛、自我を守る為にも、カッコつけなくてはならない。

 

虚栄、偽善かもしれませんが、

 

愛する(肯定する)自己は、清く正しく美しくあらねばならない。

 

今回、ヨシ君は自己愛を我儘や友子を否定、なじり、傷つける表現ではなく、

 

認め、許し、いたわる表現を選びました。ぐだぐだと拗ねるのではなく、

 

カッコつけたんですね。それは、自己愛を投影した友子という〝鏡〟が、

 

清く正しく美しいから、カッコよい(自己規範、美学を守っている) からかもしれませんね。

 

友子の影響を受けたとも云えるでしょうし、

 

友子に自分の美学を見出したとも云えるでしょう。

 

正、反、合 (あいこ) の表現でもあります。

 

 

しばしば、愛する人の前で幼児化するのは、

 

愛する人に投影した自己愛に愛されたい、

 

自己愛を投影した他者を遣って自己愛を満たしたいからなのでしょう。

 

(他者を遣った自慰っていうのは言い過ぎですかねえ)

 

愛する人に母親像を重ねるのも、最初に自己愛を投影する対象が、

 

母親、母親的なものだからかもしれません。(刷り込み的な感じ)

 

これまでのヨシ君は、現実、自我と、それ程、直面することもなく、

 

現実、自我を直視することを避けていた、避けられていた、

 

すり抜け、すり抜けられていた、逃れ、逃れられていたのでしょうが、

 

自己愛を投影する存在、友子という他者(現実)に対面、直面することにより、

 

自己愛、自我を直視しなければならなくなったのです。

 

「自分を見詰める」とゆーヤツですね。

 

自分を見詰める為には、現実、他者、という、壁、鏡が必要なんですね。

 

「ボーイフレンド (改)」

 

ウオッカ・ベースにカルピス、「浪漫飛行」の派生型ですが、

 

青林檎のリキュール (青い果実 → 若さ、青春)、

 

GFJ (ガールフレンドではなく、グレープフルーツジュースの略)、

 

トニックウォーター (トニックは活気、元気の意味) が、入ります。

 

曲調や歌詞から、パッ、パッ、パッ、と、思いついた感じです。

 

原型は、ほぼ白色なのですが、

 

今回、写真映えを考慮して、ブルーキュラソーを沈めました。

 

何か、青っぽさを出したかったのです。

 

 

日日好日

 

 

 

昨年12月に橈骨神経麻痺で右手が不自由になり、

 

12月、1月と、松風を駈けさせてやれなかったので、

 

2月12日に北条の海へ。

 

快晴の下、松風も嬉しそう。

 

海を眺めつつ松風と駈ける。「松風冬爽」といった感じ。

 

「永吉岬」には先客が居たのでパス。

 

(ここは一人っきりで佇みたい場所なので)

 

 

「いつ夕」五日目、

 

ヨシ君と友子の場面のもととなった砂浜も眺められました。

 

やっぱ、海は好いですね~

 

早く逢って言いた~い♪

 

☆☆☆☆☆

 

 

 

 

 

暁をまちながら