再掲 「いつ夕」解説 54

五日目 Ⅲ

 

 

 

それにしても、友子は、なかなかいーことを言っています。(*^_^*)

 

「形式じゃなくて、心で想う。それが供養やと、あたしは思うとる」

 

これも暮らしが豊かになったのと、見栄や体裁もあるのでしょう、

 

何だか盛大にやり過ぎのような感もあります。

 

先祖を敬い、自分が死してからも敬ってもらいたい気持ちは、

 

分からないでもないですが、

 

ちゃんと心が結ばれていれば、墓や仏壇、

 

形式にとらわれることはないように思います。

 

俺は、祖母、祖父、母、父、友、先に逝った人のことを覚えていますし、

 

その人たちは、俺の心に存在しています。

 

個別の墓は廃して、共同墓地、供養塔くらいでいいんじゃないでしょうか。

 

「墓」というカタチで己が死んでからまでも自己愛を残し、残された人たちに、

 

生きている人たちに手間を、迷惑を掛けなくてもいいのではないでしょうか。

 

ちゃんと心が繋がっていれば、結ばれていれば、それでいいじゃあないですか。

 

 

「何も無いってことは、可能性が無限ってことやろう。いいやん、これから考えたら」

 

無いことを嘆くのではなく、無いことを喜び、無いからこそ楽しめる、

 

とゆー感じですかね。

 

ジジ臭いようですが、無いこと(知らない、できない、経験ない)は、

 

若さゆえでしょうから、思いっきり、挑戦し、楽しんでもらいたいものです。

 

ですから、早くに身を固め過ぎず、

 

(俺は、結婚、出産は30歳前後がいーんじゃないか、と、思います。

 

10代~20代半ば過ぎくらいまでは、男女共にしっかり遊んで、

 

仕事にも励んで、たくさん恋愛 (避妊はちゃんとしてくださいね) もして、

 

経験を重ね、ある程度の自己確立をし、自己責任がとれる状態になり、

 

見る目を養ってから、結婚、出産、子育てをして戴きたい)

 

自由に、自分の可能性を広げて戴きたいですね。

 

だいたい、無いことよりも有ることの方が悩みが尽きないのではないでしょうか。

 

人間関係、家財道具、土地だ、財産だ、家柄、家業だ、先程の墓だ……。

 

「結婚よりも、離婚の方が大変だ」とゆーのも、

 

有ること(結婚)を無いこと(離婚)にするのが大変なのでしょう。子供がいたら尚更です。

 

結婚した事実、子供がいる事実は、無くせませんし。

 

有ること、有り過ぎることは大変でしょう。

 

「立って半畳、寝て一畳、飯三合」 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」

 

何事も、ほどほどが好いのでしょうね。

 

 

「あの人が、そこにいるだけで幸せ、って思っとんよ」

 

これは、大切な人を失ってみないと、わかりにくいことなのかもしれませんが、

 

俺も、大切な人、友たち、皆さんに望むことは、健康で元気にいてくれたら、

 

それで好いのです。それが好いのです。

 

いずれ、お別れの時はくるのでしょうが、それまでは、元気でいてもらいたい。

 

俺も元気でいます。

 

お互い、元気でいましょうね。(*^_^*)  (「さとう式リンパケア」をオススメします)

 

友子のこの言葉は、椎名林檎さんの「幸福論」を意識しました。

 

なので、この後、二人が飲むシードルのラベルには林檎の絵があるわけです。

 

「時の流れと 空の色に 何も望みはしないように……そのままの君を愛しているゆえに」

 

「君がそこに生きているという真実だけで~えぇ  幸福なんです♪」

 

ありのままを認め、ありのままを愛す。

 

あるがままを認められ、あるがままを愛せられることが幸福なのかもしれませんね。

 

そして、それができるのも、生きている、生きられている、生かされているからです。

 

と、ゆーことは、〝今、生きている〟ということが~幸福なんですっ♪

 

\(^o^)/

 

 

日日好日

 

 

友子の名言集ってな感じになってますねえ。

 

まあ、言わせているのは作者の俺なのですが、

 

友子が言うからこそ好いのでしょう。

 

形式に囚われ過ぎず、無いことを嘆かず、

 

しかし、〝今、生きている〟事実、真実を大切にし、

 

そこから、はじめてゆこう、考えて、工夫してゆこう。

 

云い換えれば、過去に囚われ過ぎず、未来を嘆かず(悲観、絶望せず)、

 

〝今、生きている〟現在、現実を認識し、

 

生き、生きられ、生かされていることを喜び、感謝し、

 

自らが考え工夫してゆきながら、明日を未来を好く氣づいて築いてゆこう。

 

てな、感じですかね。

 

過去は過ぎ去り、未来は未だ来ていない。

 

どちらも、今は無いことです。

 

無いことを悩んでも無いのですから仕方も仕様もありません。

 

しかし、今はある。〝今、生きている〟ことは実感できる。

 

この実感から、氣づいて築いてゆけることはあるのではないでしょうか。

 

 

 

暁をまちながら