再掲 「いつ夕」解説 47

四日目 Ⅳ

 

 

 

友子のもてなしに、すっかり満足、好い気分になったヨシ君は、

 

 小高い山の頂へと続く遊歩道を登ってゆきます。

 

 なだらかな傾斜の芝生の公園では、様々な国、人種の人達が

 

 思い思いにくつろいでいます。のどかな、和やかな光景ですね。

 

 今は、まだ、こんな世界の実現は難しいでしょうが、

 

 ずーーーっと、先の未来には、この光景があたりまえになっていることでしょう。

 

 国際化だ、グローバルだ、と、聞こえますが、まだ時期尚早で、


現在は、自己確立の時期だと俺は思っています。

 

 と、ゆーのも、歴史を振り返れば、

 

 自己確立する前、若しくは途中、何とか自己確立したような国々が、

 

 侵略され、占領され、植民地支配され、戦争を仕掛けられ、引きずり込まれ、

 

 国家の自己確立、( 國體と云ってもいいかもしれませんが ) を、

 

 滅茶苦茶にされてしまった (今も尚ですが)、と、ゆーことがあり、

 

 それまでの伝統文化、歴史、戦争と敗戦、占領政策、全て総括し、

 

 自己の整理整頓をして、目標設定もして、

 

 〝新たな〟自己確立をしなければならない時期だと思うからです。

 

 國體、といふモノモノしい字をつかひましたが、何も過去と同じにするという

 

 ことではありません。過去と現在とは状況も違うし、その過去を経験して、

 

 経験したからこそ現在があるのです。参考にするのは好いと思いますが。

 

今までの過去、経験してきた全てをひっくるめて、

 

 己とは何なのか、どうありたいのか、を問い、

 

 今、己はこうであり、こうありたいのだ、と答を決めるのです。

 

 自己確立とは、「自他に自己紹介ができる」ことかもしれませんね。

 

 まあ、これも好みの問題なのかもしれませんが、

 

 個人で謂えば、一人一人が、自立し自活し、個人と個人が対等な関係であり、

 

 お互いがお互いを認め合い、尊重しあって、共存共栄してゆく社会、世界を、

 

 俺は好ましく思い、望んでいるのですが、

 

 なかには、自立せず依存したい、支配されたい人、

 

他者の自立を阻み、他者の人格を認めず、支配したい人もいるのでしょう。

 

 

 「いつ夕」に描かれているのは、俺の理想とする社会、世界の第一歩です。

 

 いきなり国をどうこうするのは、抵抗勢力が黙っていないでしょうから、

 

 まずは、地方都市のレベルから革命を起こす。

 

 勿論、武装 (物騒な) 革命ではなく、

 

(「武」は矛を止めることだから、暴力革命ですね)

 

思想 (志想)革命です。(^_^;)

 

 演説する人、議員になる人、人それぞれに遣り方があるでしょうが、

 

 俺は小説を選びました。その先の映画化も望んでいます。

 

 小説、映画で、思想革命の〝きっかけ〟をつくる、

 

 と、ゆーわけです。

 

 一地方都市が調和の社会を体現し、手本を示す。

 

 それに周りが感化されてゆく。

 

 個人も同じく、気づいた者が体現、実践し、手本を示す。

 

 悠長なようですが、俺は、この遣り方が好きですね。

 

 強制、押し付け、洗脳したって意味がない、

 

 自らが考え、自らが決め、自らが動かなければ、自立ではない。

 

 自立した者たちが築いてゆくのが、調和の社会だと俺は思うのです。

 

 

 山頂には、姉妹都市である、ドイツのフライブルグの聖堂をもとに、

 

 デザインされた国際交流館が建っています。

 

 キリスト教だろうが何だろうが教義がどうあれ、美しいものは美しい。

 

 美しい、素晴らしい、楽しいものに理屈はいりませんね。

 

 どこぞの国の博物館とは違い、他国からブン奪ってきたものはありません。

 

 友好国から寄贈されたものが展示されています。

 

 他国の、他者の、美しい、素晴らしい、楽しいもの、ことを知る

 

 〝きっかけ〟となることでしょう。

 

 

 黄昏の街。瀬戸内海に沈む夕陽。

 

空に広がる夕焼けへのヨシ君の祈りは、

 

俺の祈りでもあります。

 


 

日日好日

 

 

そうなんですよねー。

 

現在も、世界のアチラコチラで紛争が起こっていますが、

 

帝国主義、植民地支配、その後の独立運動、冷戦、クーデターなどの

 

ドサクサに紛れて、銭儲け主義の者たちが、

 

自らに都合のいい体制を築いてきた、築いている。

 

そして、多くの人を銭で支配している。それが現状でしょう。

 

未だに帝国主義、植民地支配の過ちの清算は終わっていないのです。

 

もっと云えば、

 

「支配」という過ちを認識していない人が多いのだと思います。

 

暴力だろうが、階級だろうが、銭であろうが、

 

人が人を支配することに俺は反対です。

 

支配している者も支配されている者も、自立、自己確立を考えて戴きたい。

 

まずは、銭で支配されていることに気づいて戴きたい。

 

そのようなことも考える〝きっかけ〟に、この記事たちや、

 

「いつ夕」がなってくれたなら幸いです。

 

 

 

 

 暁をまちながら