再掲 「いつ夕」解説 36

三日目 Ⅲ

 

 

 

 高砂と入れ違うようにしてチャリが登場します。

 

 これもほぼ本人が出演しているようなもので、

 

 彼の住む竹原町から名づけました。

 

 子供の頃に自転車を乗り回していたので、ついた渾名がチャリ。

 

 安直ですが、よくあることですよね?

 

 チャリは自転車から、単車へと興味が移り、更にはスピードに魅せられて、

 

 レーサーを志すのですが、長男ということもあって、家業を継ごうとした矢先、

 

 家業が潰れ、現在は単車屋を経営している、という身の上です。

 

 

 家業と長男。

 

 子供の頃は、親が社長の友の家へ遊びに行くと、裕福で、

 

 自室があり、オーディオセット、ゲームにテレビ……と、

 

 羨ましかったものですが、

 

 彼らには、家業を継がなければならない宿命が待ち受けていたのです。

 

 レーサーになりたい、野球選手、パイロット、自動車整備工、バーテンダー…、

 

 彼らにも様々な将来の夢があったことでしょう。

 

 しかし、長男が故に家業を継がなければならない。

 

 逃げれば、弟や妹、親族に迷惑を掛けることになる。両親が嘆く。

 

 俺の知っている長男たちは大抵、宿命を受け入れて家業を継いでいます。

 

 様々な葛藤があった(今もある) ことでしょう。

 

 特に気の毒なのは、、医者と坊さんですかね。

 

 能力、適性もなく、何よりも、やる気がないのに、

 

 小難しい試験に受かって資格を取り、患者を診なければならない。

 

 「医は仁術」なんてクソ喰らえ!でしょうね。

 

 教義に興味なく、信仰なく、人徳、人格者でもない、

 

 欲望、煩悩まみれの凡夫なのに、坊主の役を演じなければならない。

 

 悟ったようなことを宣わなければならない。煩わしいでしょうね。

 

 裕福ではあっても、医院の子、寺の子に生まれた不運を

 

 嘆いたこともあったのではないでしょうか。

 

 継がなくともいーのでしょうが、教員の子ってのも辛いでしょうねえ。

 

 

 俺は、好きなように生きてこられたし生きているので、

 

 (「あんたの好きなようにお生き」と言ってくれた、母に感謝しています)

 

 枷のある人生というのは、よく分かりませんが、

 

 (物質的に豊かでないとゆー枷はあったかな?)

 

 枷がある人からすれば、それが生まれた時から当たり前なので、

 

俺が思うほどには、気にならない、気にしていないのかもしれませんね。

 

 

 皆、親を選べず、家を選べず、生まれてくる。

 

 自らの意志でなく生まれてきた、この境遇 (親、家) が、

 

 後の自らの人生に深く関わってくるのが厄介ですね。

 

 人それぞれ、それぞれの境遇があります。

 

 チャリが言う、「どっちがいいかなんて分かりゃしない」

 

 「他人のことはよく見えるもんさ」は正直な述懐でしょう。

 

 ここで、ヨシ君は自らの境遇を考える〝きっかけ〟を得るのですが、

 

 これは、皆さんにも「自らの境遇」を考えて戴きたい、というわけです。

 

 自らの境遇を考えることは、自己の精神分析に繋がり、

 

 己を知ることに繋がる。

 

 己を知り、他者を知れば、境遇は様々、他人は他人、自分は自分、

 

 人それぞれに、よいことも悪いこともある。

 

 「どっちがいいかなんて分かりゃしない」し、

 

 「他人のことはよく見えるもん」だけれども、それはよく見える一部分だけで、

 

 その背景にどれだけの苦労が潜んでいるやら分からないし、

 

 (その笑顔の裏には辛い思いが潜んでいた……、みたいな)

 

 こちらが勝手に「よく見える」ように思っているだけかもしれない。

 

 よく見えているだけかもしれない。(勘違いかもしれない)

 

 それに「いい」と思い、「よく見える」のなら、

 

 自らも「いい」ように、「よく見える」ようにすればいい、なればいいのです。

 

 能力、容姿、適性、資産財産……、それこそ境遇は様々です。

 

 他人と比べて、「ない(ある)」ことを嘆き、他人を羨むよりも、

 

 自分に「ある(ない)」ことを喜び、

 

十全に活かした方が楽しいのではないでしょうか。

 

 自分自身を楽しめば好いのではないでしょうか。

 

 

 他者の境遇をよくよく知れば、よいことばかりじゃない、

 

 悲喜こもごも、お気の毒様、お互い様、と、分かる。

 

 それが分かれば、「思いやり」や「気遣い」もできるのではないでしょうか。

 

 よくは知らなくとも、皆、何かしら抱えている、と、察せられますよね。

 

さりげなく、 いたわりあって生きようじゃあないですか。

 

 

 生まれて来てしまったものは仕方がないように、その境遇も仕方がない。

 

 恨んでも、嘆いても、怒っても、憎んでも、他人を羨んでも、

 

生まれ直すことも、境遇を選ぶ (親を選ぶ) こともできない。

 

 仕方がないことに悩むより、仕方があることを考えてゆこうじゃあないですか。

 

 生まれてきたこと、自らの境遇を認め、受け入れ、(できれば、喜び、感謝し)

 

 では、今から、これから、どう生きるのか、を考え、決め、

 

 (できれば、苦しむより楽しく生きることを考えて戴きたいですが)

 

 日々を楽しく幸せに生きてくだされば幸いです。

 

 「いつ夕」には、そんな願いも込められています。

 


 

日日好日

 

 

 

 

近頃、云われている「親ガチャ」というヤツですねえ。

 

俺の「親ガチャ」は、アタリだと想っていますから、

 

ハズレと想っている人には、上掲の記事は響かないかもしれませんね。

 

しかし、ハズレと想っている人も、

 

今、生きて生きられ生かされていることを源にして、

 

幸せを氣づいて築いてもらいたいです。

 

その〝きっかけ〟に、これらの記事や、

 

「いつか見た夕焼け」がなってくれたなら幸いです。

 

 

 

 暁をまちながら