再掲 「いつ夕」解説 26

一日目 Ⅰ

 

 

 

二月五日は、「いつか見た夕焼けの日」

 

二月は、「いつか見た夕焼け読書月間」

 

と、ゆーことで、

 

俺が記した小説、「いつか見た夕焼け」の解説を再開させて戴きます。

 

前回の㉕までは、取り急ぎ、「いつ夕」に描かれている、

 

未来に向けての構想を記させて戴きました。

 

今回からは、「いつ夕」の日々を追いながら、

 

物語の展開や背景、俺の思想、意図、登場人物の設定、心理などを

 

解説させて戴きます。

 

 

では、早速、初日から。

 

題名を「いつか見た夕焼け」と決めてから、

 

夕焼けに始まり、夕焼けに終わる物語にしよう、

 

と、思っていました。

 

映画化も想定しての執筆でしたから、まず情景を想い描いてから、

 

それを文章で描写する、と、ゆー手法をとりました。

 

なので、冒頭の語句は「夕焼け」です。

 

映像ならば、まず美しい夕焼け空が画面いっぱいに広がって、

 

歩いてゆくヨシ君の背後から足元を映す感じでしょうか。

 

または、逆にヨシ君の足元をカメラで追い、立ち止まったところで、

 

夕焼けを映す。そして、「いつか見た夕焼け」とタイトルがドーン!

 

 

初めての一人旅、初めての街、しかも美しい街並み。

 

ヨシ君も男ですから、清楚な松山の女性達にトキメイたことでしょう。

 

長らく家に引き籠っていたことからの解放感、旅の高揚感、

 

母の故郷であることからの好奇心と、親しみ、懐かしさ、

 

様々な想いが、ヨシ君を街の散策へ夢中にさせます。

 

で、冒頭の場面。

 

実際の場所は、八坂通りと三番町通りの交差点で、

 

ヨシ君は、千舟町の方角 (南) から、八坂通りを歩いてくるわけです。

 

そして、三番町通り沿いに建ち並ぶビルの狭間の空に広がる夕焼けを見る。

 

夕焼けに足を止めてしまう。

 

夕焼けが、気持ちを萎えさせる、現実に引き戻させる。

 

もう日が暮れる。今日という日が終わってしまう。

 

歩き回った疲れと寒気と共に、寂しさが込み上げてきて溜息をつく。

 

憑かれたように夕焼けに向かって歩き出しながら、

 

夕焼けの明くる日は、晴れるんよ

 

ふっと、母の言葉を思い出す。

 

涙も滲むというものです。

 

アーケード (大街道商店街) には、沢山の人が行き交っています。

 

不思議なもので、人が賑わっている所ほど、孤独感が募る。

 

これは、俺の実体験で、旅先の街でお祭りなどに行き当たり、

 

楽し気に歩く大勢の人達を見ると、寂しさが込み上げてくる。

 

「群衆の中の孤独」を感じてしまう。

 

「何でこんな所に来てしまったんだろう」

 

ここで、回想シーンとなり、近未来の松山の街の様子が少し描かれます。

 

(以前の解説で記しましたので割愛します)

 

 

ヨシ君は、アーケードの人波をくぐり抜け、コリドー広場に辿り着きます。

 

三番町通り沿いの、この場所、執筆当時は、路地を挟んだ所に、

 

まだ映画館が建っていて(今は駐車場)、

 

コリドー広場想定地が空き地だったのですが、今は飲食店が建っています。

 

現在なら、映画館跡地の駐車場をコリドー広場にしても好いでしょうね。

 

(と、この文を記した後日、マンションが建つと聞きました……) 。゚(T^T)゚。

 

 

人影のないコリドー広場のベンチに腰掛けたヨシ君は、

 

噴水を眺めながら孤独に浸ります。

 

日はすっかり暮れてしまい、冬の冷たい夜風が身に沁みます。

 

「ここに座っていたってしようがない」

 

と、立ち上がったヨシ君は、噴水越しに灯を見つけます。

 

そして、その灯へと向かってゆきます。

 

 

(どんどん、続きます) (*^_^*)

 


 

 

この「再掲シリーズ」、

 

我ながら氣に入っています。

 

好きな小説や映画は何遍読んでも観ても好いですものね~。

 

この解説を読んでいると、

 

執筆時の記憶が蘇ってきて、

 

執筆という行為、感覚を反芻できて、面白く楽しいです。

 

これは著者のみの感覚なのでしょう。

 

ありがたいです。

 

 

日日好日

 

 

そして、

 

暁をまちながら